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雪月華 * 拾七の巻





 結局殺が意識を戻したのは、その日の夕刻の事。


 陵峨と烈峨はあまり遅くまで居座っても悪いから、と本殿に整えさせた客間に下がって行って久しく、一人残された私は急に不安を覚えて腹心である男を呼んだのだった。

「そなた…済まぬが、暫く私の代わりに殺に付いていて貰えまいか。」

 彼は一瞬瞠目して、次に苦笑と共に私を叱る。

「お屋形様…いい加減になさいませ。じれったいのにも程という物がございますよ。考えて御覧なさい、目が覚めた瞬間に視界に入るのが自分の父親でなくて、単なる家臣だったら…誤解が深まるばかりだとは思いませんか?私が若君だったら、間違いなく貴方に疎まれているのだと解釈しますよ。」

 疎んでなど居らぬ、と咄嗟に反論し掛けた私に、彼が得たり、と微笑んだ。

「言葉に出さねば伝わらぬ想いもあるのだと、そう申し上げましたでしょう?それとも目覚めた瞬間、私に殺様を横合いから掻っ攫われたいのですか?」

 まんざらでもありませんよ、と一瞬真顔に戻った彼が軽く私の肩を叩く。

「もっとも、もうそんなにはらはらしながら目覚めをお待ちになる必要も無い様ですが?」

 意味ありげに目配せされてはっとして其方を見やれば、閉じられていた筈の殺の瞼がうっすらと開いていて。

「気がついたのか?」

 たった今までの葛藤とは対照的に、ごく自然にその枕元へと跪く。先程まで傍らにいた筈の腹心は、空気を読んでいつの間にか姿を消していた。

「…父上?」

 未だぼんやりとしたままの瞳が焦点を結ぶ。

「済まなかった、陵峨を庇ったお前ごと斬りつけてしまったことも…それから今までの、もっと他の事も。」

 ああ、やはり気の利いた言葉など一つも出て来ない。心を伝えろと言われたが、この胸の中に渦巻く気持ちを言葉におこす事など出来はしない。

「何を、仰っておいでなのです…?私が怪我をしたのは私自身の咎、父上の咎では…」

 常よりも細い声で紡がれたそんな台詞に、無性に目頭が熱くなった。
 ―――お前はいつも、そうやって…全て自分のせいにしてしまう。

「違う、そうではないのだ、殺。お前がどんどん陵峨に心惹かれて行くのを黙って見ているなど出来なかった。自分でお前を送り出しておいて、嫉妬に狂いそうでならなかったのだ。夜毎お前をこの腕に抱いたのも…お前の全てが愛しかったからだ。どんな方法でも良いから、お前を我が手の内に繋ぎ止めて置きたかった。」

 一旦話し始めてしまえば言葉が泉から溢れ出る水の様に次々と流れ出して行く。見つめる相手の瞳からその時不意に一筋の光る雫が現れて、殺が昨晩無意識のうちに流した涙が鮮明に脳裏に蘇った。

「…泣かないでおくれ、そなたに泣かれてしまったらどうして良いのか分からぬ。」

 泣いてなど、と吐息の様に呟く殺の頬を拭ってみせれば、途端に恥ずかしそうに顔を俯けてしまう。
 そのまま静かに引き寄せれば、何の抵抗も無く腕の中に納まる体。

「こうして身を委ねてくれるのは…私が従うべき相手だからか…?」

 ふっと不安を覚えて思わず口にした台詞に、殺の肩がびくりと揺れた。

「それは…父上の命に逆らうなど致しませぬが、でも…」

「でも…?」

 何かを言い掛けて躊躇いがちに口を噤む殺生丸に先を促す。

「私が貴方に従うのは…父上をお慕いしていたからです。ずっと幼い頃から、父である貴方からの愛情が欲しかった。父上が私を閨の相手として訪れて下さる様になってからは…例えどんな形であれ、傍に置いて下さるならば本望だったのです。」

 全てが過去形で語られる事に更に胸がざわめいて、殺の体を抱きしめる腕に力が篭った。

「今は…?陵峨と出会って、そなたの心は奪われてしまったろう?」

 暫しの沈黙が重い。
 小さく身じろぎした殺生丸が、それでも僅かの後にゆっくりと言葉を発する。

「…陵峨には…彼には、いつからか『父親』を重ねて見ていました。穏やかで、優しくて、傍にいるととても安らかな気持ちになれました故…。」

 陵峨の事を話す時の殺は、声音までが安らいだものになっている気がして、胸の奥がちりりと痛んだ。

「それでも、彼の肌を知った朝に…私はずっと父上の幻影を追う事をやめられぬと、唯一人欲しい相手が誰か、己の心に気付かざるを得なかった。陵峨には勿論感謝も、好意も抱いていますが…」

 陵峨を身体を重ねたという事実を殺自身から聞くのはやはり堪える。
 だが…こんな私を、苦しみしか与えられなかった私の事をも、そなたはただ一人の相手だと呼んでくれるのか。

「…良い、もう何も申すな。」

 思わずその先の言葉を制して、そのまま殺の顔を上げさせ、その唇を奪う。愛しい、もう二度と傍から離さぬ、とそんな想いを見つめる瞳に込めながら。







 再び目覚められた事も、そしてその瞬間に父上が傍らに付いていて下さった事も、今まで一度も感じた事が無い程に幸福だった。
 愛しい、と初めて告げられて、知らず知らずに目頭が熱くなって。重ねられた唇は、今まで与えられたどんな口付けよりも更に甘かった。



 あれから数日が経って、私もようやく自力で出歩ける程まで回復して。
 本殿に滞在しているという陵峨と烈峨には、あれから未だ一度も会っていない。私の意識が無い間に見舞いに来てくれたとの事だが、私が目覚めてから彼らが会いに来る事は無かった。

「御屋形様、若君、失礼致しますぞ。」

 互いに何を語るでもなく、ゆっくりと時間が流れていく昼下がりを過ごしていた私と父上の所に、取次ぎの者が声を掛ける。

「…何だ?」

 父上の問いに、襖の向こうの相手が一瞬口篭る。

「…陵峨殿と烈峨殿がご自分の館にお帰りになるそうで…もしご都合が宜しければ若君にもお別れのご挨拶を、と仰せですが。」

 その内容を聞いて、言葉よりも先に立ち上がっていた。

「すぐに行く故、待っている様に伝えよ。」

 そう言った私の命に彼が諾、と返事を返して去って行く。

「…行くな。」

 不意に、後ろから抱き止められて。どうしたのかと振り返れば苦しげな父の顔が目の前にあった。

「そなた未だあの男を好いて居るだろう…?」

 ここ数日はその表情に表れていなかった影の様なものが瞳に宿っていて、少し返事を返すのを躊躇う。

「それは…」

 陵峨に対して抱いた好意は、確かに父上の言う通り変わらぬままだ。

「行かせて下さいませぬか、父上…?彼には未だ礼さえも言ってはいないのです。彼がいなかったら…ずっと今までのまま、父上のお心を知る事も出来なかったのですから。」

 一瞬だけ父の腕の力が強められて、それからゆっくりと開放される。

「…済まぬ、殺。分かってはいるのだ、だが思わず…」

 触れるだけの優しい口付けと共にそっと背を押されて、私は水の宮を後にした。



「待たせて済まなかった。」

 本殿の教えられた室を訪ねれば、陵峨と烈峨が囲炉裏を囲んで無言のまま顔を上げた。

「薬を届けて下されたとか…」

 礼の意味を込めてそう呟けば、烈峨の優しげな瞳がそっと細められる。

「いいのじゃよ、此方がしたくてした事じゃ。快方に向かわれた様じゃな、お慶び申し上げよう。」

 陵峨の方は一旦上げた顔を又伏せたままで。

「どれ、わしは暫く外そうかの。…失礼をするでないぞ、陵峨。」

 そんな一言を残してひょいと烈峨が室を出て行った。

「貴方にせめてもの礼と、詫びを申し上げたくて伺ったのです。」

 ぽつり、と語り始めた陵峨のすぐ傍に座せば、数週間の間共に暮らした相手が複雑な瞳の色を乗せて此方を見て。

「すっきりとした、憂いの晴れた顔をしておられる。…大将と互いに想いが通じたのですね。」

 少しだけ弱弱しい笑みを頬に乗せた彼。いつもそうだ、この男は私の考えている事も、悩んでいる事も、全てを読み取ってしまう。

「…貴方と出会えた御蔭だ。」

 自然に口から漏れたその言葉に、陵峨が一瞬瞳を見開く。

「…私も、貴方と出会えた御蔭で沢山のものを頂きましたよ。たとえ通じずとも、こんなに人を愛しく思えるとは知りませんでした。…済みません、我ながら随分と未練がましい事を言っている。ほとぼりが冷めたなら、今度は又友人として付き合っては下さいませんか。」

 ああ、と無意識にその肩に頭を預けていた。微かに震えた其処にそっと陵峨の手が添えられて、それが束の間の別れの挨拶となる。

「どれ、お邪魔するぞ。犬の大将が向こうの回廊を随分と落ちつき無く行ったり来たりしておられたから見かねてお主らの邪魔に来たのじゃが。」

 出て行った時と同じく、ひょい、と戻って来た烈峨がそんな事を言って陵峨を促す。

「では、我等はこれにて失礼を。」

 深々とした礼を、今度は主筋に当たる者として立ったまま受けた。

「ああ、気を付けてお戻りになられよ。」

 去って行く二人の後姿を、物見櫓の上から見送ろうと歩き出せば、果たして烈峨の言った通り、ずっと遠くの回廊に佇む父の姿がある。

「見送りに行くか?」

 互いに近くまで歩み寄って、掛けられた父の台詞に否、と答えた。

「別れは、済ませましたゆえ。櫓の上からでも、そっと見送ってやりたいと存じます。」

 そうか、と大きな掌がふわりと頭を撫でて、そのまま肩を抱きこまれる。二人で櫓に登って眼下を見下ろすのと、陵峨と烈峨が館の門をくぐって出て行くのが同時だった。
 地面に近い位置を飛行する事で移動を始めた二つの影が遠い山影に消えるまで、無言のままその場でその景色を見続けていた。



「どうしたの、父上も兄上も、凄く幸せそうな顔をしてる。何かいい事があったの?」

 帰る道すがら、横合いから不意に駆け出して来た弟に無邪気な声でそう尋ねられる。
 幸せそう、か。確かに心が随分と満たされているのは確かだろう。
 無意識のうちに父の方を見れば、一瞬視線が交錯して。

「うん?…ああ、あったぞ、犬夜叉。漸く霧が晴れて、目指していた者に出会えたのだよ。」

 続いてそう答えた彼の言葉に頬が火照る。こんな感情は初めての事で、『ふうん、良かったね。』という犬夜叉の声が随分と遠くに聞こえた。

「兄上!!兄上ってば!!何ぼうっとしてるの?」

 着物の袖を握って、そんな風に現実に引き戻されて。

「犬夜叉は殺に随分と良く懐いているなあ。」

 どうしたものか分からずに戸惑っている私と、そして半妖の弟を見つめる父の瞳は、かつて私が欲して止まなかった『父親』としての優しさの様なものを、二人きりの時に見せて下さる瞳の色とは又別の種類の光を湛えていた。





◇ 後記 ◇
足掛け四ヶ月強掛かりましたが、漸く完結させる事が出来ました。一重に応援して下さった皆様の御蔭です、感謝致しております。
オリジナルキャラクターの陵峨、『紳士ですね』と言って下さる方が多くて、最後までその紳士性を失わない様にと心掛けつつ書いて居りました。父上は…結構不器用なままの描写でしょうか。
最後まで読んで下さって有難うございました、少しでもお楽しみ頂けていましたら望外の幸福です。

-Collaboration- Special Thanks for...
Hiko Shikawa in "Kiniroginiro"(Illustration of Chapter 6)






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