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雪月華 * 拾六の巻





 こんなに、軽かったろうか。
 元々細い体躯だと思ってはいた、余分な脂が無い分、女より華奢に見える事さえあって。時折物陰から垣間見た剣術の稽古をする姿は随分と優美に感じられたものだ。優雅でありながら強靭なその技は、親の欲目かも知れぬが見事な物だった。

 けれど、今は。
 ぐったりとしたその姿故か、直接に抱えた腕へとかかる重み故か、随分と儚げで。鉄砕牙の荒々しい技を避ける事無く受け止めた後では、今にもその玉の緒が切れそうな危うささえある。
 冷え切った体温はこの夜の冷気ゆえなのか、それとも殺自身の身体の衰弱故なのか分からない。

「しっかり致せ。…私を置いて死ぬでないぞ。」

 聞いては居らぬだろうと知りながら小さくそう語りかけて、これ以上体温を奪われぬ様にとしっかりと抱き込んで飛行を続けた。



 直接水の宮へと向かうつもりだったが、例え気休めに過ぎずとも薬師を呼んでおこうと寄り道をして本殿へと入って。既に日も暮れて久しい時刻ではあったが、館を守る家臣達が慌てて出迎える。
 私に抱えられた殺の姿を見て一斉にざわめく妖怪達の声も、ぱちぱちとはぜる篝火の音もやけに遠くに聞こえて、自分の目が腹心の部下の姿だけを必死に探しているのにぼんやりと気付いた。

「御屋形様、気を確かにお持ちなされよ!!殺生丸様のそのお姿、何があったのです?兵を、出しますか?」

 求めていた姿が向こうから此方に近付いて来て、ぼんやりとした私の瞳を捉えて強く叱咤する。

「兵…?」

 思わず呆然と呟いたその言葉。
 兵、か…誰に向かって出せと言うのだ…?この私自身が最愛の者を傷付けたというのに、一体誰のせいにしてしまえと?

「殺生丸様の御怪我、何処のどなたの仕業かとお尋ねしているのです!!一緒に居られたのでしょう、御屋形様と。貴方方二人を相手にしてその様な深手を負わせられる者など滅多にはおりますまい。」

 ああ、そうだろうな、殺自身ももう十分に強い。手取り足取り戦闘の手ほどきをした記憶は無いが、あれはいつの間にか随分と力を身に付けた。
 無抵抗で私の剣筋を受け止めさえしなければ、あるいは心の乱れている私の剣を逆に返す事さえ可能だったに違いない。

 乾いた笑みが頬に浮かび、それを目の前の男が不審そうに見つめるのが目に映る。

「殺に傷を負わせたのは…この私自身。兵を出すあてなど、ありはしない。」

 小さく呟いた言葉に、彼の目が見開かれ。続いて近くに居た下っ端の妖怪達にこの場から下がるようにと命じる声がした。

「何か、訳がおありだったのでしょう、御屋形様。まずは…手当てをしなければ。このまま本殿に薬師を呼びますか?」

 尋ねられて、否、と首を振る。

「出来るなら、水の宮へ運びたい。余計な者が興味本位に覗きに来る事は避けられよう…?」

 無言のまま肯いた彼が、軽く頭を下げて回廊を戻っていって。呼んで来るから先にあちらへ渡っていろということか。



 水の宮で、主の常ならぬ様子にあたふたと慌てる邪見を何とか宥めすかして殺の寝所を整え、横たわらせて暫くした頃。先程用事を言いつけた腹心が室の襖の陰に膝を付く気配がした。

「薬は、半刻後までにご用意出来るとの事でございます。…入っても、宜しゅうございますか?」

 ああ、と許可を与えると、静かに中に入ってきた彼がじっと此方を見つめて来る。思えば、この室に私以外の者を入れたのは…これが、初めて。

「殺生丸様が、何か御屋形様の勘気に触れる様な事を?」

 言い辛そうに、発せられる言葉。つまりは、私が意図して殺に傷を負わせたのかどうかと尋ねているのか。
 …その様な筈などない。殺が私に対して害となる様な事をした例など、今までただの一度もありはしなかった。
 いつだって、あれの心を傷つけ続けて来たのはこの私の方なのだから。

「…いや。」

 では何故、と言い募る相手を目線で制する。
 今は何も答えたくないと言っても、納得はせぬだろうな…殆ど接点が無かったとは言え、殺生丸の事を慕う家臣は多いから。

「まさか殺があの様に己の身を挺してあの男をかばうとは…思ってもいなかったのだ。」

 あの男、と言ったそれだけで、彼は私の言わんとした事を察した様だった。
 微かに眉を寄せた彼が、痛ましそうに目の前に横たわる殺生丸の青白い頬を見つめる。

「御屋形様も、殺生丸様も…傍から見ていて痛ましいほどに不器用ですな。互いに誰よりも大切に想っておいでなのだと、私達でもはっきりと分かるのに…何故御本人にそうお伝えにならぬのです…」

 何を、言っている?私が殺を他の誰より気に掛けているのは事実だとしても、殺が私を想ってくれているなど…有り得ぬことだ。
 父親としてすべき事は結局何一つ出来なかった、一族を束ねる長としての姿もあれの前でだけは取り乱した情けないものしか見せられず…想いのやり場が見つからずに私はあれをこの身の下に組み敷き続けたのだから。身勝手に他の種族の屋敷へと遠ざけ、挙句耐え切れなくなって呼びつけて無理難題を押し付けた。
 …こんな男の、一体何処を愛してくれると言うのだ…?

「…薬師が参った様でございますよ。」

 場の空気を変える様にそう立ち上がった彼が襖を開けて出て行くのと入れ替わりに、呼んでおいた薬師が手に小さな壷を持って入って来る。

「意識があられぬと伺いました故、飲み薬ではなく塗り薬を…。私が御塗り致しましょうか、それともお預けした方が宜しいですか?」

 頭を下げたままそう尋ねてくる相手に、一瞬躊躇してから殺の身体に直接塗る様にと命じて。
 こんな時でさえ殺の裸身をさらす事に抵抗感を覚える自分に呆れずにはいられない。

 処置はものの数分もせぬ間に終わって、朝又薬を塗りなおす様にと言い置いてから薬師が戻って行く。

「御屋形様、私もこれで下がらせて頂きます。殺様がお目覚めになったら…今度こそ言葉に出してお心を伝えて差し上げて下さい。きっと…お喜びになりますよ。」

 ぼんやりと物思いに沈みかけた所でそう声を掛けられて、勢いに押されて肯いて。それでも未だ自分にその様な勇気が出るのか、随分と不安ではあったのだけれど。



 覚悟を決めて殺の寝顔を眺め続けてはや数刻。
 ぴくりとも動かぬその瞼が、このままもう開かぬのではないかと縁起でもない絶望が胸の内を去来する。
 部屋の四隅に灯してあった灯りも、枕元の一つだけを残して吹き消した。

 不意に、小さく動いた殺の指先が、きつく褥を握り締める。今まで何の表情も浮かんではいなかった顔は、眉が寄せられ、苦しげな風情で。
 夜毎私を受け入れてくれた時でさえ殆ど漏らす事の無かった喘ぎ声がその喉から迸った。

「ぅ…寒い…」

 断片的にしか聞き取れぬそれから意味のある単語を聞き出して、慌ててもっと掛け物が無いかと辺りを見回す。
 すぐには見当たらず、着ていた上着を取り敢えず掛けてやるものの、殺の身体の震えは止まらずに、褥を握り締めて耐えるその爪の先は今にも血を流しそうに自らの手に食い込んで。

「自分の手に爪を立てるな、怪我をしてしまう…何かを握り締めねば耐えられぬなら、私の肌に爪を立てればいい。」

 無意識のまま殺を抱き込む形で横たわって体温を分け、その指先を柔らかくほぐしてやれば、ほんの少しだけ表情が安らかになった。
 やはり人肌が温かいのだろうか、ぴったりと身を寄せて来る殺をしっかりと抱きしめて髪を撫でる。

 不意に、間近に見える閉じられた瞼から一筋だけ光る雫が伝って。それが酷く清冽に、そして美しく瞳に映った。

 意識を戻さぬまま、そなたはどんな夢の中を漂っているのだろう。どうかそれが苦痛に満ちた夢ではないものであって欲しい、と…身勝手とは分かっていても切に願わずにはいられない。



 朝が来て薬師が新しい薬を持ってやって来ても、未だ殺の意識が戻る気配は無かった。ずっと傍で付いていたいのは山々だが、その瞳が開いた時どんな反応が返ってくるのかと思うと不安が先に立つのも又事実で。

「御屋形様、陵峨殿と烈峨殿が本殿の方へお見えですが…お通ししますか?」

 取次ぎにやって来た腹心に、どう返事したものかと迷う。
 来たければ来い、と言った手前、追い返す訳にも行くまいが…殺が目を覚ました時にあの男と微笑み合う姿をこの目に映したくはなかった。

「御屋形様!!…あの方を遠ざけられたとて、殺生丸様のお心があの方を想っておいでならば詮無き事ですし、逆に御屋形様を想っておいでならば何の支障もございますまい。私の個人的な見解では後者だと思いますが。いずれにせよ、お心をしっかりお持ちなされ。」

 叱咤されて、曖昧に肯いて。その言葉が限りなく真実を言い当てているだけに、心にずしりと重みが増す。

 程無く静かな足音が近付いて来て。

「お加減は、如何ですか?」

 相変わらず取り乱す事のない、穏やかな声音が掛けられた。

「…ううむ、未だ山を越えておられぬ様じゃの…少しでも苦痛が和らぐ様にと、薬草を煎じて参ったが…意識が戻っておられぬのでは飲めまいな…」

 続けられたのは、その叔父である烈峨の幾分しわがれた声。

「薬を飲ませれば、多少は楽に…?」

 藁にもすがる思いで尋ねれば、老妖怪はゆっくりと肯いて。

「さよう。大将のお屋敷の薬師も色々な薬をご用意なさるかとは思ったのじゃがな…今回の一件には陵峨にも責任がある故、詫びの一環として持って参ったのじゃ。」

 それに小さく礼を言って受け取り、迷う事無く自らの口にそれを含んで口移しで殺に与える。
 …自力では飲めずとも、これならば多少なりとも体内に癒しの薬を取り込む事が出来よう。
 顔を上げると、向かいに腰を下ろした陵峨が見る事耐えられぬと言うかのように僅かに顔を背けていた。

 気まずい沈黙が場を支配する中、時間だけが無情に過ぎて行く。
 まるでこの重い空気を形容するかの様に、横殴りの雨が庭の樹木に打ち付けていた。





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