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玉蘭抄-07





 人間というものは、覚悟を決めると一種愚かだとわかっていることでもしてしまうものだと、今ほど思い知ったことはない。

(あそこまで藍楸瑛に近づくつもりはなかった。)

 一人になった今なら、静蘭とてそう思う。
 何としても茶太保の企てを打ち破るつもりだった…それが劉輝や秀麗が平穏に暮らせる道であり、恐らくは自分が今この時に宮廷へと戻る機会を得た理由だった筈だから。
 だがそれが危険と隣り合わせの任務であることは、火を見るよりも明らかで。

(死ぬ前にやっておきたい事があれだったとは。)

 衝撃を受けたような楸瑛の顔が脳裏に蘇って苦笑が洩れた。否、死ぬ前にではない―――自分はどうやら、生きる希望を繋ぐ為にああしたかったらしい。

『清苑公子…』

 清苑として語った静蘭を、楸瑛はそう呼んだ。望んだ呼び方ではなかったけれど、十二年前より少しはましな呼称。

(私が生きて戻ったら、どんな顔をして迎えるのだろう。)

 その前に片付けねばならぬ大仕事があることは知りながら、その先のことを知りたくなる。想像で終わらせぬ為にも、為すべきことは為さねばならない。

「お久し振りです、と言うべきですかな。―――清苑公子。」

 薄暗いその部屋の中でそう声をかけてきた老人を、静蘭は鋭く見やった。
 かつては英邁の誉れ高い能吏だった茶太保は、言葉で戦うにも駆け引きをするにもとても手強い相手。そして勿論、幾重にも張り巡らせた奥の手を隠し持っていない筈はない。
 大切な秀麗や劉輝に危害が及んだことをほのめかされて、理性を失ったのが悪かったのか、茶太保が仕掛けた香の作用に気付くのが遅れた。覆面の凶手が何十人連なろうと少しも竦みはしないけれど、香による痺れは思いのほか大きくて。

「いい香でしょう?少し、お休みください。次にお目覚めの時には、玉座におられましょう。」

 朦朧とする意識の中で、含み笑いのそんな言葉が耳に届く。このまま諦めて彼らの思い通りになることだけはあってはならぬ、と強い意志が湧き上がった時、静蘭の手が掴んでいたのはあの懐剣だった。

(共に…あの地獄のような年月を生き延びて来た。この懐剣ならば私に…僅かな間でも正気を保たせてくれる。)

 素早くその鞘を払い、深く己の腿に突きたてる。痛みのせいか、既に靄がかかったようになっていた思考が鮮明になった。
 返す手で狙いを定め、去っていく茶太保の背に向かって懐剣を投げ放つ。長くは持たない…静蘭とてそうわかっていたからこそ、それは一撃必殺の攻撃でなければならず。

(これで…いい。生きて違う人生を歩もうと一度は考えたが…私がここで消えれば、もはや劉輝の王座を脅かすものはいない。せめて茶太保を道連れに出来れば、最後の餞になるだろう…。)

 懐剣が吸い込まれるように茶太保の背に命中したのを見届けて、静蘭は膝をついた。間を空けずに襲い掛かって来た覆面の男達に散々に痛めつけられても、彼にとってそれはもう、どうでも良いことだったのだ。



『…無茶をする。あのまま大人しく気を失っていたら、無傷で助けられたのに。』

『鴛洵は逝ったよ、清苑公子。…これは返しておこうかの…公子にとっては心の支えだったのじゃろう。』

『若いもんがいつまで寝とるんじゃ、馬鹿もんが!生きとるんなら潔くとっとと目を覚まさんか!』

 幾つもの声が動かない体に掛けられては通り過ぎて行く。もう少ししたら起きるから、今はまだそっとしておいてくれと言いたかったけれど、目を開けることすらできなくて。
 やがてふと、周りを取り巻いている空気が静かになった。
 誰も居ないわけではない…誰かの気配が近づいて来る。こちらの体調を慮ってか足音はしないけれど、その気配は無言のまま静蘭の枕元に寄り添った。
 害意のある気配でもなく、静蘭を無理矢理叩き起こそうという気配でもない…それがとても心地良くて、静蘭はその気配が自分の領域に居続けることを許して。
 長い時間が静寂のうちに過ぎ、やがてとても遠慮がちな手が静蘭の手に触れる。

「清苑公子…貴方の守りとなるべき懐剣が、貴方の身を傷つけたとは…」

 その手の主の小さな呟きは、密やかに泣いているようにも聞こえて。違う、と咄嗟に反論しようとして、それまでぴくりとも動かなかった体が漸く指先だけ小さく動いた。
 けれど、そんな小さな動きなど相手には伝わっていないようで。

「私がこうして案じても、貴方は目覚めてはくれないんでしょうね。でも貴方の大事な弟君も心配しているんですよ。今は秀麗殿が…まだ危機を脱していないのでこちらに来られないけれど。」

 心地良い低音で紡がれる言葉は、単に事実の報告にも、一種恨み言にも似ている。やがて、羽根のような柔らかさで唇に何かが触れた。
 次いで、静かに離れて行く気配を引きとめようとして、また身体が思うように動かないもどかしさを味わう。

(動け…!腕を動かすくらい、難しいことでもなんでもないだろう!)

 自分の身体を叱咤して、半ばやけのように繰り出した手が、去って行こうとするその人の腕をぐいと掴んだ。

「…!意識が…?」
「…動けない…だけで…みんな聞こえてるんですよ…」

 驚いた様に彼が振り返るのと、静蘭がようやく重い瞼を押し上げられたのが同時だ。

「どう、したんです、藍将軍…?望み通りに…起きて、あげたのに…」

 苦笑混じりに言いながら、掴んだままの腕に力をこめる。

「…っ、痛いよ、静蘭。でも意識が戻って何よりだ。君が目覚めたことを主上と医務官に報告しなくてはね。」

 微妙に目を逸らしつつそんなことを言う楸瑛が歯痒かった。もしも自由に身体が動くなら、有無を言わさず引き寄せて、先刻の羽根のような感触を確めていただろうに。
 代わりに静蘭の唇から洩れたのは、小さな憎まれ口。

「…自分で私を目覚めさせたくせに…もう少し嬉しそうにしたらどうなんですか。」

 それでも、楸瑛は怪我人の静蘭を甲斐甲斐しく世話してくれた。咽喉が渇いたと言えば背を支えて水差しを口許まで運び、着替えたいと言えばその手助けをしてくれる…けれど決して一定の距離以上に踏み込もうとはしない。
 彼は日に何度も静蘭の臥床と主上の傍とを往復しては、最新の情報を静蘭の耳にも届けてくれた。中でも、解毒薬が無事に効いて秀麗が全快したという知らせは静蘭を喜ばせるもので。

「秀麗殿は、君の怪我の具合が良くなり次第、後宮を去りたいと言っているそうだよ。主上との結婚が条件付きのものだからそれも仕方がないが…寂しくなるね。」

 ただ、続いてもたらされたその知らせは、喜びに小さな影を落とした。秀麗が後宮を出てしまえば、いくら宮廷の下っ端武官として雇われていても弟との接点は無くなる。そして、近衛の将軍職を戴いている目の前の青年との接点も。

「主上は見る影もなく落ち込んでしまってね。あとで、ここに訪ねて来られるそうだよ。君達はまだ、ゆっくり会話もしていないだろう?…邵可様のお邸に帰る前に、少しは主上を甘やかしてあげて欲しい。」

 そう語る楸瑛の顔は、まるで弟を案ずる兄のような表情を浮かべていた。それが静蘭の心に再び小さな波紋を投げ掛けて。

(藍楸瑛と劉輝との間には、そういう絆が生まれ始めているということか。)

 弟の身の回りに、真摯に彼のことを思ってくれる人間がいることは喜ばしい事の筈だった。それなのに、どうにも胸がすっきりしない。

「言われずとも…そうしますよ、藍将軍。」

 静蘭は短くそれだけ答えると、楸瑛に背を向けるように寝返りを打ったのだった。





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