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玉蘭抄-03





『紅貴妃の宮の仕度が整った。打ち合わせの為、詰所まで来られたし。』

 静蘭が次にそんな呼び出しを受けたのは、翌々日のことだった。

(あの人の字ではないな。)

 呼び出しの文に目を落としつつ、そんな事を考える。紙の上に記された文字は、力強く、やや荒い字体で、雅事にも長けた藍家直系の彼が書いたものとは思えなかった。
 もっとも、今は一武官にすぎない静蘭の呼び出しの為ごときに、将軍位にある彼が手ずから文を書くなどということは有り得ないと知ってはいるのだけれど。

 手早く仕度を整えて出仕すると、詰所に向かう途中で先日顔を合わせた「皐韓升」という名の武官に呼び止められ、これから警護することになる後宮の方へと案内された。

「今回の警護の指揮は藍将軍が取ります。俺達も交代で影からの警護はしますが、緊急事態以外は貴妃様にお目通りはしないので、お傍での警護がシ武官の役割です。」

 道すがらそういった説明を受けつつ、警護の大体の配置等を教えられる。筋立てのはっきりした説明の仕方は、この若い武官の有能さを示していた。

「着きました、この宮です。」

 秀麗が住まうことになるのだと案内された宮は、庭院や調度品などを整え直されてはいたが、静蘭にとっても覚えのある宮であった。

(ここは…。)

 母の鈴蘭が第六妾妃の嫌がらせで後宮を退くまで暮らした宮。そしてあの時、綿密に仕組まれた陰謀に抗いきれずに流罪になるまで、静蘭自身が暮らした宮。この宮のことならば、他の誰よりもよく知り尽くしている。
 歴代の王のうちには、幾人もの妾妃を後宮に抱え込んだ王も居り、宮の数には事欠かない筈。それなのに、何故ここを―――。ただの偶然にしては出来すぎているような気がした。

(もしかしたら、正体を気付かれているのだろうか。)

 心の内の僅かな期待と、それほど簡単に見破られたことへの危機感が疼く。

「今上陛下にとっても思い出深い宮だそうですから…霄太師からの助言で整え直したのです。」

 庭院には四季折々、どんな季節も花が絶えることの無いように草木を植えた、と傍らから寄越される説明を、心ここにあらずのまま聞いて、静蘭はそっと花開き始めた白梅の枝に触れた。

(梅が終われば、次は木蓮が花開く、か…。あの人と初めて出会った日の木蓮は、この庭院ではなかったが。)

 そう、今は藍将軍と敬称で呼ぶべきかの人と初めて会ったのは、後宮から外朝へと繋がる、ひっそりとした庭院だったから。

「シ武官?どうかしました?」

 皐韓升に少し心配そうにそう問われて、何でもないと意識を現世に引き戻す。

「暫く宮を見回りながら待っていてください。まもなく藍将軍がこちらに来られますから。」

 そう告げられて、らしくもなく鼓動が跳ねた。手ずから呼び出しの文を書くことはしなくても、出仕した自分に顔を見せてはくれるのだ、と。
 皐韓升が元来た道を引き返していくのを見送って、静蘭は静かに宮を見渡す。
 懐かしいという感慨はない。実際、この場所にあまり幸せな記憶は無いのだ。他人に弱みを握られぬ為とはいえ、学問や武芸を修める度に少しは達成感もあった筈で、良い思い出が皆無ではなかったはずだけれど、どうしてか、そういった記憶はあまり後には残らない。

「静蘭。」

 建物と庭院を隔てる欄干のところから、涼やかな声に名を呼び掛けられたのは、四半刻も過ぎた頃だろうか。
 美しい染めの藍色の衣に身を包んだ待ち人は、他の部下を連れることなく、ひとりで其処に佇んでいた。

「遅くなって済まなかったね。少し、打ち合わせをしていたものだから。」

 彼―――藍楸瑛はそんな風に言ったけれど、もしかしたら『清苑公子』に古い記憶と対面するだけの時間を与えたのではないかと、静蘭の内なる声は問いかける。
 気付いているのか、それとも―――?

「どの宮を選ぶべきか、これでも迷ったのだけどね。元々とても美しい庭院だったし、主上にとっても思い入れの深い宮だったから、ここを紅貴妃にお使い頂くことにしたんだよ。」

 静かに吟ずるように説明をされて、いつの間にか彼の姿がすぐ目の前。

「紅貴妃は、どんな方かな。」

 今上陛下の後宮は他に妃嬪もいないし、歴代の妃に比べれば嫉妬の刃を向けられることは少ないだろうけれど、と僅かに案じる様子の彼に、静蘭は凛と視線を上げて目を合わせた。

「お嬢様は、強い方です。優しくて、明るくて、何にでも一生懸命で…私の大切なお嬢様ですから、何があろうと必ずお守りします。」

 少し熱がこもりすぎとも取れるその言葉に、楸瑛が瞬間驚いたような顔をして、それから”それなら安心だね”と小さく笑う。

「君にそこまで思われる”お嬢様”は幸せだ。きっとこの宮廷と主上にも幸せを運んでくれるだろう。」

 謎かけのような言葉の一部が心に引っ掛かって、静蘭はその靄のような感覚に思考を巡らせた。
 今の言葉―――まるで今上帝である劉輝のことを良く知り、且つ心配しているかのような。けれど再会したあの日、藍楸瑛は劉輝とは殆ど言葉を交わさぬと言っていた筈。否、でも一度だけ本心を教えられたことがある、とも。

(この人と劉輝は…一体どんな間柄なのだろう。)

 僅かに寄った眉に気付かれたのかどうかは分からないが、不意に空気を変えるかのように楸瑛が宮の奥へと足を進める。

「紅貴妃の室の他にも、控えの間がいくつもあるから、どこか気に入った室を君の室にしたらいい。君なら、貴妃の警護の面でも優れた室を選ぶだろうしね。その後で、貴妃付きの侍女達の室も決めようと思っている。」

 そのまま、二人連れ立って今はがらんとした宮の中を歩いて回ったが、職務の上での確認を除いては、うまく咽喉から言葉が出てくれなかった。

「それではね。入内の当日またよろしく頼むよ。」

 今日の打ち合わせはここまで、と切り上げられて、静蘭はまたしてもその背を呼び止めたいような衝動に駆られる。この人が立ち去っていく背中を見るのは、何だかひどく辛くて、無力感を味わわされた。

「…静蘭…?どうかしたかい…?」

 言葉にして引き止めてはいない。けれど目の前の人は、まるで気持ちを汲んだかのように此方を振り返って。暫く瞳を覗き込んだ後、思案するかのように首を傾げる。

「気疲れさせてしまったかな。…軒で、送っていこうか。私も今日は、これで退出するつもりでいたから。」

 まだあまり砕けた話をしたこともなかったし、と微笑む彼に、迷うことなく承諾の返事を返していた。無論それは、『宜しいのですか』と尋ねる、遠まわしなものではあったのだけれど。



 先に立って回廊を歩む彼の、半歩後ろを進む。隣に立つことは未だできず、かといって距離をあけて付いていくのも何だか嫌で。
 退出する前、詰所に寄った彼が先日と同様、上司である黒燿世や部下達に慕われているのを目の当たりにしたがゆえに、独占欲や嫉妬にも似た感情が生じたのかもしれなかった。

(何を考えているんだ、私は。昔の地位ならばいざしらず、私の今の身の上で、彼を独り占めになど出来はしない。否、一体いつから独り占めにしたいなどと埒もないことを考え始めたものか。)

 自身へと言い聞かせるように考えに耽っていると、いつの間にか軒停めに着いていて。二人乗りでも全く狭くは感じない軒に乗り込む際、偶然に楸瑛と指先が触れ合った。
 長い別れの始まりの日、牢獄で短刀を渡す為に一瞬だけ触れ合ったその手。今もまた握りしめることはできないけれど、もしこの掌の内に留めたなら、彼はそれを振り払おうとするのだろうか。
 そうであっては欲しくないと、強く願う。

「ねえ、静蘭。先ほどからずっと難しい顔をして考え込んでいるのは、何故かな。…私は、何か君を困らせるようなことをしてしまったかい?」

 柔らかな声で語りかけられて、慌てて作った笑みは、らしくもなくぎこちなくなっている筈。

「君は、本当はどんな人なんだろうね。何度か会ってはいるけれど、私にはまだ読み取れない。」

 少し自嘲気味に呟かれた言葉に、ぞくりとした。”何度か”―――?それはいつの事を指しているのだろう。先日と今日のことだけならば、”何度か”などという言葉は使わないのではないだろうか。
 そんな疑問を押し隠して、ただ一言、部下から上官へ向けるような答えを返す。

「…人に自分を見せるのは苦手なんです。」

 そしてそれは、本当のこと。清苑であった時も、静蘭という名を与えられてからも、他人に自ら自分の内面を教えたことはない。秀麗であったり、邵可であったり、薔君であったり―――そして唯一の友人とも呼べる、茶州で別れたきりの燕青であったり、そういった人々は皆、自然に、あるいはやや強引に外側から静蘭の内側へ入り込んだ。

(この人は…”藍楸瑛”はきっと、外側から内側を透かし見て察することはあっても、無理に内側へ押し入ろうとはしないだろうが。)

 そんな事を思いながら反応を待つと、暫く窓の外へ目をやっていた楸瑛が、少し寂しげに微笑って。

「…そう。君は少し、似ているね。」

 誰に、とは彼は言わなかった。彼自身にか、それとも彼の記憶に残る何者にか、それを尋ねることは出来ない笑みだった。

 本当は昇進祝いに共に一献かたむけたいけれど、邵可様や貴妃が待っているだろうから、とそんな風に言いながら、邵可邸の門前に軒を横付けしてくれた楸瑛に、静蘭は形通りの礼を述べてから軒を降りる。
 共に帰ろうと誘いを受けて、二人きりで語らう時間が増えたと嬉しかった筈なのに、実際にはあまり会話が出来なかった自分が悔やまれた。
 もしこの場に秀麗か邵可がいたならば、わざわざ静蘭を送り届けてくれた楸瑛に、家に夕餉でもどうかとごく自然に招いたりするのだろう。けれど、静蘭がこの邸に誰かを連れて来たということはかつてなくて。

「…っ…藍将軍!」

 名残惜しくそんな風に呼び掛けるのが精一杯だった。

「もう遅いですから、将軍も気をつけてお帰りください。…貴方と共に仕事ができること、嬉しく思っています。」

 自分にしては珍しいほどの直接的な台詞だったけれど、目の前の人の少し驚いたような、照れたように上気した表情に魅せられて、恥ずかしさは感じなかった。

「あ…ありがとう、静蘭。」

 あまりに話してくれないから、嫌われてしまったのかと思った、とほっとしたように小さく続けられた言葉は、当の本人は独り言のつもりだったのかもしれないが、しっかりと静蘭の耳にまで届いていて。

「あまり長居しても悪いから、私はこれで。…軒を出しておくれ。」

 動揺しているのか、楸瑛はすぐに馭者に声をかけて軒を出させてしまったけれど、それは取りも直さず、彼がそれだけ此方の好悪の感情を気に掛けていてくれたということ。
 去ってゆく軒を見送りながら、静蘭の唇には、知らず満足げな笑みが浮かんでいた。

「お城で何かいいことがあったの?とっても嬉しそうよ、静蘭!」
「そうだねえ、いいことがあったのなら、私達も嬉しいよ。ねえ、秀麗。」

 荒れ果ててはいても広い邸の内へ入ってから、家族であり、主人でもある二人にそう尋ねられるほどに。





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