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烈火-02


 そうして。周瑜が孫権に長江の流域まで赴いて水軍の訓練の様子を視察して来る事と共に、その付近で起きていた山賊騒ぎの鎮圧を命じられたのは、そのすぐ翌日の事だった。
 前日の事もあり既にそうなる事を予測していたものの、周瑜は孫権が彼と目を合わすことすらなくその命令を告げた事に何とも遣り切れぬ思いを感じていた。

 ―――――仲謀様。
 貴方は望んでおいでなのでしょうか。もしかしたらこの任務で、運良く私が命を落として亡骸として帰って来るかも知れぬと…そうしてその時はもはや亡霊にかかずらう事無く、亡き兄上の事を思い出して不愉快な思いをする事も無いと。

「ご命令、確かに承りました。」

 何も問う事無く静かに頭を下げた周瑜へ、孫権は僅かに目を見開いた。

「…周兄…?」

 周瑜に戒められて二人だけの時にしか使わぬ呼び名を、今は大勢の居並ぶ朝議の間だというのに孫権は思わず使ってしまう。

「貴方に話がある。…皆、暫しの間席を外す事を許せ。」

 恐らくたった今この瞬間まで、孫権の中に周瑜と個人的に会話をするという思考は無かっただろうに。
 彼はそのまま周瑜を連れて自らの自室へと場所を移した。



 室内に入るや否や、孫権は以前より又格段に細くなったかに思える周瑜の肩を強い力で掴んだ。
 …対する周瑜は、咄嗟に僅かに顔を背けて正面から孫権の目を見ぬようにしたのだけれど。

「…どうして、何も言わない…?貴方は全て分かっているだろう、一昨日私の許へ届いた北の書簡の事も。」

 北の書簡―――――曹操から突如送られてきた脅迫文の事か。
 周瑜付きの密偵が丁度一昨日報告して来た…孫権が一昨日届いたと告げたという事は、その密偵の腕は随分と確かという事になる。

「…存じております。」

 短く応えた周瑜の表情は、普段と変わらず凪いだ水面の様に静かだ。

「それなのに何故何も言わぬのかと聞いている!」

 周瑜が冷静になればなる程に孫権が激昂していくのはいつもの図式ではあったけれど、今日のそれは何処か切れそうに張り詰めた細い糸にも似た危うさがあった。

「…御主君がお尋ねになるのなら愚見を申し上げましたが、私の意見など不要の事かと思いましたゆえ…。」

 小さく呟いた周瑜の未だ合わされる事の無い瞳に焦れて、孫権は不意に肩を掴んでいた片手を周瑜の顎へと移動させた。

「不要ではない、申してみよ。…兄上の一番御側近くに仕えた貴方なら、あの書簡にどう返事を返すのか。」

 孫権の手によって無理矢理合わされた視線の中で、ふと周瑜の瞳に激しい光が灯った。

「『降伏など笑止。返り討ちにしてくれる。』と貴方の兄上なら北の使者を斬ったでしょうし、私ならば…膝を折るつもりは無い、気に入らぬなら斬って捨てられよと使者に言付けて帰したでしょう。そして御主君、貴方なら…」

 其処で周瑜は一旦言葉を切り、続けてまたゆっくりと口を開いた。

「貴方なら…江東の民の行く末や家臣達の諫言を考慮して一旦は降伏という道をもお考えになるでしょうが、最後には軍をお進めになるのではありませんか。…兄君が貴方に呉を託したのは…『内治の才』と仰ったのは、貴方にそんな一面があるからでしょう。」

 確かに周瑜が先に述べた二つの言葉は今この時の情勢を見れば、随分と無謀な刹那的なものにも思える。
 孫策の言葉は自身のその確かな戦の才に裏付けられ、周瑜自身の言葉にはその複雑な思惑があった故ではあろうが。

 ほんの僅かに口許に笑みをはいた周瑜が、孫権の頬へ不意に触れた。

「今のこの国は貴方のもの…亡き兄君のものではありません。ですから貴方がどんな決断をなさろうともそれは貴方の自由…されど曹操に降伏した後に今の憂き目を見ている荊州の事をお忘れなさいません様。」

 周瑜が自分から孫権に触れてきた事など、呉の地で暮らした幼い日々を覗いては、久しく無かった事であった。

「貴方は丁度この時期に私に水軍の鍛錬をお命じになった。…それが使われる事があるのかどうかは別として、私は私の出来うる限りの全てをもってかの地の水軍を鍛えて来るつもりですよ。―――曹操と渡り合うならば…我らが用いるは水の上の戦が最上でございますゆえ。」

 元々彼に水軍の訓練を命じたのはその様な意図有ってのことでは無かった。
 命じた孫権は勿論、命じられた周瑜もその事は気付いていたが、それを新たな手駒として使ってしまう所に彼が呉国きっての軍師である所以があるのだろう。

「…それでは…。」

 ゆるりとその手を離して軽く礼を取った後に、周瑜はゆっくりと身体の向きを変える。
 孫権はその手の有するどちらかと言えば低い体温が離れていってしまうのを惜しみながら、その静かな横顔を見送る他無かった。

 ―――周兄。
 例え兄上に心奪われたままの貴方に負の感情を向けてしまう一面が己に有ったとしても…やはり私は貴方に惹かれずにはいられないから。
 己の強がりが邪魔をして『気を付けて』と口にする事は出来ないけれど。




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