Scar-02
その日は一日中館内の空気が落ちつかなかった。回廊を歩いて行くエルフを捕まえ、王子の御容態は?、と当たりを付けて尋ねてみても、お茶を濁した様な返事が返って来るのみ。落ち着かない気分のまま、グロールフィンデルはいらいらと与えられた部屋の中を歩きまわった。
小半刻ほども経った頃だろうか、落ち着かぬままでいる金華公の客間に、館の主が姿を見せた。従者は一人も引き連れていない。
「随分と気が立っている様子だな。」
余裕を含んだその森の主の言葉に、金華公は昨日の若き王子の容態がそう悪い物では無くなった事を察した。あれからずっと言うことの叶わなかった謝罪の言葉を口にする。
「申し訳有りません、私を庇って怪我をなされた。」
森の王の眉が微かに寄せられた。ゆっくりと暖炉の近くまで歩み寄った彼は、其処に置いてあった揺り椅子に身を沈め、ゆっくりと金華公を眺めやる。
「もう気付いているとは思うが…あれが我が末の王子だ。名はレゴラス、親しき者は緑葉と呼ぶ。」
無言のまま頷き返す金華公を見て、スランドゥイルは少し難しそうな顔で言葉を続けた。
「あれがな、…白昼夢を、見たというのだ。金の髪のエルフに大蜘蛛が襲い掛かるイメージが突然頭の中に浮かんだと。それで、慌てて供を付ける事も無く己の感覚が指し示す場所へと向かい、そなたに会った。」
再び言葉を切ると、スランドゥイルは金華公をじっと見つめた。
「レゴラスは第三紀の黄昏の時代のエルフ。未来視の能力など備わっては居らぬと思っていたが…」
静寂が部屋を支配する。長い長い沈黙が息苦しく感じられる頃、森の王が立ち上がって戸口に向かった。
「緑葉に会って行くか?」
放られた問いに頷き、金華公は王の背を追って客間を後にした。
館の最奥に、その部屋は有った。部屋の周りでは数人の手練れのエルフが警備に付いていたが、スランドゥイルの姿を見るとさっと道を空けた。
重厚な扉がゆっくりと開かれる。部屋の中は更に布によって覆われていた。それを掻き分けて、そっと寝台に近付く。
寝台の中では王子が静かに眠りについていた。さらさらと寝具に広がっている髪が美しい。
「緑葉?…眠って居るのか、先程は私が呼べば目を開いてくれたのに。」
僅かに嘆くような調子で森の王が語りかけると、翠色の瞳が前触れ無く開かれた。
「…父上…?」
細い、声だ。結界の外で大蜘蛛に戦いを挑んでいた時の強さは欠片も無い。
そっと身体を起こそうとするのを、父王が慌てて制した。
「良い、そのまま寝ていよ。そなたに無理をさせたくて来たのではない。」
森の王はそこで不意に後ろを振り返った。グロールフィンデルに目配せをし、もっと側に寄るようにと命じる。
「裂け谷の金華公だ、緑葉。…昔話してやったことがあったろう?」
スランドゥイルの紹介の言葉と同時にレゴラスの瞳が大きく見開かれ、次いで困ったように伏せられた。
「…お初にお目に掛かります、グロールフィンデル卿。お恥ずかしい所を…。」
小さくそう挨拶されて、グロールフィンデルの心に不思議な温もりが宿った。慌てて自分からも挨拶を返す。
「お目に掛かれて光栄です、緑葉の王子。私が今無事に生きていられるのは、貴方があの時あの場所に来て下さった御蔭ですよ。感謝をしております。」
そう言っても目の前の王子の表情からは翳りが消えない。
「お言葉は嬉しく思いますが…私など、ただの足手纏いになっただけ。どうかそのように礼など仰らないで下さい。」
そんな事は無いのだと王子に伝えたかったが、どう言っていいか分からずに戸惑っている金華公に、森の王が助け舟を出した。
「さあ、今宵はこのくらいに。緑葉もゆっくりお休み。疲れただろう?」
そう言って息子の額に優しい接吻を落とすと、スランドゥイルは金華公を連れて部屋を出た。
「誰も近づけるな、何かあればすぐに知らせよ。」
警備の兵にそう命じるのを忘れず、その場を後にする。
導かれるままに辿り着いた場所は、もとの客間であった。
「…此度はどの位この地にご滞在かな?」
投げ掛けられた問いに、金華公は暫くの間逡巡した。
「…もともとは例のあの地の様子を偵察に行く途中だったのです。年々裂け谷からエルフを派遣していましたが、最近はとみに物騒になってきたのでエルロンド卿は私を選ばれた。その時に、卿は…何か危険があれば闇の森の王国へ匿って貰えと言われたのです。今思えば、いくらかこういう未来を予想しておられたのかもしれぬと思うのですが。」
スランドゥイルは僅かに唇を歪めた。
「成る程。もともとは此処に立ち寄るつもりは無かった、と。まあ当然であろうな、長き間の双方の確執を鑑みれば。…では、問いを変えよう。そなたは危険がかなり増しているという情報を得、当面の役割を果たした。…一刻も早く、裂け谷へ帰りたいと願うか?ああ、勿論邪魔立てはせぬ、そなたが与えられた役目はそうすることなのだから。」
探るようにじっと見つめられて、グロールフィンデルは思わず目を伏せた。
「いえ、叶いますならば暫しこの地で過ごさせて頂きたく存じます。そう、せめて…レゴラス王子の傷が完治なさる迄は…。」
「ほう。客間を暫く提供する事はやぶさかではないが…もう一つ聞きたい。今の答えは、自分を庇って疵付いた緑葉への後ろめたさ故か?」
意地の悪い森の王の問いを、グロールフィンデルは慌てて否定した。
「違います、王よ。…うまく説明出来ませんが、それは、違う…」
スランドゥイルは瞳に浮かんでいた少々楽しげな光を消した。
「良かろう。…時にそなた、緑葉をどう思う?」
真剣な色を帯びて発せられた問いに、グロールフィンデルは暫し返答に詰る。
「見事な弓の腕をお持ちでした。…ただ、私を助けて下さった瞬間と、先程のご様子があまりに正反対で…少々戸惑っても居ります。」
森の王は溜め息混じりに頷いた。
「慧眼だな、金華公。あれの弓の腕にはこの森のどのエルフも適わぬ。…だが、あれの精神は、余りにも繊細過ぎるのだ。敵との戦いに引けは取らぬが、同族の些細な争いごとでも心を痛めて体調を崩す。
…そして、何故だかは分からぬが。そなたを助けに向かった事に対してあれは酷く負い目を感じている。」
黙って聞いていた金華公がその最後の台詞に僅かに眉を寄せた。
「では、レゴラス王子のご心痛の原因はこの私だと?」
「少なくとも私はそう感じる。…ああ、別にあれがそなたを嫌っていると申しているのでは無いぞ。まあ良い、緑葉が回復すれば誤解を解く機会もあろう。」
そう告げると、スランドゥイルはふい、と椅子から立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
それから三日程、金華公は緑葉の王子に会うことも無く、無味乾燥な日々を過ごすことになる。
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