羽化 -UKA-
<02>
何も禁じられた場所という訳では無い。
俺がかれを訪ねようと思うならば、いつでもそれは可能であった筈ではある。それでも何故だか…恋しく、且つ近寄り難い場所だったのだ。
「気に入らなかったかん?」
まるで何事も無かったかのように一月ほどが過ぎ去った或る日、散策のついでの様に四方堂が父の許へ、いやむしろ俺の所へやって来て告げた言葉。
問いは具体的な形を取っていないまでも、彼女が何を謂わんとしているかは自ずと明確で、反射的に俺は思わず目を逸らした。
「…いいえ。」
僅かな間の後に短く返した答えには、そうかい、と小さな溜め息。
「貴方はあまり他人の事に口を出すのを良しとなされない方だと思って居りましたが、四方堂様。」
気まずい沈黙が広がるのを恐れて口を開けば、普段なら『生意気なガキだねえ』と返って来るはずの憎まれ口が今日は無い。
「…そうだなん。でもなあ吹雪、我々の間にも時間は確かに流れるんだよ。」
一見何の脈絡も無い答え。
一体何を謂わんとしているのか、普段ふざけた様なこの人がふっと真面目な顔をして告げた言葉には何らかの含みがあるのでは無いのか。
時間…壬生の一族が定命の種族では無いがゆえに、この地ではついついないがしろにされている存在…それが確かに流れるというのは何らかの変化が起こるということだろうか。
「まあ、お前が理解するのは何百年も先の事かも知れないけどねん。後になってから悔やんでも遅いんだ、あの頃をもっと大切にしとけば良かった、なんてね。」
変化が起きてしまう前の時間を…詰る所は”今”をもっと大切にせよと言いたいのだろう、と思考を整理したのと入れ替わりの様に四方堂は被っていた笠で深く表情を隠してしまう。
「じゃあな、吹雪。」
ぽいと放られた別れの挨拶に思わずこちらの膝が浮いた。
「…御待ち下さい、かれは…村正は、あそこから出られぬのですか?」
それは、あの日からずっと心に掛かっていた問い。
『私はいつも此処に居ますから。』―――あの言葉は、単なる言葉のあやには思えなかった…まるでいつ何時でも、あの場所以外に彼の居場所は無いかの様で。
「あちきは閉じ込めちゃいないよん。…でもまあ、村正ちゃんがあちきの気持ちを汲み取って今まで自分からあそこで過ごしててくれたってとこかなん。」
四方堂の言葉は謎を深めるばかりで、それでも俺の心の中では、今一度あの暗い回廊を歩んで行ってみようという気持ちが勝り始めたのだった。
夜半、人の目の無い刻に記憶にある道を辿りながら歩む。
闇の中でもう一度己に問いただしてみれば、此処へ来る事を躊躇ったのは、きっとあの日心に芽生えた不思議な感情をそのまま彼に知られてしまいたくは無かったから。
せめて己でその感情の正体を解してから彼に知って貰いたい。…他ならぬ、彼へと抱いた感情であるのだから。
考え事をしたまま歩む間に、見覚えのある室の入り口が視界に入る。襖の傍まで歩んで行って、呼吸を整えてからそっと声を掛けた。
「…村正…?」
室内からは仄かに行灯の明かりが漏れてくるというのに、名を呼び掛けても返事は無い。
単に声が小さ過ぎて届かなかったのか…それとも暗黙の内に今宵は帰れと言われているのだと考えた方が良いのだろうか。あるいは一月もの間何の連絡もしなかったから…今更俺が訪ねるのは迷惑だろうか。
奇妙な不安が押し寄せて来て、もう一度声を掛けて返事が無かったなら帰ろうと考えた時、行灯の光にさっと影が射して、内側から襖がからりと開かれた。
「…っ…吹雪…!?」
蘇る金色の光―――闇の中では仄かに灯る、優しい色。
一月振りに見る村正の姿はあの日と少しも変わらぬ美貌でありながらも、僅かに精神的な疲れが滲んでいる様に見えた。
「どうしたのです、何かあったのですか?」
心配そうな顔で問われて、人を訪ねるには非常識な刻だと今更ながらに気がついた。
…四方堂の話から彼が少なからず外から秘められた存在であるのだとそう知ってからは、訪問が他人の目につかぬ様にとそればかりを考えていたから。
「…気遣ってくれたのですね…ありがとう。此処には滅多に人は来ないので驚いてしまって…済みません。」
入って下さいと招き入れられて、勧められるままに灯りの近くへと腰を下ろす。
室内を見回して奥に既に寝具が延べられているのを見て、もう休む所であったのかとぼんやり思った。
「いいんですよ、どちらにしても横になるだけで深くは眠れないんです。」
相変わらずの打てば響く様な応答。
けれど、深くは眠れないというその言葉が意味するものこそ彼の疲れの原因であるのだろう。
「…何か…悩み事でもあるのか。」
口から零れ落ちた問いに、村正はそっと目を伏せて羽織っていた着物の袷をかきあわせた。
「…ええ…でも、今も尚こうしてうじうじと悩まずにはいられないというのは私の弱さなのです。四方堂の姐さんにはこの様な姿…決して見せられませんね。」
それを今自分の前では見せてくれているという事実が、ほんの少し嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「吹雪は…今宵急に此処を訪れてくれたのは、何か訳があるのですか?」
柔らかく問われて、訪問の目的や理由といった類のものを何も持ち合わせていないことに今更ながらに狼狽した。
”―――ただ、会いたかったから。”
そんな言葉が通用するほどに、まだ我らは近しい関係では無かろうに。
「…気が向いたら又来いと言ったのはお前だろう。」
無口な筈の己の唇から漏れる言葉は、まるで恨み言のよう。
「吹雪…その様な事を仰っては、私は都合の良い勘違いをしてしまいそうですよ。」
対して村正の頬に浮べられたのは困った様な笑みであった。
何を言っているのだろうか、言葉にされぬ心までを汲み取る能力を持つお前がそれを読み違うなど有り得ぬだろうに。
それに彼の言う都合の良い勘違いというのはどの様な内容を指すのだろう。
「でも…会いに来て下さって嬉しいです、ありがとう、吹雪。」
村正が話題を変える様にそう言って笑い、次いで何かを考え込む様に小首を傾げる。
「一月の間、私も大分訓練をしたのですよ。意識して人の心から己の意識を引き離す訓練を…自然に聞こえて来る心の声を聞かぬ様にする為の。」
ぽつりとした村正の呟きで、今彼がその生来の力を制御しているのだと初めて知った。
恐らく俺が此処を訪れた最初はそれなりの警戒をして力を使ったままだったろうが、俺が言葉を交わし始めた辺りからその制御をし始めたに違いない。
「それでもやはり声としては聞こえて来ずとも、表情や仕草で何と無く伝わって来るものも多いのですけれど。」
相手の感情の機微に聡いのは、何も持って生まれた能力の為ばかりではなく、その性格に依る所も大きいのだろう。
「使い道のある能力だろう…?何故わざわざ力を抑えてみせる…?」
疑問に思ったことをそのままに相手に伝えてみれば、又もやその両頬には困った様な笑みが浮かべられた。
まるで”分かっているでしょう?”とでも言うかの如く。
「…嫌でしょう、否応なく他人に心を読まれるなど…?それに、”さとり”のせいで私の方でも聞きたくない声が聞こえて辛いこともあるんですよ。だから、いずれ身に付けるべき能力だったのです、勿論まだまだ未完成なのですけれど、ね。」
そうか、と小さく返したのを最後に空白の時間が室内へと広がった。
かれとの間に広がる沈黙ならば別段不快では無かったが、互いに向かい合いつつも自分の膝元を見つめて目を伏せているというのは幾分か滑稽な光景だった。
遠くで啼く虫の声だけが微かに耳に届いて、ふっと物寂しい様な不思議な心地になる。
「…”我々の間にも時間は確かに流れる”、か。」
ふっと心に蘇った昼間の四方堂の言葉を無意識の内に小さく口の端に乗せてしまってから、村正が驚いた様にはっと此方を見つめているのに気が付いた。
「…昼間に四方堂様が俺の所へ来て言い残して行った言葉だ。あの方の真意は良く分からんがな。」
説明する様に付け加えてやれば、村正の頬に浮かぶ笑みがぎこちない。
「姐さんが、そんな事を…。」
少なからぬ動揺を含んだ声音は空気と共に震えて俺の鼓膜まで届いて。
哀しそうに寄る眉が痛ましくて、今にも崩れ落ちそうな細い肩へ知らず知らず腕を伸ばさずにはいられなかった。
―――その身一つに、一体何を抱え込んでいる。
恐らくは彼特有の力によって否応無く背負わされた重みなのかも知れぬ。だが、叶うならば…お前の哀しみを共に背負えはしないだろうか。
それが大それた望みだというのなら、せめて彼が苦しんでいる時に傍で支えていてやりたい。
他人のことなどどうでも構わぬと思っていた俺にこういった感情が芽生えさせたのは…彼が初めてだ。それは取りも直さず俺の中で彼が特別であるという事…あるいは愛しさや執着にも似た感情なのか。
では彼の中での俺はどの様な存在なのだろう。
今ばかりはその”さとり”の力を押さえつけてしまっている彼が少し心憎く思えてしまう…そうでなければ、あの打てば響く様な明敏さで何らかの応えを返してくれただろうに。
「…吹雪…?」
いつの間にか少し触れるだけのつもりだった腕の力がまるで締め付ける様に強くなっていたのだろう、村正が微かに苦しげな表情を浮べて此方を見つめた。
「…悪い。…四方堂様がどうかしたのか。」
何事も無かった風を装いながら、しかし縮まった距離は離そうとせずに腕の力だけを緩める。
村正は一瞬其処から抜け出そうとしたものの、ゆっくりと力を抜いて、やがて俺にその身体の重みを預けつつ静かに口を開いた。
「誰よりも大切な人に…自分の手でその人を滅ぼして欲しいと言われたら…貴方はその言葉に従いますか、吹雪。」
誰よりも大切な人。
何とも優しい言葉なのに、続けられたのは残酷な条件。
自分の手で、か…他者に殺される位ならいっそ己の手でその命を抱きしめる様に屠るかもしれないが。
「…従ったのか。」
直接の返答は避けて低く問い返せば、まだ刻(とき)が満ちていませんから、と謎掛けの様な答え。
四方堂の言葉といい、鍵となるのは『時間』…未来のことを憂いているのは想像に難くない。
沈黙だけが広がる室内に肌寒さを感じ始めた頃、不意に村正がゆっくりとその身を起こして俺との間に距離を取った。
「…もう随分遅くなりましたが、戻らなくても大丈夫ですか、吹雪…?それとも…今夜は此処に泊まって行きますか…?」
此処を訪れてからさして時間が経過したとは思えない、だが訪れた時間が時間であったがゆえに、村正はこうして帰りを促してみせるのだろう。
泊まっていくかと選択肢を出してくれたのは、せめてもの彼の優しさ。…どちらにしても抜け出して来たことが分かれば両親が騒ぎ出すのだから、俺が帰らざるを得ぬことを知った上での。
「帰る。」
短くそう告げて入り口へと向かえば、静かな衣捌きで立ち上がった村正が室の外まで送ってくれる。
「…お休みなさい。」
以前に此処を訪れた夜と同じ、優しい響きが胸の奥を焦がす。
呆気ない別れの言葉が次の逢瀬を約しはしないことが、何とも切なく感じられた。
「ふふん、お前も中々やるなん、吹雪。」
翌朝早々に俺の屋敷を訪れて来た四方堂に、出迎えた両親も、そして俺自身も驚かずにはいられない。
「訪ねる時間が深夜ってのはまるで夜這いでもかけてるみたいだよん。」
昨日の今日で何故その様なことを知っているのか、村正と四方堂の間では何もかもが筒抜けになるのだろうかと脱力しかけると同時に、この言動がそこはかとなく下品な上司の言葉に一瞬どきりとする己がいる。
訪ねたその瞬間は、その様なこと思ってもみなかったのに。
「まあいいけどねん。…それより吹雪、お前にも成人の式典の沙汰が下ったよん。村正ちゃん、誘うなら自分で誘いな。」
成人の式が何かを象徴するというわけではないし、それを済ましたからといって己の生活が大きく変わるというわけでもない。
それでも、あの村正と同列に立てるということが何とはなしに嬉しくて。
深く拱手をしながら、常に無く心が浮かれていた。
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