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玉蘭抄-04





 予想はきっと、間違ってはいないと思う。藍家の影からは何の報告もありはしなかったけれど、寡黙な上官が自分に向けた目は、常とは異なる何かを伝えようとしていて。
 それに何より、本人を目の前にした瞬間、他ならぬ自分の勘が、そう告げた。勿論、確証なんて、ありはしない。でも―――

(彼は、”清苑公子”だ…今は違う姿を装っていても。)

 彼が追放の憂き目にあった時、藍家の力をもってしても、その後の足取りはつかめなかった。とても有能な人だったから、どんな逆境に陥っても、きっと無事でいると信じてはいたけれど。

(邵可様のところの家人になっていたとは、意外だった。)

 かつて主として仕えたいと願った人は、まるで生まれ変わったかのように、名前も、年齢も、立場も変えて目の前に現れた。一体どんな風に言葉をかけたものかと迷った挙句、何とかうまく、初対面の部下に対してするような言葉遣いができただろうか。
 当たり前と言えば当たり前なのだけれど、彼、”シ静蘭”も、”初顔合わせで少し緊張している新米の部下”を演じていて。でも、まるで見知らぬ相手を見るような視線を向けられるのが、少し寂しいと思った。
 必要以上に饒舌に色々なことを語ってしまったのは、だからこそかも知れない。

『私のことも、名で呼んでは下さいませんか。』

 呼び止められて、望まれた言葉にどきりとした。あの頃、私も貴方に名で呼んでもらいたかった、存在を認めて貰いたかった、とそんなことをふと思いながらも、当たり障りなく、彼の新しい名を口唇に乗せる。

『シ静蘭』

 誰がつけたのだろう。元の名前とよく似た音の、異なる名前。
 その名には、かつてのその人の名前より、少しだけ温かい響きがあった。



 紅貴妃がいよいよ後宮での生活を始めてから数日。相変わらず主上がやる気を出さないせいで暇をもてあましている絳攸と楸瑛は、霄太師が打った対策であるところの紅貴妃の動向を見守ることくらいしかする事がなかった。
 楸瑛は冗談に紛らせてうまく苛立ちを隠していたが、絳攸の方はといえば既に爆発寸前で。
 そんな日常に変化があったのは、桜が綺麗に咲いた昼下がりのことだった。

「ようやくお会いできて光栄です、主上。これから遠慮なくしごきますからね。」

 背後にゆらりと炎が揺らめいているかのような気迫で絳攸が主上をしごいている間、楸瑛は少し離れたところからそんな光景を見守る。

「おさまるべきところに…おさまりそうだね。」

 呟いた独り言に、ええ、と思いがけぬ応えがあった。主上と紅貴妃・秀麗と絳攸が繰り広げる光景を、眩しそうに、そして少し淋しそうに見守るのは静蘭だ。

「ここで見ているだけもつまらないし、私達も仲間に入れてもらおう。」

 本来護衛役の二人は、こうして離れたところから見守るだけで十分なのだが、静蘭の背を押すように楸瑛はそう誘った。
 ずっと離れていたのだ、権謀術数渦巻く朝廷でただ一人愛していた弟と。きっと少しでも近くで、多くの言葉を交わしたいだろう、とそう思って。
 そしてそれは、いくら紅貴妃の家人という身分であっても朝廷での今の身分が下士官である静蘭からはできぬこと。それでも過去の習いからか、静蘭からどんな反応が返って来るかと楸瑛は少し不安だった。
 果たして静蘭は何か言いたげに楸瑛の方を見やると、ふっと目を伏せて”そうですね”と呟いたのだが。

 国王である劉輝自身は静蘭の姿を目にしても、彼の二番目の兄と結びつけた様子はない。楸瑛は皆に合わせて微笑みながら、そんな風に観察してしまっている自分が少しだけ虚しく思えた。

「藍、楸瑛だったな。久し振りだ。」

 不意に名指しで声をかけられ、楸瑛はすっと表情を取り繕って国王である劉輝の方を見る。言葉を交わしたのは、主上付きとされて間もない頃、劉輝の真意を知ろうと近づいた時以来だ。

「お久し振りでございます、主上。ようやく執務をなさるお気持ちになって頂けて、何よりです。」

 にっこりと微笑んでやれば、劉輝は少し後めたそうな顔をしてうなる。気性が素直な方なのだ、とそんな風に思いながらふと隣を見る。
 恐らく彼の兄であろう青年と比べて、何と気性が異なることか。昔仕えたいと願った人とは違うけれど、でもこんな国王もいていいのかもしれない、とそんなことを思った。

「あまりいじめないでくれ。そなたは国武試のみでなく、国試も通っていたのだったな。」
「そうですよ、主上。この男は榜眼の成績で国試を通過したのにも関わらず、能力は一箇所に集中しない方がいいなんぞと言って武官に転向したんです。でも私が知る限り能力は衰えていませんから、いつでも執務の手伝いにこき使えますよ。」

 親友とは思えないような絳攸の助言に苦笑するが、結局のところ、霄太師が文武共に修めた楸瑛を主上付きに配したのは、そういう意図であったのだろう。

「私でお役に立てることがあれば、何なりと。」

 綺麗に笑んで見せた楸瑛に、皆が見せた反応は様々だ。劉輝は疑うことを知らぬ純粋な笑みを向け、秀麗は流石名家の若君、と言わんばかりににっこりし、絳攸は人当たりの良過ぎる腐れ縁の友に溜め息をつき…そして静蘭はといえば、誰も気付かぬほど僅かにその眉を寄せた。

「さあ、授業に戻りますよ。何しろ今までさぼっていた分を取り返さないといけないんですから。」

 絳攸の言葉で、また楸瑛はただの傍観者に戻ったのだが。



「少し、いいですか。」

 静蘭が回廊の中ほどで楸瑛を呼びとめたのは、夕刻まで続いた”授業”が終わった後のことだ。

「構わないよ。どうかしたのかな?」
「藍将軍は…主上のことを主とお認めになったのですか。」

 それは、一介の近衛が尋ねるにしては、あまりにも立ち入り過ぎた質問。けれど、楸瑛は一蹴することなくただ首をかしげた。

「どうだろう。まだわからないな…ただ、以前に言葉を交わした時も思ったけれど、彼の言い分は例え最善ではなくても耳を傾ける価値はあると思っているよ。」

 一旦言葉を切って、静蘭の方を見つめる。

「君は?主上のことをどう思っている?」
「…特進とはいえ、私も羽林軍のはしくれ…主上に仕えさせて頂く身です。もちろんこの身をかけて仕えさせて頂く所存です。」

 返って来たのは、そんな出来過ぎた答えだったけれど、ようやく再会できた大切な弟を守りたいと思う気持ちに偽りはないのだろう。

「そうだね。でも…今の主上に一番必要なのは、信頼できる部下とはちょっと別のもののような気もするけれど。」

 そう、今の主上に必要なのは、孤独な心を受け止めてくれる肉親や、本心でぶつかってきてくれる親しい誰か。静蘭にしてみればそう簡単にその正体を明かすわけにはいかないのかもしれないけれど。
 果たして静蘭はそれに言及することなく話の矛先を変えた。

「お嬢様が、花の美しい後宮の庭院に喜んでいらっしゃいました。」

 王宮の庭院はどの季節も花が楽しめるように工夫されてはいるのだが、今は丁度、花の王者とも言うべき桜の盛りだ。

「それは何よりだ。庭院の手入れには今後も特に心を配るように言っておこう。君は…何の花が好きかな、静蘭?」
「さあ。花はただ眺めるものでしかありませんでしたので、特にどの花が好きということもありませんが…なれど、私の中で一番思い出深い花の盛りはもう過ぎてしまいました。」

 戯れのようにかけた問いにそんな答えが返ってきて、じっと瞳を見つめられる。その眼光の強さに、ふっと息苦しさを覚えた。
 その盛りが過ぎた花…思い当たるのは、かつて互いが初めて会った時の純白の花びら。

「すまない、男性の君に聞くことではなかったね。戯れと思って忘れてくれていい。」

 くるりと背を向けて歩き出す。詰め所にいるから何かあれば呼んでくれ、と平静を装ってかけた楸瑛の声が少し擦れていた。





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