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My Precious Leaf-08


 明日はいよいよ裂け谷を出て、ロスロリエン、そして闇の森への帰還の途につくことになる。

 ―――――闇の森に篭っていた頃、ずっと未だ知らぬ外の世界に尽きぬ興味を抱いていた。私がまるで夢見るように他のエルフ達から聞いた外界の話を口にすると、いつも父上は僅かに眉を寄せていたけれど…。
 今、外へ出る機会を与えられて。瞳に映る全てが、肌に触れる全てが、あまりにも新鮮で…同時に僅かな恐怖を覚える。例えるならまるで、大海を渡る大波に攫われてしまいそうな。父上が私を森の外へと出さなかったのは、私がまだそれに耐えうるだけの精神力を身につけておらぬとお思いになったからなのだろう。

 ここ、裂け谷の空気は好きだ。光の女王ガラドリエルに守られたロリアンの清浄な空気とは又違う、そよ風の様な爽やかさがある。この地で暮らすエルフ達も、穏やかな優しさに満ち溢れていて。

「レゴラス。」

 不意に声を掛けられて振り返れば、静かに佇んでいたのはこの谷の主。

「…エルロンド様。」

 この谷の醸し出す優しい空気はこの方のお人柄の為す技なのだろう。おいで、と無言の内に差し出される手は、故郷の父のそれと良く似ている様な気さえして。
 父上は淡い金色、エルロンド卿はぬばたまの黒…髪の色さえ違うのに、不思議なものだ。

 手を取られ、肩を優しく抱かれて庭園を歩む。エルロンドは先程から何事かを迷っているかの様に言葉を発さぬままであった。

「…卿?」

 どうなされたのです、と暗に問い掛けたレゴラスへ、ついにエルロンドが静かに口を開く。

「レゴラス、貴方をお父君の許へ返さねばならぬ時が刻々と近付いているな。」

 何処か淋しげなその言葉は、何を意味しているのだろう…?

「…一度帰郷したなら、もう何年も再び会い見える事は叶うまい。」

 続けられた台詞が独特のほろ苦さを含んでいて、レゴラスは黙って相手の顔を見つめる。闇の森に戻れば…確かに今後数年は、もう父は私を森の外に出す事はせぬだろう。

「その”何年も”が…私には永の別れの様にさえ思えるのだよ。」

 不意に肩を抱く腕に力が篭められて、身体の向きがくるりと反転した。

「それは…どういう…」

 思わず問い返したレゴラスの台詞は最後まで音にされる事は無く。気がついた時には肩口に熱い感触を受けて、その場所が先日父に口付けられた場所であった事に驚愕を隠せない。
 光の奥方が気付いた様に、エルロンド卿もその名残に気付かれたのであろうか。

「緑葉…」

 ただ名前を呟くエルロンドの声が思いの外苦しげで。エルロンドが優しい、大好きな相手であったがゆえ余計に、レゴラスはどう返事をして良いか途方にくれたのであった。


「エ、エルロンド様…一体何をっ…!?」

 年月を経た大人の指が不意に首筋から差し込まれ、光沢のある長衣を剥ぎ取って行く。白日の下に曝された白磁の肌を愛でるエルロンドの指は、酷く優しく、そして執拗にその上を彷徨った。

「…そうか、貴方はこの様な事は何も知らされずに育ったか…。誰かをどうしようもなく求めてならぬ恋情も、そして…執着のあまりすべてを奪い去ってしまいたいとさえ願う激情も。」

 肌に落とす口付けの合間にエルロンドが低く呟いた言葉はレゴラスの背を震えさせるに十分で。

「風の噂で…スランドゥイルは貴方を随分と大切に森の奥へ篭めていたと聞いた。…夜に出歩くなと貴方に言いつけたスランドゥイルは私がこういう気持ちを抱くだろうと見越していたというのだろうか。」

 半ば独り言の様なその言の葉。肌の上を彷徨っていたエルロンドの唇が、激しくレゴラスのそれへと合わせられる。

「…貴方を愛している。随分と年の離れた男の戯言と嘲笑ってくれても構わぬ。だが何も告げずに貴方を故郷へ帰す事は…私には出来ぬのだ。」

 熱く囁かれた言葉は、これまで耳にした事のない類のもので、レゴラスは何と応えたものかと途方にくれるしか出来なかった。ふっとロリアンでハルディアが言っていた事が頭の片隅に過ぎる。
 そう、あの時も私は…今と同じ様な感情の嵐をこの身の内に感じて。

 そんなレゴラスの思考を読み取ったのだろうか、エルロンドは不意にその愛撫の手を止めた。

「済まぬ…如何に本能が貴方を求めていようとも…こうしてまるで手篭めにするかの様な振る舞いをするべきでは無かった。」

 視線を合わせる事無くたった今乱してしまった衣装を元の形に戻して、エルロンドは静かにレゴラスを解放し、後を振り返る事無くその場を去ったのであった。




「レゴラス王子。」

 ふらふらと館の方向へ歩み、与えられた客室へと戻ったレゴラスを待っていたのはこの谷の主の右腕であるエルフで。

「金華公…」

 グロールフィンデルはその黄金の髪を今は少し乱したままレゴラスの瞳をじっと覗きこんだ。

「卿と…何かあったのですね。何かは聞かずとも察しが付きますが。」

 注意を促すわけでも慰める訳でもない、ただ淡々としたその口調。それでも彼には、父王にもこの谷の主にも無い類の中性的な慈愛の様なものがあって、闇の森を出てから初めてレゴラスはその瞳から涙が溢れるのを止められなかった。

「…あの方が優しい穏やかな方だと知っていても、恐ろしいような心地がして…どうして良いのか分からなくなってしまって…」

 グロールフィンデルは掠れた声でそう呟くレゴラスを暫く痛ましげに眺めていたが、やがて彼を椅子に座らせてそっと涙を拭ってやり、落ち着いた頃を見計らって声を掛けた。

「…我が主には気の毒な事ですが…貴方が”恐ろしい”と感じたのなら卿と貴方が同じ種類の気持ちを抱くのは難しいでしょう。これは私の愚見ですが…貴方の心の一番深い場所を占めているのはあの方では無く、別の相手の様ですから…。
勿論貴方が気に病む事は無いのです、卿はもう年月を経た大人なのだから…自分の感情を制御する術をお持ちの筈…明日には元の通り谷の主として貴方をお見送りするでしょう。」

 それだけを告げてすっと静かに立ち上がったグロールフィンデルは戸口の辺りでもう一度思い出した様に振り返って言葉を次ぐ。

「それから…ロリアンへ使いを出しておきました。今の貴方はあの地へ立ち寄ってから父君の許へ戻られるよりも…このまま真っ直ぐお戻りになった方が良いだろうと。
ですから今宵はゆっくり休んで…明日は真っ直ぐに闇の森へとお帰りなさい。…不肖ながら私が護衛を勤めます。」

 明日はこの地を発つ日なのだという当たり前の事実がグロールフィンデルの言葉によって漸くレゴラスの思考に戻って来た。たった今告げられた事は彼にとっては有難いことで…混乱した思考を治めるには一刻も早く故郷へ戻りたいというのが本心であったから。


 客人の出立の前夜にしては異例な事ではあったが、その日の晩餐は又の機会に、と取りやめになった。部屋まで運ばれた食事はいつも同様美味ではあったが、レゴラスはあまり口に運ぶ気分にはなれずに、いくらかを摘んで思考に身を委ねる。

 …私は…あまりにも色々な事を知らなさ過ぎたのだろうか。勿論森の奥深くから出た事が無いゆえと云えばそれまでだけれど…それが原因でこの谷の主とあのままに別れてしまうのはあまりにも辛かった。

 発つ前にもう一度…エルロンド様と話がしたい。勿論、少しの恐れも無いと言ったなら嘘になる。父以外の相手にあんなに近くで触れられた事など無かったし…何よりどんどん早くなる自らの鼓動が一番恐ろしかったから。
 確かに金華公の言った通り、卿は明日何事も無かったかの如く私を送り出しては下さるだろうけれど…それは仕事用の彼の顔。あの方個人として最後に見た姿があの後ろ姿というのはやり切れない。

 そう思った時レゴラスは、自然に扉の取っ手に手を掛けて与えられた客室からするりと抜け出していた。夜は室を出るなと言った父王との約束―――――破る事になってしまおうとも、この時ばかりはこうせねば…きっと後悔する様な気がして。

 ずっと室内で考え込んでいて気付きもしなかったけれど、人気が全く無い所から察するに既に真夜中に近い刻なのかも知れない。
 エルロンド卿の私室は…彼の執務室の奥。直接私室に通じる別の通路もあるのかも知れないが、それはレゴラスの知らぬ道であった。

 静かに、しかし段々と歩調を速めて求める室へ通じる扉へと辿り着けば、その扉が何とも重たく自分の行く道を塞ぐ様に感じられる。
 今すぐ逃げ帰ってしまいたくなる様な弱気な己の心を叱り付けてコツコツとそっとノックした扉へ、しかし中に居るであろう人の反応は無い。視聴覚に優れた種族とはいえ…聞こえていらっしゃらないのかも知れない、と再度手を上げかけた時、室内から暗い響きを持った低い声が響いた。

「―――――何だ。人払いをしておいた筈だが…グロールに聞かなかったか。」

 それは確かにこの谷の主の声。

「ぁ…の…遅くに済みません、私です。」

 けれど此処で逃げ出してはいけないと、震える声で来訪を告げる。中で暫く続く沈黙は、途轍もなく重く思えた。漸く僅かに扉が軋む音がして、ゆっくりと開かれた室内は闇を塗りこめたかの如き暗闇で、エルロンド卿が何処に居るかも分からない。

「まさかよりによって今夜貴方が来るとはな。お父上との約束を破ってしまって構わぬのか?」

 声は意外と近くに有る。戸口の直ぐ傍に佇んでおられるのであろう。此方は薄明かりの灯る場所、あちらは暗い室内…自分だけが相手の表情を確認出来ぬというのは随分と心細い。

「…それは…。でも、どうしても貴方とあのままの状態でお別れしたくは無かったのです。」

 それが卿の御心に適う答えかどうかは分からなかったが、心にあった言葉をそのままに告げれば、闇の中から低い笑い。どこか自嘲の様にも聞こえる様な。

「…未だ解っては居られぬ様だな。夜分に室を出るなと命じたスランドゥイルの心の奥底にある想いも、それから私が昼間に伝えた想いも。」

 解っていない…私が…?相手の感情を完全に理解する事など不可能だけれど、私は多分少しでも貴方の仰る事を理解したくて、そして谷に来たばかりの頃の様な関係を取り戻したくて此処へ伺ったのに。

「―――――夜に独りで貴方を想っている男の部屋を訪ねるなど…抱いてくれと言っている様なものなのだよ。」

 黙り込んでしまったレゴラスの耳に、エルロンドの言葉がゆっくりと届く。
 そんな…父上は初めからそれを意図して私にああ命じられたのだろうか。
 この年上のエルフの口から紡がれるには少々直接的過ぎるかと思われる表現に思わずレゴラスが表情を強張らせた時、追い討ちを掛ける様にエルロンドが続けた。

「それでも未だ私の部屋の前に佇むか…それともこのままご自分の部屋へと戻られるか…決めるのは貴方だ、レゴラス。」

 穏やかな声音での選択肢。しかしレゴラスは戻らぬとも戻るとも応えられぬまま、その場に立ち竦むしか出来ない。

「もし…このまま此処に居たならば…卿は私を…?」

 呆然としたまま聞き返したレゴラスへ、エルロンドは『さあ…?』と否とも応とも取れる返事を投げるだけだ。

「…戻りませぬ。父上との約束は既に破ってしまった。私は…私が此処へ伺った時と同じ様に貴方に微笑んで頂きたくて伺ったのですから。」

 随分と長い時間迷った挙句に、とうとうレゴラスは微かな声でそう答えた。それを合図にするかの様に闇の中から年長のエルフの影がすらりと浮かぶ。

「…だが、もし貴方が此処で戻らなければ…戻られた貴方をお父上は微笑んで迎える事は出来まいよ…。」

 エルロンドが苦く笑うのと、開かれていた筈の扉が目の前で音も無く閉ざされるのが同時だった。

「戻りなさい。お父上との約を破ってまで私に逢いに来てくれた事は嬉しかった。だが…グロールが私に夕刻告げた様に…貴方に貴方の本当の心とスランドゥイルを裏切らせる訳には行かない。昼間の私は魔にでも魅入られたのだろう、…私の言った事など忘れて今夜はゆっくり休みなさい。」

 扉を挟んで投げられた声には断固とした響きがあって。レゴラスはそのまま来た道を引き返して自室へと戻ったのだった。




 翌日はやはり未だ陽が昇らぬ様な早朝に身支度を整えて裂け谷を発った。

「気をつけてお戻り。…御父上に宜しく伝えてくれ。」

 深い紫色の長衣に身を包んだ谷の主の言葉は、その腹心である金華公が昨日告げた通り、まるで昨日何事も無かったかの様なもので。しかしレゴラスの心はどこか虚ろなものになっていた。

 …父上。貴方が私を森の中へ籠めておかれたのは…外の世界に出ればこの様な困惑を味わうであろう事を見越しておられたからなのでしょうか。出立する前夜にああしてまるで別人の様な口付けをなさったのは…暗にそれを私に伝える為…?

 問い掛ける相手はたった今後にした裂け谷の主であるエルフでは無く、今は未だ遠い闇の森にある父王。

『待っておるゆえ、早い帰りを。』

 送り出してくれた時の父王の優しいその声だけが今のレゴラスには心の支えとなっていた―――――森に帰ったなら…きっと父上は私が持て余しているこの感情に答えを下さるだろう、と。

 ぼんやりとした仕草で馬を操るレゴラスの様子を傍らから見守るグロールフィンデルは僅かに表情を曇らせて闇の森の方角を見やったのだった。





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