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月香華-06





 少しだけ、塞ぎこんでいた気分が浮上した。勿論、あの人が心に与えた創は消えたりはしないけれど。
 無心に剣と向き合った故だけではなく、こんな自分の傍に居てくれた人々の優しさに癒された気がした。

「髪を結って来ます。先刻の書類は棚の中に。」

 互いに剣を納め、ねぎらってくれる黒燿世に無人になっている詰所の鍵を渡してから、楸瑛は独り、適切な空き部屋を探して宮中を歩いていた。
 替えの結い紐は、何故か試合を見に来ていた劉輝が、随分と凝った意匠のものを差し出してくれて。”余が結ってやる”という大真面目な冗談は、自分で結えるからと丁重に辞退した。尤も、自分で自分の髪を結うのには、鏡の存在が不可欠で。あまり身なりなどは気にしない左羽林軍の詰所には、勿論そんな物は無い。

(文官の仕事場にはきっとあるんだろうけれど。)

 だが、皆が書類と向き合っている其処に入って行って、鏡を貸してくれというのも具合が悪い。それで、鏡のある空き部屋探しと相成ったわけである。
 歩いているのは、閑散とした寂れた一角。だからこそ、まさかこんな場所でその人に出くわすとは楸瑛も思っていなかった。

「…!」

 纏うのは、豪奢な紅。扇子で口元を隠し、覗く瞳は逃げ道を塞ぐかの様に此方を見据える。そう、つい先刻、”親しげに名を呼ばれる謂われはない”とこの身を断罪した人。
 動けない、その眼差しに射すくめられて。心臓の動く音だけがやけに大きく聞こえ、息を吸い込むことが出来なかった。

「そう凍りつかなくとも良かろう。それとも、少しは心やましいと思うておるのか?」

 扇子の影から投げかけられる怜悧な声音に、甘さは無い。

 やましい、だなんて…一体何のことを指しているのだろう。劉輝に抱き寄せられたあの一瞬の抱擁のことを言っているのなら、それは完全な誤解でしかない。

「はっ、あのハナタレ小僧が妃を迎えぬ訳が漸く解ったわ。妃など要らぬだろうな、お前のような極上の遊び相手が四六時中傍にいるならば。」

 いつの間にか、黎深との距離は扇子を隔てたほんの僅かになっていて。

「…お前が去った後、絳攸と二人して私に噛み付いて来よったわ。だがな、どれほど気に入ろうと、お前に世嗣を孕ませられるわけではあるまい?後宮に誰ぞが入った暁には、お前の居場所など何処にもない。」

 ぐい、と押し付けられる様に扇子の切っ先を顎に宛がわれて、楸瑛はそれを避けるでもなく、黎深を見返した。

「私は主上付きの武官です。夜伽役ではありません。…この身があの方をお守り出来る限り、傍らに控えることをお許し頂けるものと思っておりますが。」

 楸瑛にしてみれば、それは精一杯の矜持だった。けれど、それはまるで劉輝との絆を誇示しているかの様に黎深には思えて。
 ばきり、と扇子が真っ二つに折られた音が、妙にはっきりと回廊の空気を震わせた。それにはっとする間もなく、楸瑛は解けた髪を思い切り鷲掴まれ、力のままに近くの部屋へ叩き込まれた。
 そうして引き倒されたのは、埃の被った冷たい床の上。

「苛々する。…お前を見ていると、粉々に壊してやりたくなるわ。」

 吐き捨てる様に呟くと、黎深は紅の衣が汚れるのも気に掛けずに、楸瑛の上に覆い被さった。

(ああ、どうしてだろう。投げ掛けられる言葉は全て冷たくて、憎まれてすらいるようなのに、この方の唇はこんなにも熱い。)

 此処が曲がりなりにも一応宮城の中であるとか、鍵の付いていない部屋では万一誰に見られるとも限らぬとか、本当は気に掛けるべきことが沢山ある筈なのに、何もかもがどうでも良くなってしまう。
 それに、こうして強引に乱暴とも言える方法で押し倒されても、嫌だと思わない自分はどうかしている、と楸瑛はぼんやり思った。

「抗いもせぬのか。そうして誰でも受け入れるのだろう?」

 酷薄に責める言葉は問いの形を取ってはいても、楸瑛の返事を望んではいない。その証拠に、黎深の唇は何度も何度も飽きることなく楸瑛のそれを塞いだ。その呼吸さえも奪い取る様に。
 その腕は衣の上からもどかしくも激しい愛撫を繰り返し、しかし決してそれ以上触れてくることは無い。浅くて早い息を繰り返すうち、唐突に黎深の身体が退いた。
 はっとして身を起こした楸瑛が見たのは、扉に手を掛ける彼の後姿。思わず”黎深様”、と引き止めそうになってから、そう呼ぶのを禁じられたことを思い出す。咄嗟に言葉が出ず、座り込んだままの楸瑛へ、黎深がぽいと何かを放って寄越した。

「くれてやる、返さずとも良い。」

 彼はそのまま室を出て行ってしまい、残されたのは、やや重みのある布の包みだけ。
 開けてみれば、それは見事な細工の手鏡であった。持ち主を明確に示す紅色に、桐竹鳳麟の直紋が彫りこまれている。本来なら、他人に簡単に投げ与える類のものではないのだけれど。
 やがて楸瑛は切なげな息をひとつ吐いて、その鏡を覗きつつ身形を整えた。丁寧に髪を結い、衣服についてしまった埃を払ってから、鏡を元通りに布に包み、そっと懐へしまいこむ。
 普段とは違うその重みが、ひどく温かく、そして狂おしく感じられた。



「黎深。…聞こえていないのかい、黎深?」

 それはとても、珍しい光景。黎深が最愛の兄の注意を引こうと躍起になるのではなく、兄の邵可の側が、心ここにあらずといった様子の弟に根気良く呼びかけを続けているのだから。

「まったく、随分悩みが深いようだね。…黎深!」
「…あ…兄上…?」

 少し声を荒げるようにして名を呼んで漸く、黎深の瞳が兄の存在を認識した。

(あ、有り得ない…義父上が邵可様の存在に気付かないなんて…!)
(いつもいつも煩いぐらい兄上兄上と言っている紅尚書が、邵可様の呼びかけを完全に無視して考え事…天変地異の前触れか!?)

 上官の機嫌を一喜一憂しつつ見守っていた吏部の面々は、その事態の奇怪さに互いに顔を見合わせる。ここ数日の極寒ブリザードに比べれば害はないが、安心は出来ないのだ。氷の長官は一旦臍を曲げると始末に終えない。

「…な、何か御用でしょうか、兄上。」

 しどろもどろといった感じの黎深へ、邵可は鷹揚に微笑んだまま。

「特に用というほどでもないけれどね。自分の弟がいつになく悩んでいれば、いくら鈍感な兄でも心配になるものだよ。」

 最愛の兄にそう優しく心配されれば、普段の黎深なら一瞬で気鬱から浮上したことだろう。けれど、今日の黎深は目の前の兄をよそに、また思考の連鎖へと逆戻りをしかけた。邵可は、軽く弟の頭をはたくことでそれを止める。

「しっかりしなさい、黎深。君はどうも好意を伝えるのが下手だね。…大事に想っている人を、傷つけては駄目だよ。たとえどんな理由があってもね。」

 何一つ具体的な話をしたわけでも、弟の葛藤を断ち切るきっかけを作ってやったわけでもない。それでも言わんとした意図は的確に伝わったのだろう、黎深は黙って一つ、こくりと頷いたのだった。

(それにね、黎深。先日私が藍州へ文を送ってしまったから…あんまりもたもたしていると三人の御当主に引き離されてしまうかもしれないよ。)

 邵可の内心の呟きは言葉に出されることは無く。黎深はこの時、まだ藍州から投じられた一石の存在を知らずにいた。





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