玉蘭抄-06
そんな出来事があった日から、楸瑛と静蘭がまっすぐに視線を交わすことはなくなった。同じ羽林軍に籍を置いているとはいっても、他人を介していくらでも用は足りてしまうものなのだ。
紅貴妃の元に、様々な形で毒が送り込まれているとの報が入ったのは、丁度そんな頃だった。
「黎深様から秀麗へ、純銀の茶器を、だそうだ。」
苦い顔で呟いた絳攸に、楸瑛の瞳の光が強くなる。藍家直属の影からもその報告は入っており、劉輝をまだ終の主と定めたわけではなくても、楸瑛は王やその親しい者達の身辺を脅かすものを警戒していた。
(こんなことを敢えて言っても詮無いが…時期が悪い。この間の一件で、静蘭の正体に宗太傳も確信を持っただろう。とすれば、朝廷三師は皆気付いていると見ていい…霄太師は初めから知っていたのかもしれないけれど。)
かつての第二公子の帰還は、それだけで朝廷内に波紋を起こす。本人が望むと望まざるとに関わらず、かの人は争いの渦中に巻き込まれるだろうとそんな予感がした。
出来れば、此度こそは…僅かなりとも力になれたらいい。
「楸瑛…?」
どうかしたのかと怪訝そうな目を向ける絳攸に、ふっと思考を引き戻される。
「すまない、何でもないよ。主上とも図って、紅貴妃の身辺に今まで以上に気を配るようにしよう。」
そしてそれだけではなく、静蘭の身辺にも。
そんな胸中の思いは絳攸まで伝わる筈もなかったけれど、『背後関係の洗い出しは任せておけ』と絳攸は楸瑛に向かって力強く肯いたのだった。
「藍将軍。少し、よろしいですか。」
敢えて互いを避けるようにしていた静蘭の方から声を掛けて来たのは、それから更に数日後のこと。久方振りにあった視線が、互いの胸中を読み取ろうと交錯する。
「構わないよ。余人に聞かれたくない話なら…」
「その方が助かります。」
皆まで言わせず二人きりになることを望んだ静蘭に、楸瑛は黙って肯いて、宮廷内で彼自身が与えられている控えの室へと案内した。
扉を閉めて椅子をすすめても、暫くは二人ともが無言で。
「言いたくないことは言わなくて構わないよ。秘密を言葉にしてもらわなければ察せないほど勘は悪くない。」
先に口火を切ったのは楸瑛の方だった。静蘭がまだそのかつての立場として語っていない以上、いかに確証を得ても楸瑛の口調は上官の部下に対するそれだ。
「そうですね。貴方は…勘は悪くない。黒幕が誰か、気付いていますか。」
「主上も私も、ある程度察しはつけている。まだ他の線も捨ててはいないけれど。」
そもそも次々と見つかる証拠の品が、あまりに煩雑過ぎるのだ。劉輝や楸瑛が想定している「黒幕」がそんな手を打つだろうか。
「手を下しているのは一人ではないのかもしれませんが…その黒幕から招きを受けたので、出向く前に貴方には伝えておこうかと思いまして。」
まるで天気の話でもするかのように何気無く、静蘭はそう言った。楸瑛がはっと目を見開いたのが同時だ。
「独りで…招きを受けるつもりだと?」
聡明なかつての第二公子が、今更かわいがっていた実の弟と争って王位を奪い返すつもりだとは思わない。とすれば、静蘭が独りで黒幕の招きに応じる訳は、劉輝や秀麗に少しでも害が及ばぬ形で事態を収束させる可能性を模索してのことだ。
(貴方は、いつも独りで行ってしまう。それがどんなに過酷な道だったとしても。私が力不足だったせいかもしれないけれど…助けを必要としてはくれないのだ。)
静かに肯く静蘭を見て、楸瑛はどうしようもなくそんな無力感に襲われた。自分にできるのは、ただ彼が少しでも心残りなく進めるように手を尽くすことくらい。
「私を案じているのか。」
ほんの一瞬で、静蘭を取り巻く空気も呟く口調も変わる。それを敏感に察した楸瑛が、弾かれたように顔を上げた。
「清苑公子…」
楸瑛が思わず唇に乗せた呼び名に、静蘭の眉が微かに寄って。
「その名を持つ者はもう居ない。…だが、かつての気遣いへの礼を言っていなかったな。」
すっと一歩、静蘭が踏み出して、二人の距離が近くなる。
「決着をつけに行く前に、もう一度本来の姿で話しておきたかった。」
それは、死にに行くつもりはなくてもそうなる可能性はあることを受け入れた上での選択だ。無意識のうちに懐の懐剣に触れていた静蘭は、そんな自らの仕草を楸瑛に気付かれぬよう、代わりに一通の文を取り出した。
「劉輝とゆっくり話している時間の余裕はない。必要だと感じた時に、これを渡しておいて欲しい。」
押戴くように、楸瑛がそれを受け取る。
時間が遠い昔に戻ったような、そんな感覚すらあった。紫色をまとっていなくても、公子の証だった長い髪が短くなっていても、疑いようもないほどに静蘭という存在は『王者』であったから。
「…お渡しします。ですが、必ず無事に戻って、直接主上とお話しください。」
主上はずっと待っていたのですから、と縋るように言った楸瑛へ、静蘭はふっと口の端を上げた。
「約束は出来ない。だが、かつてはそなたと劉輝に見送られて、何とか無事に逃げ延びた。此度もそなたに会い、文を託したのは…私も縁起をかついだのかもしれないな。」
縁起をかつぐなど、およそ『清苑公子』らしくも『静蘭』らしくもないことではあったけれど。少しだけ怪訝な顔をした楸瑛を無視して、静蘭は続ける。
「…劉輝を頼む。花を受け取ったのなら、あの子を主と認めたのだろう?」
その問いは意志を確認するようにも、また僅かな寂寞感を含んでいるようにも聞こえた。静かに肯いた楸瑛と目線を合わせたまま、静蘭がまた一歩、二人の間の距離を詰める。その手がそっと楸瑛の頤にかけられて、そしてそのまま二人の影が一つに重なった。
初めは触れ合うのみだった唇は、いつの間にか互いに深い場所まで許していて。
「…っ」
「劉輝にはとうの昔に差し出したのだろう。過去の亡霊への餞別替わりとでも思えばよい。」
はっとして身を引いた楸瑛に、静蘭は読みきれぬ笑みを浮べるとそんな言葉だけを残して踵を返したのだった。
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