My Precious Leaf-09
一行の帰途にはさして変事もありはせず、予定通りの日程で無事に闇の森の王国へと入る。其処はやはり光射さぬ土地ではあったが、森の緑の香りにレゴラスの表情は束の間安らいだそれに変わった。
暫く馬を進めれば、館の方角からやって来る数人の出迎えのエルフ達が彼らの所までやって来て軽く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、レゴラス様。裂け谷のグロールフィンデル殿も…王子の警護に感謝致します。我が王が宜しければ館にて客人としてもてなそうと申しておりますが。」
この森ではあまり客人を歓迎するという事はしない。…それがノルドであるならば尚のこと。それ故グロールフィンデルは王子を送り届けたその足で裂け谷へと戻る事も覚悟していたのだが…。
「…有難くお受け致しますと伝えてくれ。」
そう応えた古の英雄へ、使いのエルフは僅かに顔を赤らめてまた館の方角へと去って行く。
そのまま馬を進めた一行が次に見たものは、館の入り口でその到着を待つスランドゥイルの姿であった。かつて無く長い間留守にした己が息子の事への心配と…そして会えなかった恋しさが森の王を其処まで連れ出したのだろう。久し振りに見たその姿は以前よりも僅かに鋭角的になった様に見えた。
「帰ったか。…待っていた。」
短い言葉と共にレゴラスを馬から抱き下ろすスランドゥイルの姿は…ただの父親としての仕草には思えずに、傍らに居たグロールフィンデルは自分の推測が正しかった事に確信を深める。
―――――互いに未だ気付いてはいないのかも知れないが…この二人は親子であると同時に片翼であるのだろう。
と、レゴラスに再会の抱擁をしていたスランドゥイルがふとびくりとその指先を強張らせた。何か口を開きかけて、その唇はきつく閉ざされたのだけれど。
「…先に自室へ戻って着替えて参れ、レゴラス。それが済んだら私の室へ。」
一呼吸置いて彼の口から漏れたのはそんな低い命令。それにレゴラスは小さく首肯して館の中へと姿を消した。
その背を見送る事はせず、スランドゥイルは漸くグロールフィンデルへと視線を向ける。
「…久方振りだな、金華公。緑葉を送り届けてくれた事、礼を言う。」
確かに最後にこの森エルフの王に会ったのは…随分と昔の事だ。
「客間を用意させた。…館の中は自由に歩いて貰って構わぬ。」
スランドゥイルは短く二言三言言葉を交わした後に彼を建物の中へと誘ったのだった。
「父上…?…私です。」
一刻ほど経った後に、レゴラスは父王の室を訪ねた。
ここ数日間ロリアンや裂け谷の光で溢れた世界に慣れた目には、この闇の森の廊下はいつもに増して暗く思える。…そう、生まれた時からずっと慣れ親しんで来た筈の場所なのに、僅かな恐ろしささえ覚える程に。
「…入れ。」
不自然な間があって父王は居ないのかと思いかけた時、中から短く返事が返って来て。そっと扉を押し開けて室内に足を踏み入れればその場所には何の灯りも灯されておらず、裂け谷で最後の夜にエルロンドを訪ねた時の事がレゴラスの脳裏にふと思い返された。
「…何を戸口に突っ立っている、早う入って扉を閉めよ。」
けれど…いくらエルフの優れた視力を以てしても、完全な闇の中で光を得る事は出来ない。それに、今のこの父王の部屋の空気は何だかとても恐ろしくて。レゴラスはまるで地面に縫い付けられでもしたかの様にその場所から動けずにただ何も映さぬ視線だけを彷徨わせた。
再び室を覆う重い沈黙…時間としてはさしたる間でも無かったのやもしれなかったが、父王が気配すら消して無言を貫くが故にその時間は何時間にも思えて。沈黙を破ったのは言葉では無く、強い力で腕を掴まれたレゴラスの細い悲鳴だった。あっという間も無く、腕を掴んでいる力はそのままの強さでレゴラスを室内へ引き摺り込み、その直後急に離された反動で彼は毛皮の敷かれた床へと倒れ込むしかない。
「…私の言う事が聞けなくなったばかりか…闇まで恐れる様になって戻って来おったか。」
音を立てて閉じられた重厚な扉のせいで今はもう全ての光が遮られ、そう遠くない場所から発せられた父王の声は信じられぬ程に冷たく聞こえる。
―――何を、意図しておられるのだろう。『私の言う事が聞けなくなった』…単につい先程のことを指しておられるのか…あるいは…。
そこまで考えを巡らせた時、出立間際にかの父王と交わした約が確信を持ってレゴラスの心に蘇った。
『夜は、どんな用であっても部屋を出るのではないぞ。』
…忘れていた訳では無く…分かっていて尚私は父との約束を違えたのだ。あの時ああしなければ一生後悔せずには居れない気がして。
―――でも…闇を恐れるなんて…そんな事は。確かにこの室の扉を閉めよと言われた時私は躊躇ったけれど、でももし本当に闇を恐れているのならあの光に溢れた裂け谷やロリアンからこの『闇の森』へ帰って来る事など出来ないのに。
父の言葉に何重もの含みが感じられたが故に、安易な返答は出来なかった。
「…は…雛鳥が自我に目覚めたとでも言うつもりか。外の世界は楽しかったか?これまでそなたを篭めていた私を恨んだろう。…そなたの心を射止めたのは誰なのか、聞かずとも想像が付くわ。」
音も無くいつの間にかすぐ傍にまで寄っていた父王の指先がまるで引掻くかの如き力でもって肩口に触れる。
…ああ、また…同じ場所だ。出掛けに父上が触れた場所、そして光の奥方やハルディアが指摘してみせた場所、そして裂け谷のエルロンド卿が狂おしい熱でもって触れた場所。この場所に、一体何が。
あんなにいつも優しかった父上が、何故今はこんなに冷たい声音で、自分には理解しがたい内容ばかりを口になさるのか分からない。
「…下がれ、長旅で疲れて倒れられても敵わぬ。裂け谷が気に入ったというのなら、此の地を去るのもお前の自由だ、止めるつもりはない。…幸い、私にはお前の他にも後継が居るのでな。」
ややあって告げられた父の言葉は更に信じられぬ程に切り離した口調で。気配のみで扉の位置を探ると、レゴラスは知らず知らず頬を泪で濡らしながら部屋を飛び出して行ったのだった。
「…緑葉の王子。」
半ば何も考えられない状態に捕らわれて、回廊を必死に歩む内に、不意に声を掛けられて。同時にその声の主にはっとして歩みが止まる。
「っ…金華公…。」
そう、裂け谷のエルロンド卿の側近、ゴンドリンの英雄と伝承されるかの御仁が今はこの森に留まっていたのだから。
「どうなされたのです。」
穏やかな問い掛けにみっともない姿を見せたくはなくて、思わず何でもないのだと答えれば、目の前の秀麗なエルフの眉が僅かに寄った。
「何でも無い…と私を納得させるのは少々無理というものです。
貴方は泣いておられるのだから。」
優しい指に目許を拭われて、初めて涙が己の頬を激しく濡らしている事に気付いて。ただその指先に頼って、一時の休息を得ようとするばかりのレゴラスに、金華公は僅かに考えるような素振りをした後ゆっくりとかれの客室の扉を開いた。
「…暫く此処で休んでおいでなさい。」
多くを聞き出そうとはせず、ただそう告げると、かれ自身はそのまま室を出て何処かへと行ってしまう。
グロールフィンデルが足を運んだのは、この森の王の私室。その末王子の様子を見れば勿論この父王も普段の様子ではないのだと解ったから、彼はあえて扉をノックせずに気配を消したまま、真っ暗な室内に身体を滑り込ませた。
暗くて視界は封じられていても、人の在る所の近くの空気は僅かにその温度が異なる。それを辿って行けば、森の王が室内の何処で何をしているのかなどは手に取る様に解った。
「…酒にお強い分、酔いたくても並みの量では酔えぬのではありませんか。」
静かに声を掛けてみた所で、初めて相手は此方の様子に気付く様子。
「その声…ふん、喰えぬ男よな、金華公。」
驚きでひゅっと呑んだ息の音の後には、苦い響きの応えが返る。
「色々とお知りになりたい事があるのでは…?」
掛けた声に、此度はあやまたず右腕を掴まれて、ぐいと引かれた反動で座らせられた場所が森の王の膝の上らしい。
「あれが居なかった時は今どうしているかと知りたくてならなかったが…今はもう目耳を閉ざして居たい心地よ。」
自嘲するかの様にそう言うスランドゥイルの骨張った指が触れる先はグロールフィンデルの癖の無い豪奢な髪。
「けれどそうして目耳を閉ざしたままで居るという事は時として迷い道に己を導く事になりかねますまい…?」
そう告げると同時に、グロールフィンデルは己の髪を玩んだままの森の王の所在無さげな指先を掴んで止めた。
「他の者の髪に触れてみたとて、緑葉の王子とは違う事を思い知らされるだけなのではありませんか。」
諭す様に言ってやれば、スランドゥイルは又苦い笑みを浮べてみせる。
「…言ってくれる。そなたの髪は緑葉のそれよりももっと陽光を映した様だし、滑らかな手触りであるのにしなやかで強い。いっそ私が緑葉に抱いた想いがそなたに向けたものであったなら、互いに思い悩む事無く過ごせたというに…。」
この森の王が緑葉の王子に抱いた想い。口にされずとも彼らの様子を見ていればおのずから察しが付いた。森に篭められていた頃は無邪気で何も知らなかったレゴラスの方も、旅の途中に外界の様子を知る事で、心の何処かで父王の心に気付き始めておられるのでは無いかと思っていたが。
to be continued...?
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