玉蘭抄-05
「いやあ―――っ!」
その日、平穏だった筈の後宮の朝は紅貴妃こと秀麗のそんな叫びから始まった。何事かとかけつけた女官達が目にしたものは、紅貴妃の室で眠っている主上の姿。
見る者が見れば、二人の間に昨晩何事もなかったことは明らかなのだが、それでも後宮にはとても華やかな噂が飛び交った。
そしてそれは、秀麗や劉輝に近しい位置にいる者達の間でも例外ではなくて。
「べ、便宜上の結婚だった筈だろう!いいのか、これで!?」
「人の気持ちは変わるものだよ、絳攸。それに、真の夫婦になられたからといって困る人間もいないだろう?」
まるで他人事ではないかのように顔を真っ赤にして騒いでいる絳攸に、楸瑛が余裕の笑みで混ぜっ返す。府庫に他に誰もいないのをいいことに、思いっきりくつろいだ空気を醸し出す二人のところに、こんこん、と棚を叩く音が響いた。
「失礼致します、藍将軍、絳攸殿。宿衛の時間が終わりましたので報告に伺いましたが。」
立っていたのは、昨夜の主上の宿衛役だった静蘭である。昨夜の一件を最も間近で眺めていそうな人物の登場に、楸瑛も絳攸も少し表情を引き締めた。
「聞こうか。是非実際のところを聞きたいね。」
楸瑛の求めに、静蘭は『実際に見ていたわけではありませんが』と前置きした上で口を開く。
「十中八九、何事もなかったと思いますよ。主上は夫婦の溝を埋めに行くといってお嬢様の室に向かわれましたが。」
明らかにほっとした様子の絳攸と、半ば察していたのか器用に片眉をあげただけの楸瑛を静蘭は注意深く観察した。絳攸はといえば、少しは動揺がおさまったのか、机上に広げたままだった書翰をかき集めている。
「今日は吏部へも寄らねばならないから、俺は先に戻る。楸瑛、主上の首にはしっかりと縄をつけておけよ。」
「やれやれ、でも私は馬に蹴られるような真似はしないよ。」
まだ僅かに赤味の残る頬を積み上げた書翰で隠して絳攸が立ち去ると、府庫には一転して静けさが広がった。
「さて。まだ何か言いたいことがあるのかな?」
最初の場所から動こうとしない静蘭を見やって、楸瑛が穏やかに問う。絳攸がいる前では言い辛かった何かがあるのか、と。
「主上が女人よりも侍官を召す夜が多いとの話は聞いていましたが…」
「ああ、そのことか。別に、男でなければ駄目だといった類のものではないと思うよ。女人を相手にすれば、王家の血を引く子供が出来る可能性があるから厄介だというだけだろう。」
躊躇いながら静蘭が話し始めた言葉の後を、楸瑛が引き継ぐ。王位を継いだ自らの弟が男色であったらという心配を払拭するかのように。
けれど、少し眉を寄せた静蘭の表情が晴れることはなかった。
「それとも、もしかして…君も主上に閨へ誘われたのかな?」
わざと軽い口調を装って、楸瑛はそんな風に水を向けてみた。相手は気付いていないとはいえ、実の弟に閨に誘われたなら、それは困惑するだろうとも思う。
「…一緒に寝るかとは言われましたが、お断りしたら、私のことは抱かないと心に決めて頂けたようです。」
静蘭の答えから一瞬の間があって、楸瑛がこらえきれないというかのように笑みをもらした。二人のそんなやり取りが、何だか目に見えるようだったからだ。
楸瑛の笑いがおさまる頃、静蘭は勧められもしないのに、そっと楸瑛の隣の椅子へと腰を下ろした。
「貴方は?」
「…え?」
聞き返した途端、楸瑛の表情が固まり、その問いが核心をついた問いであったことを静蘭は確信する。
「貴方も主上に閨へ誘われて…そして貴方は受けたんですか?」
誤魔化すことは許さぬと重ねた問いに、楸瑛は諦めたように目を伏せた。
「…受けたよ。紅貴妃が来られる前、主上はただの飾り物であろうと心に決めておられたようでね…普段なら何を言っても避けられてしまった。前に君に話した主上の本音も、聞き出せたのは閨の中だ。」
淡淡と語る楸瑛からは、その選択をしたことを悔やんではいない事が窺えた。対する静蘭の両手に、知らず力がこもる。
「貴方は…その見返りに何か得られるものがあれば、身体を差し出すことに抵抗がないんですか。」
慎重に抑えこまれた怒りが、静蘭のその言葉には滲んでいた。肩を強く掴んで揺さぶらなかったのは、単に上官と部下としての現在の立場で己を戒めていたから。
「汚らわしいと思うのかな…それも無理はないけれど。でも主上は私に情を持っているわけでもなければ、継続的に関係を続けているわけでもない。君の大事な秀麗殿がこの先主上とどんな関係になったとしても、私がその障害になることはないよ。」
違う、この憤りはそんなことに対してではないのだと叫びだしたい気持ちを、静蘭は何とか微笑で隠した。
「…そうですか。それならば別にいいんです。ただ、お嬢様の周りにいる人間の人柄は把握しておきたかったものですから。」
冷たくすら聞こえる丁寧な声音。それを受けて、楸瑛は静かに席を立つ。
「さしずめ、今の君の評価では私は失格なんだろうね。でもね、静蘭…これでも私は近衛だ。武術の腕が主上をお守りするに足る限り、職を辞すつもりはないよ。」
言いながら、そっと腰に差した剣に触れる。これは藍家直系たる彼が生家から持って来た剣。これは長剣だが、対になっている懐刀は、かつて流罪に処せられた第二公子に渡したものだ。
「そういえば、私達は一度も手合わせしたことがなかったね、『静蘭』。宿衛で疲れているところを悪いけれど、一手手合わせ願えるかな。」
楸瑛はそう言うと、静かに刀身を抜き払った。
「ここで、ですか?」
「君も私も、書物を傷つけたりするほど未熟ではないだろう?それに、あくまで手合わせなんだから本気は出さなくていい。何かあった時、私がどの程度背中を任せるに足る存在なのか、君も知りたいんじゃないかな?」
そんな問答をしたものの、静蘭の瞳は既に好戦的な光を宿していた。名のある剣ではないが、腰の得物をさっと引き抜くと、楸瑛へと刃先を向ける。しばらくじりじりと間合いをはかった後、動いたのが同時だった。軽やかに何合も渡り合い、互いの剣の癖や型などを推し量る。
剣舞のごとき手合わせは、始まったのも唐突ならば、また終わったのも唐突だった。互い以外のところから発せられた大きな闘気に、咄嗟に二人ともが飛び退ったのだ。
「久し振りに府庫で打ち合いの音がすると思うたら…」
「宗太傳…!」
「宋将軍…!」
現れたのは先王の歴戦の猛将と謳われた宗太傳だった。彼は年若い二人を交互に見やると静蘭の方へと顎をしゃくった。
「儂もそなたの腕のほどを見てみたい。相手をしろ。…ただし小手あわせではなく、本気でな。」
言うが早いか踏み込んで来た宗太傳に、静蘭も咄嗟に剣で刃を受ける。高齢であることを微塵も感じさせぬその動きに静蘭も楸瑛も舌を巻いた。
宗太傳は剣を交えている間、一言も口をきかない。けれど、武人である三人には、その剣が語っていることの方が雄弁で。
やがて高い音を立てて静蘭の剣が跳ね飛ばされた時、書棚へまっしぐらだったその剣を寸前のところで掴み取ったのが楸瑛で、静蘭はといえば、無意識に第二の武器を抜いていた。第二の武器…それは紛れもなくかつて楸瑛から密かに譲られた懐剣で、これまで何度となく静蘭の命を救って来たもの。白熱した手合わせで思わずそれに手が伸びたのは、云わば長年の放浪生活で身についた習性とも呼べるものであったろう。
そんな静蘭を目にした宗太傳がゆっくりとその剣を鞘に戻す。
「懐かしい型だった…だが随分となりふり構わぬ剣を振るうようになったものだ。生への執着がいっそ清々しい。」
老将軍はそんな感慨をぽつりと零し、静かな足取りで府庫を去っていく。後に残された静蘭の許へ、楸瑛は掴み取った剣を片手に歩み寄った。
「驚いたけれど、見事な試…」
手合わせの見事さを讃えようとした楸瑛の言葉が、静蘭の手元を見て途切れる。手の中に握られている懐剣は、楸瑛の記憶の中にも鮮やかに残っているもの。
「まさか、そんな…」
目の前の若者が清苑公子の新たな姿であることには気付いていた。でも、彼は見事に過去の痕跡を消していたから、まさか自分が手渡した懐剣がまだ彼の手元にあるとは思いもしなかったのだ。
楸瑛の表情に、静蘭も自分の犯してしまった失態を悟った。慌てて懐剣をしまい込むと、無関心を装って楸瑛の手から長剣を引ったくる。
「下がらせて頂いてよろしいでしょうか。将軍方二人と一気に手合わせさせて頂くのは、流石の私でも疲れます。」
返事を待つことなく退室していった静蘭を、楸瑛は一人、がらんとした府庫に立ち尽くして見送ったのだった。
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