■ 闇の雫 3 ■
「取り敢えず今宵の宿はどうするかな、宰相。もう刻限も遅い、これから宮に戻るとすれば不審な輩も現れるやもしれんが。」
それは暗に今この時からこの王宮に留まれという命令。突然のことで帰りを待っている者達はさぞ心配するだろうとセリウスが黙っていると、それを見透かした様にドルフェリオスがふっと笑う。
「気になるのなら、私の方から宰相の宮へ文でも届けさせよう。…ああ、身の回りの品ならば気にすることは無い、全て用意させてある故な。」
まるで逃げ道を塞いでいくかの様な言葉に、セリウスは僅かな驚きを感じた。こんなに強引に事を運ぶ人であったのか、と。それでも時にはそんな一面が無くては政治は務まらぬ、と何処かでドルフェリオスを認めてしまう自分がいた。
「一つだけ私の願いも容れて下さるのならば、お言葉通りに致しましょう。私が文をやって求めた品を、今夜中のに私の部屋へ届けさせて下さるのならば。」
ドルフェリオスが応という意味合いを込めて羊皮紙を差し出すのへ、セリウスはこの室内へ入ってから初めて微かな笑みを頬に浮かべたのだった。
今宵は此処で休め、と指し示されたのは、ドルフェリオスの室から隠し通路の一つを隔てたのみの、通常ならば彼の正妃が使うべき室であった。ドルフェリオスは未だ妃を迎えていない為、その部屋はこれまで空き部屋になっていたのだろうが、王宮に住まうとは言ってもまさかその様な場所を与えられるとは思っておらずに、セリウスは暫し凍りついたように足を止めた。
「この部屋が私の私室に一番近い。互いに監視するには最良の環境だと思わぬか?必要があれば、隠し通路で相手の室へ行くことすら出来るしな。」
器用に片眉を上げてそう言うドルフェリオスが、先程の羊皮紙に加えて羽根ペンを渡して寄越した。セリウスが部屋の中央の卓子で何事か書きつける間、ドルフェリオスは少し離れた長椅子に座ってその様子を眺めている。書き上げた羊皮紙を巻き上げて手渡せば、ドルフェリオスはそれを持って隠し通路の向こうへと姿を消した。
一人になると、己の館と違って持ち帰った仕事すら無く、手持ち無沙汰な感が否めない。飼い殺しというのはこういったことを言うのだろうかとぼんやり思った。与えられた空間を一通り眺めてみると、貴族の部屋の例に漏れず、部屋の奥に簡易な浴室が設えられている。これはセリウスにとっては有難いことであった。セリウスの本当の髪色は銀で、目立つからと幼い頃から普段は染料で黒く隠しているものの、入浴すれば生粋の白銀色に戻るのだから。先刻ドルフェリオスに託した手紙で己の宮に求めた品とは、その髪を染める染料であった。
とは言え、此処で生活する様になって、尚且つ従者も王宮の者をと指定されてしまうと、この髪色を隠しておくのも難しいだろうかと頭を悩ませたところで、環境の変化に疲れを覚えたのか、セリウスは長椅子に身を預けたまま浅い眠りへと落ちて行った。
ふわりと身体が宙に浮くような感触があって目を覚ます。はっとして開けた瞳に最初に飛び込んできたのは豪奢な黄金の色だった。
「起きたのか。寝台に移してやろうかと思ったが。」
目を開けたセリウスに気付いたのだろう、掛けられた声の主と、今自分の置かれている体勢に驚いて、息を呑まざるを得ない。何しろ身体ごとドルフェリオスに抱き込まれているのだから。
「…あなたは随分軽いな、宰相。朝ダルの剣を跳ね返したとは到底思えぬ華奢な身体だ。」
セリウスはあの赤毛の近衛の剣を跳ね返したのではなく、単に受け流しただけであったが、確かに己の身体が剣を扱う者としてはあるまじき程に華奢である事は自覚していた。
「そう言えばあなたの注文の品が届いたが…?中身は一体何なのか聞いても良いかな。」
セリウスの身体を腕に抱えたまま寝台へ腰掛けているドルフェリオスは、セリウスが身を捩って逃れぬ限りその姿勢を壊す気は無い様で、目線で卓上に置かれた包みを示して問いを発した。
「それも監視の一部なのですか、殿下。」
僅かに皮肉の色を交えた言葉を発した後思い出した様に己を抱える腕から抜け出してみせたセリウスが、やや間を空けて諦めた様に言葉を次いだ。この相手にいつまでも隠しておくことは出来ぬと踏んだのであろう。
「届けて頂きし品は…染料でございます。」
静かに告げた言葉に、流石にドルフェリオスが呆気にとられた表情となった。それを見て何処か挑戦的な微笑を浮べたセリウスは、突然寝台の脇に置かれていた水差しを取ると、その中の水を頭から己に浴びせかけた。水の接触と共に髪を染めていた染料が剥がれ、所々元の髪色が露になる。
「お分かりでしょう、染料はこの異色な髪を隠す為のもの。」
びしょ濡れのままそう告げたセリウスから、何を思ったか立ち上がったドルフェリウスが卓上の染料の包みを遠ざけた。
「…驚かせてくれる。『闇の宰相』だなどと渾名されているのはあなたの服の色に加え、その黒髪のせいかと思っていたが、染料を使わねば白銀の髪であったとは。何とも稀な、美しい色だな。」
魅入られた様にそう呟いたドルフェリウスが不意にセリウスの腕を掴んでその身を浴室へと引き摺り込む。冷たい水ではなかったものの、浴槽に用意されていた湯の中へ未だ服を身に付けている状態で放り込まれて、思わずセリウスはその身を強張らせた。途端に湯の中へ黒く溶け出し始める染料と、光を反射してきらきらと輝く己の白銀の髪、そうして未だ己の肩を押さえつけて浴槽へ沈めている男を見つめながら呆然とした気分になる。
「何をなさるのです、殿下。」
非難する様に言葉を掛けたセリウスの頬へ、ドルフェリウスの指先が伸びて来る。
「大人しくしていろ、宰相。」
言葉と共に意外なほど繊細な指先が優しい動きで髪を梳いた。湯に浸からぬ部分の髪色を戻しているのか、とセリウスの脳内で思考が後からついてくる。
「黒髪の時も整った造作の顔と思っていたが、その髪色に包まれると人にあらざるかと思うほどに見事ではないか。」
”人にあらざるかと思うほどに”
セリウスは相手の口から呟かれた言葉に思わず眉を寄せた。それは幼い頃から亡き母に言われ続けて来た言葉…少なくとも聞いていて楽しい言葉ではなかったから。
「…お放し下さい。何をお望みか存じませんが、突然有無を言わさず浴槽に放り込むなど、あまりではございませんか。」
すうっと自分の口調が冷たくなったのが分かる。そして今更ながらに長衣に隠して共に湯に沈められている腰の帯剣の存在を思い出した。目の前の男を突き刺してやろうという気などありはしなかったけれど。
「王宮に居る間は王宮の従者をと仰せになるのなら、すぐにお呼び下さい。出来れば口の堅い者を。」
ドルフェリオスはセリウスの不機嫌の理由が分からぬという様に僅かに首を傾げながらも、すぐには従者を呼び寄せようとしない。
「びしょ濡れにしたのを怒っているのか、宰相?ならば一先ず濡れた衣服を脱いで…この湯はもう使えぬだろうから私の部屋の浴室を使って、それから身を乾かせば良い。」
何ということ無く衣服を脱げと口にして、着脱を手伝おうとでも言うかのように水浸しのセリウスの帯に手を掛けたドルフェリオスに、セリウスはとうとう顔色を変えた。この国の文化では、男でも女でもそれなりの家に生まれた貴族は滅多に人前で肌をさらしたりはしない。いくら王太子であったとて、宰相たる自分に最低限の礼儀を払うのは当然であろうに。
「従者をお呼び下されば、殿下の御手を煩わせずともこちらの浴室にて十分身支度は整えられますゆえ、お気遣いはご無用に。」
断固とした口調で跳ね返されて、ドルフェリオスは仕方ないな、という苦笑と共に壁際に掛けてあるベルを鳴らしたのだった。
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