雪月華 * 拾伍の巻
朝、殺と久し振りに会って話をして。
『愛する女がおいでなのなら、身代わりで身体を慰める事などせずに、一途にその相手をお愛し下さい。』
その言葉が心に強く残っている。衝撃を受けながらも、心に一つ、決めた事があった。
殺を連れ戻そう。一度した命令を翻したと多少面目がつぶれても構いはせぬ、もう自分の心を誤魔化し続けるのは止そう、と。
それでも陵峨の屋敷まで出向く決心が中々付かずに、結局だらだらと日中を過ごしてしまった。
夕刻になって、本殿にふらりと足を伸ばした時に昨日殺の許へと使いに出した家臣に出くわして。行かれるのなら早い方がいいですよ、という聡い彼の言葉に背を押されて屋敷を出たのだ。
けれど、正面から陵峨の屋敷を訪ねた所で、慇懃無礼な対応をする家臣が曖昧な返答をするのみで、いつまでたっても殺も、そして陵峨も姿を見せない。
痺れを切らして自力で殺の気配と匂いを辿って。ようやく行き着いた先で私を出迎えたのが見覚えのある老妖怪の姿だった。
陵峨の叔父、だったな…自身にも相当な妖力があるというのに、家督争いをすることも無く兄の子である陵峨にその役目を譲った男。確か烈峨という名であった。
その男が今は私を中に入れることが出来ぬ、と言う。殺とそう約したから、と。
何かあったな、と直感で分かった。そしてその直後に現れた陵峨の存在が、その予感を確実なものにする。
何かあったのだ、この陵峨と。そうでなければこの陵峨までもが入れて貰えぬ筈は無い。
「今のお主らでは、どちらも苦しみを与える事しか出来んよ。」
続けられた烈峨の言葉は酷く真実を映していて。心が酷く痛んでならなかった。
そして烈峨のその言葉のほんの僅かに後に、求めた姿が目の前に現れる。
「すぐにお迎え出来ず失礼を致しました。…何か、ご命令がおありでしょうか、父上。」
建物から出て来るなりそう言って目の前に跪いた殺。
朝の結い髪は既に解かれてさらりと流され、その間から覗く紅い痕に愕然とした。紛う事無き情事の跡。私ではない、他の誰かとの…恐らくは、この陵峨との。
「…どう、なされたのです…?」
殺が不安そうにそう問い掛けて来るのが酷く遠く聞こえた。
「お前の残した痕か、陵峨。…今朝方会うた時はあの様なもの、付けてはおらなんだ。」
口から漏れる嫉妬の言葉を止める事が出来ない。手は無意識に腰に指していた鉄砕牙を掴み、それを鞘から引き抜く。
「おやめ下さい、父上!!」
…そんな必死な顔をするのだな、陵峨の為などに。
そんなにも、大切か。愛しく、想うておるのか…たった数週間前に出会った、敵に近い様な部族の総領の事を。
「例えそなたの願いでも、此度は聞けぬ。」
苦しげに表情を歪める殺と、近付いてきてそれをそっと慰める烈峨とを視界の端に収めつつ、陵峨へと鋭く視線を投げ掛ける。
負ける気は、しなかった。私は勝つ…勝って殺を我が手の内に取り戻してみせよう…必ず。
「勝負を、お受けしましょう。」
そう答える陵峨の声が妙に落ち着いているのが腹立たしくてならない。
何故そんなに平静でいられる、自分の力に奢る気は無いが、私との妖力の差は明らかであろう。それとも殺と心を交わしてその妖力が強まったとでも言いたいのか。
初めは恐らく負けを認めさせるだけのつもりであったのに、いつしか本気の殺意が芽生えていた。
暫しの睨みあいの後、互いに攻撃を繰り出す。やはりその辺の雑魚の様には行かぬか、一撃一撃の手ごたえが重い。
攻撃の合間にちらりと殺の方へ目線を投げれば、顔面を蒼白にしたまま此方を見守っていた。
お前は…陵峨が勝利を収める事を望んでいるのだろうか…?
陵峨が相手だと、風の傷だけでは決着が付かぬ。彼に幾分か疲労を与える事は出来ても決定打にならぬからだ。
陵峨が大きな攻撃を出して来た時が勝負か…爆流波を打ち込めば、多分倒せる。相手の闘気が渦巻き始めた時、打てる、と確信した。
…けれど。陵峨の闘気を弾き返そうとしたその瞬間。
細身の白い影が、間に割り込む。
慌てて刀の威力を弱めても、既に攻撃は繰り出してしまった後で。
その瞬間に、世界が静止してしまった様な気がした。
どさり、と音がして。石畳の上に殺生丸がぐったりと倒れ込む。僅かに眉を、寄せながら。
「殺殿、しっかりなされよ!!何故私などの盾になったりなされた…!!」
殺の近くに居た陵峨が咄嗟に抱き起こすのが、随分と遠く見える。右手から、鉄砕牙がガラリと転がり落ちた。
ゆっくりと其方に近付けば、白い着物の肩の辺りから紅い血が滲み始めている。けれどその瞳は閉じられたままで。
「殺…目を開けよ、私の声が聞こえぬのか!?」
傍らに跪き、思わず陵峨からその身体を奪うかのように抱き取って揺さぶる。
「大将、いけません、その様に揺さぶっては傷が悪化するかも知れない。」
傍らから覗き込む陵峨にそう言われて私が我に返るのと、殺の目がゆっくりと、しかしぼんやりと焦点を合わせずに開かれるのが同時であった。
「…父上…?」
小さな声がその唇から放たれて。続いて彷徨った視線が陵峨を捉える。
「ご無事か、陵峨。」
微かな笑みさえ頬に浮かべて。
愛しい男の無事が…嬉しかったか…?父である私に刃を向けられなかったのだろう、ただただ自分を私の攻撃の盾として傷付いてまでも。
「貴方の、御蔭で。…もう何もおっしゃるな、傷に障ります。」
そう答える陵峨の目元が、溜まった泪で光っていた。
「殺…」
思わず口から漏れた呼び声に、殺生丸はゆっくりと頭を動かす。
「…どう、なされたのです、父上…泣いて、おられる…?」
傷付いた左腕がゆっくりと上げられ、そっと私の頬に触れた。冷たい指先は細かく震えて、それでも殺がそうしてくれた事が嬉しかった。
私に対する感情が未だ残っていたという事だから。
「済まぬ…」
零れ落ちた詫びの言葉に、殺の瞳が僅かに見開かれる。驚いているのか…これほどまでにこの息子に自分の自我を押し付けながら、今までこんな簡単な詫びの言葉さえも口にした事がなかった、と今更ながらに思う。
「構いませぬ…例え妖怪であろうとも、泣き場所となれる相手が必要なのだと、烈峨が言っておりました。父上にも…早くその様な相手が…」
途切れ途切れにそこまで言った殺が、その瞬間にはっとした様に身を強張らせ、続けて渾身の力で私から離れると、地面に両腕を付いて激しく咳き込んだ。そして石畳には、殺がたった今咳と共に吐き出したのであろう鮮血が花びらの様に散る。
吐血を…?何という事だ、癒しの剣・天生牙があるとは言え、まさか私は殺が一度息を引き取る所をこの目で見なくてはならないのか?
「叔父上!!何とか出来ませぬのか!?」
側で陵峨が叔父の烈峨に向かってそんな事を叫んでいる。
ああ、そうか、烈峨は癒しの大家でもあったのだった。
「薬草で痛みを和らげる事は出来るが…本当の意味での治療は無理じゃ。ご自身の回復力に賭けるしかない。」
けれど、陵峨の返答はそんな望みを絶ってしまった。
「痛むか、殺…?」
顔を地面に向けたままの殺に我ながら意味を持たぬ問いを掛けてしまう。
痛むに、決まっている。鉄砕牙の奥義を、たとえ僅かに力が弱まっていたとはいえ、弾き返さずにその身に受けたのだから。
でも、それなのに。
「大事、ございませぬゆえ…」
呻くようにそう答える殺が痛々しい。
顔を上げさせ、未だ口元に残る血を袖で拭ってやる。汚れてしまうから、とこんな時にまで気を使う殺生丸が、それでも逃げを打つ力は残っておらずにされるがままになって。
「そなたの血だ、汚れなどとは思わぬ。」
そう、私の最愛の存在が私のせいで傷ついて流した血。
私にもう少し自制心があれば、そしてあの時の殺の制止を聞いていたなら、あるいはこうなる可能性に予め気付いていたならば、避けられる筈だった。
「水の宮へ、連れて帰る。来たければ…そなたも来い、陵峨。」
殺が幼い頃からずっと住んでいた宮だ。回復を待つのなら、此処よりは効果があろう。
地に落としたままだった鉄砕牙を拾い上げて腰に戻し、振動を与えぬようにそっと殺を抱き上げる。後から伺う、と低く答える陵峨の声を聞いてからそっと地面を蹴って空中に飛び上がった。
一瞬の衝撃を受けて、あとはじわじわとした痛みが全身を襲う。
周りの声が聞こえていながら暫く動けずにいたけれど、目を開けよ、と命じる父の声に反射的に身体が動く。
視線を巡らして陵峨が無事である事を確認し、安堵の息をついた。
死んで欲しく、なかったから。妖怪としては甘い事を言っている自覚はあるが、私の大切な者同士が殺しあうのは見たくなかった。
「殺…」
呼び掛けられて顔をそちらに向ければ、父の頬が透明な雫で濡れていて。私が怪我をした事を哀しんで下さるのか、と少しだけ嬉しかった。
そして、もしかしたらこの私を父上の一時の”泣き場所”に選んでくれたかも知れぬ事が。
不意に身体の奥から吐き気が込み上げて来て、同時に喉の奥がむせ返る。このまま父の腕に身体を預けていては父の衣服を汚してしまうだろうと、必死に腕に力を込めて体を離した。
間一髪で口から漏れる激しい咳。そして同時に吐き出された、鮮血。
このまま、死んで行く運命なのだろうか。
妖怪で、それも大妖怪の父の血を受け継いだ私にはその様な単語は今まで無縁であったけれど、父上の牙の剣にかかって命を閉じる事が出来るのなら、それも又悪くは無い、か。
それにもし未だ父上にとって私が必要な存在であるのなら、たとえ息絶えた所であの天生牙という剣を使って現世に連れ戻して下さるであろう。
妖怪の世には稀に見る、あの癒しの剣で。
「痛むか、殺…?」
父にそんな風に問いかけられて、ゆっくりと否定する。身体を襲っていた激痛は既に麻痺し始めていた。
顔をそっと上げさせられ、父の袖が私の口元を拭う。父上ならばわが身の毒の害にあたる事は無いであろうが、それでも着物が汚れてしまう。
「そなたの血だ、汚れなどとは思わぬ。」
それは、父が初めて私に向かって掛けてくれた、優しい響きを持つ言葉だった。
「水の宮へ、連れて帰る。来たければ…・そなたも来い、陵峨。」
そう言った父に、一瞬の後には身体ごと抱き上げられて。生まれ育ったあの宮へ帰れるのか、と不思議な感慨が胸に宿る。
頬に押し付けられた父の胸から伝わる力強い鼓動が、酷く耳に心地良かった。
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