月香華-05
黎深が心に決めた”三日”は、何の変化も無しに過ぎ去った。
「楸瑛、大丈夫か?気分が悪そうだぞ?」
絳攸が吏部に詰め通しなせいで二人きりでの執務の合間、彩雲国の王たる紫劉輝は、己が花を贈った側近に心配そうな目を向けた。
「今日に始まったことじゃないだろう?ここ最近ずっと楸瑛は元気がない。余の目は大事な人の不調に気付かぬほど節穴ではないぞ。」
大丈夫ですよ、と上辺だけの慰めを返されるのを拒むように、劉輝は矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「悩み事があるなら、余に相談してみぬか?楸瑛よりは人生経験が少ないかもしれないが、少しでも役に立ちたいのだ。」
真摯な瞳で覗き込まれて、楸瑛は困ったように微笑むほかない。表面上”それなりに優秀な名家の若君”を演じている自分の、水面下に隠された闇はあまりにも複雑過ぎて、うまく説明出来ないのだ。何を悩んでいるのか、一体自分はどうしたいのかを。
「主上…」
途方にくれて、ただそう呼んだ楸瑛の指先を、劉輝のそれがきゅっと握る。
「…昨夜思ったのだ。楸瑛が最高に幸せそうに笑っている姿を、余はまだ見たことがない。いつも淡い三日月みたいに微笑んでいる気がする。楸瑛の太陽は誰なのだ?」
それは、突拍子がない例えながらも、鋭く的を得た言葉。
「…主上。三日月なればこそ、己の太陽など持てぬのです。」
欠けた部分の大きさだけ、太陽は他の誰かを照らすのですから―――と、謎掛けの様に言葉を紡いだ楸瑛を、劉輝は思わず抱き寄せていた。
ばたん、と大きな音を立てて王の執務室の扉が開け放たれたのは、丁度その時。
「しゅ、主上…に楸瑛!?」
いかにも色事に不慣れな彼らしく、真っ赤になって室内の光景に後ずさったのが絳攸。そして、その半歩後ろには―――表情から全ての感情を消した彼の上官・吏部尚書の姿があった。
「こ、これには別に深い意味はないぞ。いや、別に深い意味を持たせても良いが、余は純粋に楸瑛に悲しい顔をさせたくなかったのだ。」
抱き寄せた腕をぱっと放し、言い訳にもならないような説明をした王に、絳攸は漸く普段の調子を取り戻しかけて、傍らから漂う冷気に凍りつく。
(義父上が、怒っておられる…?でも別に、他人の色事に興味のある人ではないし、邵可様にも秀麗殿にも関わってはいない筈…ああもしや、一時でも秀麗殿を後宮に迎えた主上が楸瑛と戯れていたからか?)
天才的な頭脳を回転させてはじき出した答えは、しかしながら正解にはほど遠くて。
「…黎深様。」
「お前にその様に親しげに名を呼ばれる謂われはない、藍家の若造。」
蒼白な顔色ながらも品の良い笑みを浮かべて跪拝した楸瑛に対し、黎深は憎しみさえも籠めた声音を叩きつけた。
普段から性格に難ありを地でいくような人だが、この言葉つきはあまりにも険がありすぎる、と王も絳攸もが取り成そうとしたが、当の楸瑛は仮面の様な笑みを貼り付けたままで。
「ご無礼を致しました。どうぞお許し下さい、”紅尚書”。…それでは主上、吏部のお二人が御用のようですので、私はこれで。」
そんな言葉と共に平然と扉に向かって歩き出す。行き交う際の略礼にも乱れはない。
「楸瑛っ!」
けれど、思わず名を呼んで引き止めた絳攸の声に一瞬僅かに振り返ったその眦は、少し赤く滲んでいるように思えた。
ああ、どうか。これは悪い夢なのだと言ってほしい。あの人とあんな形で再会をして、しかも投げられた言葉があれだなんて。
けれど、現実だと知っている。覚悟していた筈なのに、きっと最後の最後まで甘い幻想に縋っていた。
(そうだ、これで吹っ切れただろう、”藍楸瑛”。いつまでも諦めの悪い。お前自身を求める人間なんている筈がないんだと、いい加減悟ったらどうなんだ。)
心の内に棲む、冷静なもう一人の自分の声が冷たく囁く。こんな時、泣いて縋れる誰かが居たならば、少しは痛みが和らぐだろうか。否、一人前に成人した身でそんな甘えが許される訳もない。
親兄弟は勿論、誰にも弱みなど見せられはしないのだ。
『もし…どうしようもなく苦しくなった時は、いつでも私を頼れ。』
かつて、それほど深い付き合いですらなかった自分に掛けられた優しい言葉が麻薬の様に脳裏を過ぎる。
(いけない、”藍楸瑛”。あの晩、いくら”鳳珠様”が厚意を示してくださったからといって、こんな昼日中の公の時間に、忙しい戸部尚書に迷惑をかける気か?)
己を叱咤する理性の声は、此度は何とか抑止力になったようで。ああそうだ、今はまだ執務時間中だ、と楸瑛はそのまま左羽林軍の詰所へと機械的に足を動かした。
「…藍将軍。」
入室した楸瑛の纏う異様な空気に臆したのか、下っ端の武官達は言葉を失って小さくざわめく。左羽林軍の長たる黒燿世だけが無言で真っ直ぐに楸瑛と目を合わせた。暫く目を合わせた後、彼はゆっくりと座を立ち、傍らの戸棚を示す。
―――それだけで、十分だった。主上の傍に付いておらずによいのかとも、一体何があったのかとも、余計な事は問わない上司。ただ、楸瑛を不要と思ってはおらぬ証に、即座に仕事を与えたのだ。
「感謝します、将軍。」
思わず小声でそう呟いた楸瑛へ、黒燿世は滅多に開かぬその口を開いて。
「雷炎ほどではないが、俺もあまり書類仕事は得意でない。優秀な副官を得て助かっている。…さて。」
詰め所内をぐるりと見回し、言葉を継いだ。
「手の空いた者には久し振りに稽古をつけてやる。俺と手合わせする気のある奴は練兵場へ来い。」
それは、彼なりに楸瑛が一人になれる場を与えようとしての提案であった。それを明確に察知した下士官達は、大将軍との手合わせということもあって興奮しながら次々と詰所を出る。
『お前も気が向いたなら来い。無心に剣を合わせていると、現の事は忘れられる。』
そんな呟きを楸瑛の耳元に残して、黒燿世は詰所の扉を閉めたのだった。
目の前にある書類を、次々に片付けてゆく。心は千路に思い乱れている筈なのに、仕事と向き合う頭は妙に冷静で。一刻ほどの内に、捌かねばならない書類の全てが片付いてしまった。
そうなると、やるべき事なく過ごすのが妙に落ち着かなくて。黒燿世の勧め通りに剣の手合わせに行くか、と書類を丁寧に重ねて棚へ戻し、念の為に錠をかける。
(そうだ、これでも私は武官だ。剣を手にしたなら、少なくともその間だけは煩悩は消える。)
そう言い聞かせて、主上から贈られた花菖蒲の花紋入りの刀を腰に差した。人払いが為されているせいだろう、がらんとした回廊を歩めば、練兵場の方からは士官達のどよめきが聞こえてくる。
中央に轟然と立つのは、黒燿世。次々と彼に挑んだ士官達は、殆どが太刀打ち出来ずに地面にへたりこんでいる。
やって来た楸瑛に逸早く気付いたのも、やはり黒燿世で。
「…来たか、楸瑛。少しは退屈せずに済みそうだ。」
それまで使っていた木刀をがらりと投げ捨て、腰の愛刀を引き抜く。真剣を使うのは、それだけ相手の力を認めている証だった。二人ほどの手練となると、手元が狂って相手に傷を負わせてしまうようなことはまず無い。
楸瑛の側も、ゆったりと歩み寄りつつ、花菖蒲に手を掛けた。
”はじめ”という開始の声すら必要無く。二人は互いの攻守の呼吸を分かりきっているかの様に、攻め込んでは受け流す。間違いなく真剣勝負でありながら、計算し尽された剣舞を見ているようだと、羽林軍の誰もが溜め息をついた。
噂を聞きつけてきたのか、いつの間にか練兵場には見物人も随分と増えて。その中にはこっそり物陰から成り行きを見守る紫劉輝と李絳攸の姿もある。
「心配になって来てみたが…黒大将軍とあれほどまでに渡り合えるならば、要らぬ心配だったのか?」
「…いや絳攸、楸瑛は心を無にしようとしている。黒大将軍もそれを分かっていて手合わせを始めたんだろう。何か、封じたいほど辛い事がある証だ。」
いつも人の痛みにばかり気を遣って、彼自身の痛みなんか見せたことが無い。淡い笑みに隠されたそれに気付けたのは、劉輝自身が沢山の悲しみを知ってきたからだろうか。勿論、楸瑛のそれとはまた違った種類のものではあろうけれど。
「…っ!」
そうして。固唾を呑んで見守っていた観衆が、その一瞬、不意に大きく息を呑んだ。
黒燿世の剣が楸瑛の髪の結い紐を断ち切り、一瞬遅れて楸瑛の剣が燿世の剣を絡め取ったのだ。そうして、楸瑛の髪がはらりと背に散って。
「見事だ、楸瑛。」
黒大将軍の掛け値無しの賛辞に、楸瑛はほんの少しほっとした様に笑った。その言葉を冥途の道連れに、淡く、儚く、このまま空気に溶けてしまうかの様に。
(こんなに、危うげな男だったろうか。)
絳攸がそんな印象を持ったのは、恐らくはその解けた髪のせい。結い上げられた時はきりりとした美青年だが、下ろしていると末恐ろしいほどの艶を醸し出す。
そして、そんな彼の姿を階から食い入るように見つめる、冷たくも熱の篭った視線があることに、その場の誰一人として気付いてはいなかった。
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