■ 闇の雫 2 ■
「王太子殿下は宰相閣下を呼び出したなり剣を向けなさったらしい。」
「やっぱり何かあるのだろうか。」
「それでもセリウス様は毅然としておられるが…。」
「もし王太子派と宰相派に分かれたなら、どちらに付くべきだろうな。」
王宮という場所は得てして恐ろしい程の速さで噂が広がる場所である。宮殿の奥深くであった事を誰が漏らしたかは知れぬままだが、あの朝の出来事はその日の昼には宮廷貴族達の知る所となっていた。あれから暫くして王太子ドルフェリオスは朝議の間へと姿を現したが、その傍にはあの赤毛の近衛がぴたりと寄り添い、一方宰相セリウスの傍にも彼を心配したらしい壮年の武官が常に護衛として付き添っていた。
「世話を掛けるな、ガーライル。」
セリウスが小声で発した言葉へ、ガーライルと呼ばれた武官は黙って首を振る。彼はセリウスが未だ幼い頃からその護衛を務めてきた男で、仕事の面でも私生活でもセリウスが信頼を置く唯一の相手であった。
ふと視線を巡らすと、王太子ドルフェリオスは貴族達の中の一人に歩み寄って何事か語り掛ける様子である。それはこの国で王家、宰相家に次ぐ実力者のへプセンという名の大臣であった。新王が早速宰相をないがしろにしてへプセンに近付くのか、と早速貴族達がざわめき始めるのを尻目に、セリウスは手許の書類を纏めると必要な相手にそれを手渡し、最後の束を持ってドルフェリオスとへプセンの所へと足を向けた。
「これはこれは…宰相閣下、何か私めに御用の向きが?」
へプセンは年の頃はセリウスよりも一回り上で、喰えない笑顔で話し掛けて来たが、セリウスはその整った顔を僅かに笑ませて手持ちの書類を差し出した。
「此方が貴方に御覧頂くべきもの、そして此方が王太子殿下に早急に認可を頂きたい件です。私は今朝はこれにて下がらせて頂きますので、へプセン殿に説明と後の事を御願いしても構いませぬか…?」
セリウスが下手に出ると、見るからに機嫌が良くなったへプセンがそれは勿論と肯いて見せる。それでは、と軽く会釈して下がろうとしたセリウスの腕を、思わぬ相手が掴んで止めた。
「あなたの作成した書類だろう、何故自分で説明しない、宰相。」
腕を掴むドルフェリオスの手が思いの外熱く感じられて、セリウスは我知らず微かに身震いした。
「私が説明するよりはへプセン公に御願いした方が殿下も御心安らかかと思いました故。私の口からの説明をお求めならば、ご命令通りに致しますが。」
ゆったりとした瞬きと共に返された答えに、ドルフェリオスの蒼の瞳が探る様にセリウスを見つめる。
「別にどちらから説明を受けても構わないが…宰相はここを下がって何をするつもりだろうか。」
依然として腕を開放しないドルフェリオスに、セリウスは僅かにきつい眼差しを向けた。
「目を通すべき書類も、片付けるべき案件も、調べ物も溜まっておりますゆえ、する事には事欠きませぬが。」
穏やかな口調の応酬の内にも一触即発の空気を漂わせ始めた王と宰相に、人知れずへプセンがほくそえむ。
「随分と忙しいのだね、宰相は。…では説明はあなたの言う通りへプセンに頼むことにするが…その代わりあなたの今日の仕事が終わったなら、今朝と同じ様に私の許へ来て貰おうか。」
―――今朝と同じ様に。それは取りも直さず、一人で彼の許へ行けということだ。セリウスが返答を返す前に、脇に控えていたガーライルが顔色を変えてセリウスの傍へと歩み寄った。ドルフェリオスはちら、とそちらへ目線を投げてから言葉を続ける。
「それとも、怖いかな…?一人で私の領域へ踏み込むのは。」
試されている、あるいは挑発されているのだと分かっていても、セリウスは静かな肯きを返していた。
「あまり遅くならぬ内にお伺い致します。」
「危険でございます、セリウス様。貴方様がどんなに誠意を見せられた所で、あの王太子が疑心暗鬼に駆られればどんな危害を及ぼすか知れません。」
どうしても行くというのなら己を護衛として連れて行って欲しいと言うガーライルへ、セリウスはふっと淡い笑みを浮かべる。
「そなたの気持ちは嬉しいが、そなたを連れて行けば殿下は私を信頼なさるまい。それではこの国はまた荒れてしまう。…それに、先王の死が毒殺であったなら、アスタリオンとレティシウスで相争うている場合では無いよ。」
その言葉は、もし万一今宵己が殺されたならそれはもう仕方が無いと諦めているかの如き声音で、ガーライルは己の主の醸し出すはっとする程に儚げな風情に黙って膝を折るしか出来なかった。その様子は普段『闇の宰相』と畏怖される人物と同じにはとても思えなくて。
「行って来る。」
昼間よりは幾分簡易な黒の礼服に身を包んだセリウスが夜闇に溶ける様に姿を消すと、重い溜め息がガーライルの口から吐き出された。
王権を握った事のある一族というだけあって、レティシウスの宰相家の当主は王城内の数ある隠し通路をその頭に入れている。ただでさえ物騒な時節に余計なトラブルは避けたくて、セリウスもその隠し通路を次々と抜けて極力人に見咎められぬ道を選んで王太子の自室へと足を運んだ。室内へ直接抜ける隠し通路もあるにはあったが、流石にそれは相手の気分を害するかと朝と同様に正規の扉の前の回廊へ出る。部屋の前に衛兵を置いていない所を見ると、又もや室内にあの赤毛の近衛がいるのだろうか。時刻が夜である為、扉の前から声を掛けることは避け、静かに数度扉を叩くと此度は少しも待たされること無く扉が内側へと開いた。
「…遅かったゆえ、もう来ぬかと思ったが。」
驚いたことに、扉を開けて立っていたのは僅かに頬を歪めて笑うドルフェリオス本人であった。身振りで招き入れられて室内に足を踏み入れても、護衛の一人の気配も無い。
「殿下…部屋の前にも室内にも護衛を置かぬは、今の時節では無用心が過ぎるかと。」
思わず諌める様な言葉を口にしたセリウスへ、あなたも護衛無しで此処まで来ただろう、とドルフェリオスは事も無げに言い返す。
「あなたに一人で此処へ来いと言っておいて、己はのうのうと護衛に囲まれているのではあまりに情けないと思ってね。」
長椅子に腰を掛けたドルフェリオスは、ふっと真面目な色をその瞳に乗せてセリウスを見つめた。
「単刀直入に言おう、私は未だあなたを信用した訳では無い、宰相。だがあなたを宰相として据えるのはこの何代もの間、王家と宰相家との間で交わされてきた約束だ。先手を打ってあなたを亡き者にし、私の治世を安らかにせよとダルは私に勧めたが、私はそうしたいとは思わぬ。そこで提案があるのだが…」
ダルと呼んだのはあの赤毛の近衛のことであろうと推測しながら、一旦言葉を切ったドルフェリオスへセリウスは黙って続きを促す。この王太子が己から宰相位を剥奪しようと望んでいるのか、あるいはもっと別な事を望んでいるのかと頭の中で思考を巡らせて。
「宰相の宮ではなく、この王宮に住む気はないか。近くに住むことで互いを監視すれば、いずれ相手への信用も生まれようというものだろう。」
ドルフェリウスが提示した条件は、正直セリウスにとっては意外だった。この国の王宮は宰相の宮と対を為す建物で、今まで通り宰相の宮はセリウスの管理下に、加えて王宮にセリウスの住まう室を用意すると言うのだから。
「ああ、一つだけ。あなたはいつでも宰相の宮へと戻る権利があるが、王宮に居る間の身の回りの世話は王宮の従者達に申し付けて欲しい。…如何かな?」
要は王宮の住まいには子飼いの従者を入れるな、その云わば四面楚歌の状況でどれ程の時間を過ごせるかを見たいのだろう、とセリウスは推測する。
「…お受けしましょう、殿下。」
その言葉が新王とその宰相との新しい関係を結ぶ楔となった。
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