■ 闇の雫 6 ■
「宰相閣下。…少し宜しいですかな。」
声を掛けたへプセンに対し、セリウスはあくまで無表情なまま続きを促す。
「今朝の書類はやや普段よりも少ないのでは…?…有能な宰相殿のことですからそれは無いかと思いますが、執務が滞る様でしたら遠慮なく雑多な書類の認可はこのへプセンにお任せ下されよ。」
親切心から言っている様にも聞こえるが、宰相に七割、自分に三割という権力分担にへプセンが不満を持っているのが見て取れる発言である。ドルフェリオスがセリウスの方をちらりと眺めやると、セリウスは無表情だったその容貌に、意図的に感情を乗せてへプセンに向き直る所だった。
「昨晩は少し体調を崩していて、あまり執務がはかどらなかったのです。…本日の昼までには遅れた分のものをお渡し致しますのでどうかお許し下さい、へプセン殿。」
昨日同様、どこまでも腰の低い態度でへプセンに話し掛けるセリウスの表情には弱弱しささえ浮かんでいる。相手によってこうも見事に表情を使い分けられるのもこのうら若き宰相の一つの才能だ、とドルフェリオスは密かに思った。昨晩体調を崩していたというのは勿論セリウスの嘘で、本当はドルフェリオスが彼をああして引きとめたが為に夜の内に片付ける筈だった仕事が片付かなかったのだろうに、セリウスの態度はそんな様子を微塵も感じさせない。
へプセンが引き下がると、セリウスは私もこれで失礼を、と軽く礼をとってその場を去った。彼が立ち去りしなにドルフェリオスの手に一枚の紙片を差し込んだのに気付いた者は、その場には居なかっただろう。
『時間がありましたら後ほど宰相の宮の私の執務室までお越し下さい』
その紙片には独特の美しい筆跡でそんな走り書きがされていた。
ああして手渡したからには出来うる限り人目に触れずに来いという事なのだろうと当たりを付けて、ドルフェリオスは宮殿の皆が昼の休みを取っている時間に散策に見せかけて宰相の宮へと足を向けた。宰相の宮にも王宮同様に隠し通路が何本もあり、当然ながらドルフェリオスも王家の嫡子としてその在り処を知っていたので、人目を避けるのはさして難しいことでは無い。ドルフェリオスの中では昨日の内に既にセリウスを疑う気持ちは消えていたので、護衛に行くというダルを諌めて一人で通路を進んだ。
「ドルフェリオス王太子殿下…!」
流石に宰相の宮の建物内に入れば文官達に行き交わぬというのは無理な話だ。視察に来たのだ、と適当な言い訳をでっち上げて宮の奥にある宰相の執務室を目指すと、昨日もドルフェリオスの傍にぴたりと寄り添っていた護衛の男が閉ざされた重い扉の前で番をしていた。そう言えば今朝は姿を見なかったな、と思いつつ其処へ近付けば、彼は黙って目礼して扉を開け、ドルフェリオスの入室を促した。
「…殿下。お運び頂き光栄です。」
見ると、室内ではセリウスが執務机の前から立ち上がる所だった。
「昼休みだというのに休まず仕事か。」
「少しは休んでおりますゆえお気遣い無く。…それに、仕事はさして苦になりませぬ。」
短く会話を交わした後にセリウスが扉の外へと言葉を掛ける。
「ガーライル、暫く誰も入れるな。何故と尋ねられたなら、宰相は午睡の途中だとでも言っておいてくれ。」
相手が寡黙に肯くのを確認して、セリウスは扉が閉まるや否や、ドルフェリオスの腕を柔らかく取って執務机の後ろまで移動し、そこの壁に掛けてある肖像画の一つをそっと押した。それはセリウスが自ら作らせた隠し通路の一つで、ドルフェリオスにとっては初めて知るものであった。
「他の通路ほどしっかりとした造りではございませんので、足元にご注意下さい。」
腕を解放し、先に立って歩んで行くドルフェリオスには何処か神秘的な空気が伴う。通路は階段状に地下へと続いているらしく、やがて現れたのは、仄かな蝋燭の光に照らされた書類の保管庫であった。セリウスはその棚の最奥にある鍵付きの棚から、数束の書類を取り出して来る。
「昨夜サリディアがあなたにねだった分の書類か。」
確認の意味で尋ねれば、セリウスは肯定の意を込めた笑みと共にその書類と、そして鍵をドルフェリオスに手渡してきた。
「…御入用の場合はいつでも、と姫にお伝え下さい。尤も姫に此方へお越し頂く訳にも参りますまいから…殿下の御手を煩わすこともあるやも知れませんが。」
鍵を渡される時にほんの僅かに指先が触れ、すぐに離れて行く。
「…渡しておこう。サリディアが喜ぶだろう。…妹は随分とあなたが気に入った様子だった。」
ドルフェリオスの言葉に、昨晩随分とお世話になりましたから、とセリウスが苦笑を漏らす。その彼の表情を見ていて、ふと今朝のへプセンとの遣り取りを思い出した。
「昨晩書類が捗らなかったのは、言うまでも無く私のせいだろう…?」
そう問い掛けてみても、有能な宰相は曖昧な微笑を浮べるのみ。”済まなかった”というたった一言を言いそびれたまま、セリウスに帰還を促された。
「戻りましょう、殿下。あまり長い時間執務室を空ける訳にも行きませぬゆえ。」
先に立って隠し階段を上ろうとするセリウスの腕を掴んで止める。
「今宵はどうするつもりだ。」
王宮へ泊まるか、あるいは己の宮へ帰るか。ドルフェリオスの問いを受けて、セリウスは暫し迷う様子であったが、やがて王宮にと返事を返した。
「今宵は片付ける書類を持って伺いますゆえ、明朝の政務に支障を来たす様な真似は致しませぬ。」
夕刻、その日の執務が終わって自室へと戻ると、ドルフェリオスは早速あの隠し書庫でセリウスから受け取った書類に目を通し始めた。順に並べられた書類は結構な量であったが、調べ易い様に見事に整理されている。
ドルフェリオスがその書類の束に次々と目を通していると、コンコン、と部屋の正面の扉にノックの音が響き、此方が返事を返す前に無造作にそれが開かれてダルが顔を覗かせた。
「入るぜ、ドルフェ。」
気心の知れた友であり、腹心であるダルにはいつでも室内に入る許可を与えている。卓上の書類をさり気無く片付けて其方へと向き直ると、ダルは僅かに険しい表情で此方を見ていた。
「…昼はどうだった。」
どう、とその一言が指すのは明らかに昼の休みにドルフェリオスが宰相の宮を訪ねた時のこと。護衛として付いて来るのを断ったから、心配させてしまったのだろうとドルフェリオスは軽く笑んだ。
「ダル、お前が心配する様な事は何もないよ。むしろ宰相は私に色々と便宜を計らってくれる。」
主の言葉を受けたダルは、しかし険しい表情を緩めることはしない。
「まだ無条件に信頼するのは早いんじゃないのか。あの宰相殿の見目がどんなに麗しかろうと、あいつには明らかに裏表がある。へプセンに話し掛ける時のあの媚びた様な態度、俺は見ていて随分不快だった。…勿論それに鼻の下を伸ばしていやがるへプセンにも呆れたがな。」
吐き捨てる様にそう言ったダルへ、ドルフェリオスは僅かに眉を寄せた。ダルの言葉も確かに一理ある…ドルフェリオス自身もかの宰相のへプセンに対する物腰を見た時にその使い分けに舌を巻いたのだから。もしも、己に対するあの態度も彼の演技だったとしたなら…?そんな疑問が一瞬ちらりと脳裏を過ぎって意図的に打ち消された。そうであって欲しくないという願望がドルフェリオスの中には強く渦巻いていたから。
「どんな人間にも裏表はあるだろうよ。ましてや宰相は政治に携わる者…裏表が使い分けられなくては務まるまい。」
思考を振り切る様にそう言ったドルフェリオスを、ダルは複雑な瞳で見返した。
「…惚れたのか。」
暫しの沈黙の後にたった一言そう問い返されて、ドルフェリオスははっとして顔を上げる。まさか、そんな筈は無いと胸の内で否定するも、このざわざわとした心持ちは何だろう。ドルフェリオスは明確な返答を避けたまま、その会話はそこで終わりだというようにがさりと書類の束を手に取ってダルの横をすり抜けた。
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