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月香華-07





 一応定時までは宮中に詰め、その後寄り道もせずに楸瑛は自邸に戻った。出迎えてくれる使用人に会釈を返しつつ自室に向かい、既に部屋の内に入って待ち受けていた他者の気配にどきりとする。

「…っ龍蓮…来ていたのかい?…久し振りだね。」

 気配の主は、神出鬼没の己の弟。―――”藍龍蓮”の名を継ぐ者。
 暗いのに、明かりを点けることもせず、ただじっと佇む彼は、まっすぐに己の兄を見据えていた。

「間に、合わなかった…」

 彼の唇からこぼれたのは、まるで独白の様なそんな一言。
 ”藍龍蓮”がこんな後悔を見せるのは珍しい。全ての事象が彼の手の内にあるかの如く、いつも自信満々で捉えどころがないのだから。

「…どう、したんだい?一体何に間に合わなかったと…っ!?」

 自分の悩み事は取り敢えず置いておいて、穏やかに弟を心配する楸瑛だったが、不意に距離を詰めて首筋に顔を埋めてきた龍蓮に息を呑んだ。

「愚兄の顔を一目見れば分かる。私は、間に合わなかった…楸兄上はもう他所の男に奪われた後だ。」

 至近距離で告げられた言葉は、更に楸瑛を蒼白にして。何と答えたものかと惑ううちに、龍蓮の濡れた唇が首筋を這う。

「愛していたのに。大切過ぎて、容易には手を出せないくらい、ずっとずっと想っていたのに。…何故…何故、そんなに簡単に与えたのだ。」

 詰る声は慟哭にも似て、楸瑛の胸を抉って。誤解だなどという嘘の誤魔化しは、この弟には通用しないだろう。弟の背にそっと腕を回して宥めるように撫でながら、楸瑛は呟いた。

「龍蓮…私の心は、君や兄上達ほど、強くないんだ。…『私』を求めてくれた人はあの方が初めてで…嬉しくてね。…でも今日、気安く名を呼ぶなと拒絶されてしまったけれど。」

 粉々に叩き壊してやりたいと愛撫され、でも直接には一指も触れられず、最後にあの手鏡だけを与えられたことは流石に伏せておく。

「そんな輩に身体を許したというのか?楸兄上を求めてやまぬ人間というならば、ずっと昔から私が居たではないか。何故私ではいけなかったのだ。」

 普段の龍蓮からは想像もつかぬほど、世俗にまみれた嫉妬の言葉に、楸瑛は静かに首を振った。

「違うよ、龍蓮。君では駄目だったんじゃない…私が、駄目だったんだ。”藍”の色に押し潰されそうで…そうと認めたくはなかったけれど。」

 そう、だからこそ”藍”に関わりなき”紅”に一時の救いを求めた。

(ああ、そうか…だからこそあの方は苛ついていたのかな。甘ったれるなと、そう、思って。)

 ふっとそんな思考に陥った瞬間、龍蓮にぐいと急所を掴まれた。

「…っ…何をするんだい、龍蓮っ…」

 押し問答で抵抗を試みたものの、龍蓮に触れられた場所にびくりと身体が反応してしまったのも、また事実。

「消毒だ。…楸兄上、私のことだけ考えろ。兄上にそんな悲しげな貌ばかりさせる男のことなど。想ってやる価値はない。」

 龍蓮の指はまたたく間に衣服をすり抜け、楸瑛の後蕾を捉える。

「もう此処は綻んでいるではないか、愚兄。その男におあずけでも喰わされて苛められたのか?」

 ある意味正解な、意地悪いその予測を聞いても、楸瑛には龍蓮を突き飛ばす事は出来ず、ただ所在無さげに何度も首を振って、懇願を繰り返した。

「お願いだから…龍蓮。こんなことは、やめておくれ。私は君ほど心が強くないと言っただろう?触れられれば身体は反応してしまう…それこそ、君が触れるほどの価値なんて、私には無いんだよ。」

 言い聞かす様なその言葉に、龍蓮はむっと眉を寄せ、兄の唇を塞いでそれ以上の言葉を封じる。

「もう黙れ、愚兄。楸兄上が私にとって一番の宝だと、一体どう伝えれば理解するのだ。」

 龍蓮の指が、更なる激しさをもって兄の体内を探ろうとした、ちょうどその時。

「御館様、お客人がおいででございますが。」

 扉の向こうから、家人のそんな声に呼ばれた。この貴陽別邸で”御館様”と言えば、藍家四男の楸瑛を指す。いつも前触れ無く部屋に出現する龍蓮が来ていることは、恐らく家人達はまだ知らぬのだろう。

「…誰が来たのだ。」

 楸瑛を抱く腕はそのままに、扉の向こうへ声を放ったのは龍蓮の方。楸瑛のそれと似て、しかし僅かに異なる声に、廊下の家人は一瞬空いてから返事を返す。

「紅家の御当主でございます。此方にお越しになるなど珍しいことですが…」

 その内容に、楸瑛は思わず身体を震わせて。密着していた龍蓮は、難なく兄のその変化に気付いた。

「紅家当主が…愚兄の相手か。」

 小さくそう呟いた彼は、次の瞬間には厳しい目をして家人へと言葉を放る。

「会う必要などない。兄上は今夜はもう休んでいるからと追い返せ。どうしてもというのなら、”藍龍蓮”が代わりに御用を承ろう、と。」
「…!龍蓮様、お越しになっておられたのですか?」

 びしりとした龍蓮の声に、家人は”しかし紅家の御当主を追い返すというのは”と慌てふためく様子だ。一方楸瑛は、一時の衝撃から立ち直って、静かに龍蓮の腕の中からすり抜けた。
 手早くはだけられた衣装を直しながら、扉へと向かう。

「…お会いするよ。龍蓮は少し気が立っているんだ、困らせて悪かったね。すぐに行くから、客間にお通ししてくれ。…それから、客間には人払いをね。」

 扉を開け、直接に顔を合わせてにっこりと微笑んでやれば、家人はほっとした様に回廊を戻ってゆく。

「…人払いをして、一体何をするつもりだ、愚兄。」

 元通りに扉が閉まった途端、龍蓮の不機嫌な呟きが耳に刺さる。

「何も、するつもりはないよ。あの方も、きっとそんなつもりはないだろう。ただ…あの方の前では、私はどうしようもなく取り乱してしまいそうだから…家人にそんな姿は見せたくなくてね。」

 何でもないことの様に言いながら、着崩れてしまった衣服の代わりに、紅家当主と相対するに相応しい美しい藍色の着物を纏う。
 未だ結い上げたままの髪にも、乱れがないかを確かめて。ふと、黎深から与えられたあの手鏡を詰所の己の戸棚にしまいこんで来て良かったと思った。龍蓮の前であれを取り出したりしたら、あまりにあからさまだろう。

「心配しなくても、愚兄は綺麗だ。…仮にその男に”そんなつもり”がなかったとしても、”そんなつもり”にさせてしまうに十分なくらい。」

 ぽつぽつと呟く龍蓮の言葉は、誉めているのかけなしているのか分からない類のもの。

「一緒に行く。愚兄一人では心配だ。」

 龍蓮がこうと言い出したら聞かないことを、楸瑛は良く知っている。だからこそ、一緒に黎深に会うという龍蓮の申し出にも、彼は困ったような、でもほっとしたような笑みを浮かべただけだった。

「…失礼がないようにするんだよ、龍蓮。」

 兄としての、そんな忠告とともに。





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