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■ 闇の雫 5 ■





 此処に泊まって行ってもいいのよ、と笑うサリディアに断りを入れて、セリウスが隠し通路からその部屋を辞したのはもう深夜を回った頃だろうか。流石に元々着ていた服を乾かしている時間は無くて、バスローブの上から借りた上着を羽織って人目を避けつつ己の宮へ戻るつもりだった。サリディアが語った内容を新たに推理の一片として加え、隠し書庫に保管してあるここ数年の資料を洗い直すことが彼女の恩に報いる最良の方法に思えたが故に。それに、いくら彼女が良いと言っても女性の部屋で夜を明かす訳にも行かなかった。

「待ちくたびれて此方の方が凍えそうだぞ、宰相。…私の場合は水には濡れていないがな。」

 暗闇の中から聞き覚えのある声が掛けられたのは、通路が外宮へと通じる角にさしかかった時であった。

「殿下…あの近衛も一緒なのですか。」
「ダルのことなら先に帰した…が、どうせまだその辺にうろついているだろうな。」
「何故私が今宵のうちにこの道から出て来ると…?」
「簡単なことだ、宰相。あなたはスキャンダルを嫌うだろう、たとえ何もせずとも未婚の王女の部屋で一晩過ごしたなぞという事実は残さぬ筈だ。」

 交わされた遣り取りは至って普通の会話。多少セリウスの声音が冷たくとも、無視されぬだけましだろうか、とドルフェリオスはひっそり思った。

「それで、わざわざ凍えそうになりながらも私を御待ち下さっていたのは、何か緊急な御用向きがあるからでしょうか。」

「やはり、その髪の色を私以外の者に見せるのは少々勿体無い気がしてな。必要な物があるのなら何でも揃えさせるから、やはり今宵は王宮に泊まって、明朝髪を染めてから執務に出かけてはどうかと提案しに来たのだが。」

 セリウスの側から掛けられた問いに言葉を選びながら答えを返せば、短い沈黙が返って来る。

「それは…私の秘密を守って下さるというのは非常に有難いお申し出ですが…」

 暗に断ろうとしている気配を察したのか、ドルフェリオスはその先を言わせまいとセリウスの唇へ人差し指を当てた。

「…帰さぬ。サリディアは探し物は失くす前に大事にせよと言っていたが、未だ私はあなたから忠誠を受けるに値するほどあなたを大事に出来ていない。このままあなたが私から離れてしまったら、今度はサリディアに泣きついてももう手の内には戻らないだろう?」

 低く囁かれる声と、依然として唇に触れたままの指に何故か温もりを感じて、セリウスはそれ以上この王太子を拒むことが出来なかった。




「何か不自由なことは無いか?」

 腕を引く様にしてセリウスを元の部屋へと連れ帰った後も、ドルフェリオスは自室へ戻ろうとはせずセリウスに与えた部屋に居座ったまま、まるで彼の機嫌をとるように何度もそう尋ねた。そうは言ってもサリディアの室で既に入浴を済ませており、且つ夜の内に片付けるべき書類も持ち合わせていないとすれば、あとはもう明日に備えて休むくらいしかすることは残っていない。自分で出来ますゆえ、と硬質な笑みを浮かべるセリウスの指から、ドルフェリオスはすいと髪を梳る櫛を奪った。

「私にさせてくれぬか、宰相。」

 セリウスがそれに対して肯定も否定もせぬまま静かに寝台に腰を下ろしたので、ドルフェリオスはそれを肯定と受け取って彼の銀糸へと手を掛ける。梳る必要など無いかの如き真っ直ぐな髪は、さらさらとその背を流れ落ちて寝台に至ろうとしている。銀と白との見事な調和に、その髪が真っ白なシーツの上に寝乱れる様を一瞬脳裏に思い浮かべてしまったドルフェリオスであった。

「サリディア姫が貿易の流れを知りたいと仰せでございましたが。」

 己の思考の飛躍に暫しぼうっとなっていたドルフェリオスを引き戻したのは、不意に口を開いたセリウスの声音。妹姫がそれを望んでいたというのは、ドルフェリオスには初耳であった。

「私も政務を執るようになってから一年、過去の分も含めて貿易の出納の書類を洗いました。勿論あくまで書類ですので改竄されている可能性も否めませんが…殿下さえ反対なさらなければ、それを姫に渡そうかと思います。」

 セリウスははっきり口には出さなかったが、それが先王暗殺の真相を暴く糸口なのだという彼の意図はドルフェリオスに明確に伝わった。僅かに表情を引き締めたドルフェリオスの指の動きが止まったところで、ごく自然にセリウスが櫛を奪い返して行く。

「既にお気づきでしょうが、書類は各長官の許から約七割は私の許へ、残りの三割はへプセン公の許へ渡り、その認可を経て国王陛下の許可を仰ぎます。私が表向き把握出来るのはその七割のみ。残りの三割については間者からの報告が情報源です。書類の写しが姫のお手元に渡りましたら、殿下もご確認下さい。」

 感情を浮べぬ顔でそう告げられて、ドルフェリオスは黙って首肯した。政治を執る時は一切の感情を拭い去った様な表情になるセリウスは、確かに有能な右腕たるべき存在であろうが、彼が何を考えているかがようとして知れない。その事実がドルフェリオスには少しもどかしかった。

「もう遅うございます。明日に備えてお休み下さい、殿下。」

 部屋に入ってからずっと羽織ったままだった上着を脱ぎ落としつつそう言うセリウスに、ドルフェリオスは僅かに名残惜しげな眼差しを投げつつも、隠し通路を抜けて自室へと戻る。湯から上がって、随分と長い一日だったと息をつきつつナイトキャップのボトルを開ければ、いつかそう遠くない未来に、隣室に眠る筈の相手と共にこれを口にしたいものだとふと思った。




 翌朝、自室まで迎えに来たダルに起こされて慌てて身支度をし、隣室の様子を窺ってみれば、セリウスに与えた部屋は既に主を送り出した後だった。部屋全体に僅かに残る香りが、確かにあの白銀の青年がこの場所で夜を過ごしたのだという事を示す唯一の証拠で、心の何処かでそれを残念に思う。…彼は宰相であるのだから、執務に出掛ければ当然其処に姿を見せるのではあろうが。

「ドルフェ、ただでさえ寝坊しちまったんだから、もう行かねえとまずいだろ。」

 ダルにそんな風に諌められて昨日同様朝議の間へと向かえば、ドルフェリオスが姿を見せると同時に胡麻をする様な笑顔で近付いて来たのは昨日のへプセンという大臣だった。

「お早うございます、殿下。今朝のご気分は如何で?」

 余計な波風は立てまいと曖昧に肯いてから、求める姿を探す。あれ程早くに部屋から消えていたからには几帳面にも既に出仕しているのだろうが、セリウスが白銀の姿で現れるか、それともやはり昨日までと同じ様に黒髪で現れるかに興味があった。広間を見渡すもそれらしき姿は無く、今この場にはいないのかと落胆しかけた所へ、周囲の貴族達のざわめきが途切れた。
 はっとして顔を上げれば、事務官に付き添われて昨日同様に全身を黒に固めたセリウスが広間に入って来た所であった。下手をすれば次期の王となる自分よりも貴族達の畏怖の的であるらしいその姿に、ドルフェリオスは感嘆の念を禁じえない。これ位の年になると一二歳の年の差などさして重要では無くなるが、それでも彼は自分よりも二つ若い筈…良くこれだけ貴族達の心を掌握出来たものである。一瞬ちら、とドルフェリオスの方へと投げられた視線が意味ありげに笑む様で、思わずそれに見惚れた間に、セリウスは足早にドルフェリオスの傍らへと歩み寄って来ていた。ドルフェリオスまであと数歩、という距離でセリウスは彼に向かって貴族のする正式な礼をとって見せる。その優美な仕草に又も意識を奪われていると、周囲の貴族達が宰相に習って同様に礼をとる様子。未だ戴冠式は済んでいないまでも、自身が彼を国王として扱うことで貴族達にも彼の威光を知らしめようというセリウスの心遣いなのだろう。

「お早うございます、殿下。差し支え無ければ私の方から本日の執務の申し送りをさせて頂きたく存じますが。」

 ドルフェリオスが肯くのを確認して、今日の最優先の決定事項はこれこれ、と貴族達に説明を始めるセリウスの凛とした声が広間に響き渡る。澱みなく続けられるそれは、一体いつの間に用意をしたのかという程全く不備が見当たらず、指示を受けた貴族が順々に広間を退室して行くのをドルフェリオスは黙って見送るのみとなった。

「宰相閣下。」

 そう、あのへプセンが裏のある笑みと共にセリウスに声を掛けるまでは。





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