黎明 -01-
―――初めてその姿を見た時、この世界の神秘を全て集めて凝縮させた様な男だと、そう、思った。
手持ち無沙汰で特に何もする事が無くて、庭の奥まった所で昼寝でもしようと横になった時。
この様な場所に滝など無いと思っていたのに意外なほど近くから水音が聞こえて、つと興味を惹かれて音の源を探しに歩いたのが始まりで。程無く背高い人影の手から際限無く水飛沫が迸り、地面に消えていくのを見たのであった。
「あの。」
幸村が思わずそっと声を掛けるのと相手がその水を跡形も無く消し去るのが同時で、彼は幸村の姿を見止めると軽く頭を下げ、その場を辞そうとして。
「…貴方は、誰?」
折角出会えたのだ、名前位は聞いておきたいと物怖じせずに訊ねた幸村に、相手は口許にほんの僅か、穏やかな微笑みを浮べた。
「猿飛佐助と申します。」
父や兄の話の中で、何度か耳にしたことのある名。
誰であったかと思考を巡らせつつ、更に何か会話の発端を開こうとした幸村に、佐助と名乗った男はゆっくりと跪いた。
「…良き武将におなり下さいませ、幸村様。」
そうしてそんな一言を最後に、彼の体は花びらとなってその場から姿を消して。
それが『空蝉』と呼ばれる忍術の一つである事を知ったのはだいぶ後、幸村がもっと成長してからの事で、当時は泉の精が気まぐれに姿を見せでもしたのかと思ったものであった。
聞き覚えのある『猿飛佐助』という名を持つ人物について、父や兄に訊ねる事はた易かったが、何故か彼の事に関しては他人に聞いて知るのではなく自分で直接知って行きたいという欲望が働いて、その日の出来事は幸村の未だ幼い心一つにしまわれた。
* * *
『佐助』という彼の名を次に再び耳にしたのは、父や兄が戦の陣立ての相談をしていた時。幸村は偶然隣室で書物を覗いていた最中であった。
「佐助が十勇士を率いて戻りまする。…この局面は、彼に任せるのが最善の策でございましょう。」
『佐助』『十勇士』―――――ああそうか、『佐助』とはこの真田の家を陰から守る『真田十勇士』の筆頭忍の名であったか。そして兄が”戻る”と言ったという事は、これまで彼はどこか他所の土地へ行っていたということなのであろう。
もしそうならば彼が戻って来た時、自分にも再び彼に会う機会があるかも知れぬ。
「しかし信幸、此処は随分と危険ぞ。十勇士は真田の宝、彼らを失えば我らも終わりじゃ。」
「だからこそ、此処を切り抜けられるのは佐助の力を以て他には無いのです。私とて親友である彼をその様な戦地に追いやりとうはございませぬが。」
隣室からの二つの声は、不意に緊迫感を帯びてこの部屋へと伝わる。
「…仕方あるまい。戻り次第、佐助をわしの許へ召せ。」
暫しの沈黙の後、父の幾分苦渋に満ちたその声を最後にその談合は終わった様であった。
城中が俄かに騒がしくなったのはその数日後。
「例の十人が戻ったというぞ。」
「おお、ではいよいよ出陣となるのか。」
家臣達がそう騒ぐものの、何故か幸村にはあまり実感が湧かなかった。
それというのも次男坊であった彼は、一つ上の兄が初陣を迎えた年齢を過ぎても未だ戦場へ赴いた事が無かった故である。
真田の家がどの様な状態に置かれているのか、全く知らぬ訳では無い。
それでも父や兄が何も言って寄越さぬ所を見ると、此度も自分が戦場へ呼ばれる事は無いかに見えた。…尤も生来、人と人が殺し合う場所など好みはしなかったから、それにさしたる不満もありはしなかったが。
「幸村、私と共に来い。」
それ故に、兄がその日の夕暮れに慌しく室へ呼びに来た折には随分と意外な印象を受けて。
「どうしたの、兄さん。…今回も僕はお役御免かと思っていたんだけど?」
いつもの調子でのんびりと返した次男坊に信幸はちらりと視線を投げた。
「父上も私も此度の戦にお前を出陣させる気はない。だが…陣立ての評定位は見ておかねば次回初陣させても役に立つまい。」
簡潔にそれのみを告げて、先に立って城の中広間へと早足で歩んで行く。
広間には既に家中の重臣達が身支度を整えて居並んでいた。上座には父、昌幸の姿も見え―――その脇へと視線を移して、思わず幸村ははっと息を呑んだ。
黒衣に身を包んで父の脇に控えているのは、間違いなくあの時の『彼』だ。
真田十勇士が長、猿飛佐助…彼はあの時会った自分の事を少しでも覚えていてくれるのだろうか。いや、もし覚えていてくれるのだとしたら、未だ初陣も迎えておらぬ己の姿は彼を失望させてはいないだろうか。
『…良き武将におなり下さいませ、幸村様。』
あの時の言葉が、ずっと耳に残っている。
あれから書物にも、そして剣の道にも精を出して励んだくらいだ。―――次に会った時、彼に認めて貰える様な存在になりたくて…自分でも子供じみた事だと分かってはいたけれど。
「おお、信幸、幸村、参ったか。」
上座からの父の声に促されて、示された場所に座る。
『佐助』は他の家臣達同様に低頭したまま二人の若主人を迎えた。
「では、早速始めるとしよう。」
とはいえ、評定の内容は特に変わり映えのせぬ、平凡なもの―――先晩父と兄が囁いていた作戦は、皆には伏せたまま実行するという事なのだろう。
粗方の指示が伝えられた所で、不意に『佐助』が父の耳に小さく何事か囁いて席を立った。既に武将達が各々の持ち場へと戻る仕度でざわめいていた事もあったが、実に敏速な身のこなしで、それに気付いたのは恐らく兄と、そして幸村だけであったろう。
「佐助。」
幸村の隣に座していた兄が低くそう呼びかけると、彼は足を止めて兄の傍らへ跪く。
「…信幸様。」
名を呼び合っているだけのその動作が、ひどく甘やかに感じられたのは何故だろう。
「…気を付けて行け。」
兄の短い言葉には万感の思いが込められている様で。
はい、と短く応えた佐助は次の瞬間には風の様に視界から消えていた。
結局彼と視線すら合わせる事は叶わなかった、と少しばかりの不満を覚えつつも評定の場を後にしようとした時、恐らくはそれが用件であったのだろう、父に背後から呼び止められる。
「…以前に会うた事があったのか。」
誰に、とは聞かずとも分かる。父が意図しているのはまごう事無く彼の事であろう。
是、とうなずく幸村に、父はかすかな笑みを見せた。
「…お前がずっとあれを見ておった故、分かった。此度の戦が終わったら十勇士と共にお前の指南役に付いて貰おうと思う。頼りになる男だ、兄と思って師事するがいい。」
それは思わぬ絆であった。
十勇士の長である彼が直接に仕えるのは、家長である父か、あるいは世継ぎである兄かと思っていたから。
「…次の戦では、お前も武器を握ることになろう。此度の一戦、良う見ておけ。…戦武者としても、戦略家としてもな。」
中空を見据えて最後にそう呟くと、父である昌幸は幸村を残して座を立った。
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