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雪月華 * 拾四の巻





 人目を避けて帰還し、自室にいるであろう陵峨の許へと足を早める。

「殺殿…無事のお戻り、何よりです。…犬の大将は何と?」

 襖の外から声を掛けるより先に内側からそれが開かれ、明々と燃える火鉢の側へと引き寄せられた。…ずっと、待っていてくれたのだろうか。

「書簡の件は、もう良い、と…。」

 腰を下ろす事無く立ったままそう告げる私に、陵峨は穏やかな笑みを頬に浮かべる。

「貴方の、お蔭だ…心から、感謝していますよ。」

 そんな言葉と共にふわりと肩を抱きしめられて、不意に今朝方の父の姿が蘇った。
 私の背を抱きしめたまま離さずに眠る父。否…私を、ではないか、私と間違えた誰かを、だ。

「…犬の大将と、何か、あったのですか?」

 ゆっくりと視線を合わせながら尋ねてくる陵峨。
 聡い男だと思う。…一瞬思わず私の肩が震えたのを見逃さなかった。

「…何も。”私”とは何もありはせぬ。」

 陵峨は私の言葉の意味を察するだろうか。そっと身体を離して、僅かに戸口の方へと後じさる。

「昼のうちから悪いが…湯殿を借りる。」

 何故だか陵峨と視線を合わせている事に耐えられなくなって、それだけを言い残して私は彼の部屋を後にした。



 言い様の無い既視感を覚える。
 私はあの日も…初めてこの屋敷に移って来たあの朝にも、こうして湯を浴びたのだ。未だ体内に残る父の痕を、残滓を、洗い流そうとして。

「父上…」

 思わず音声となって唇から零れた言葉を、まさか聞いている者がいようとは思わなかった。

「…殺殿、何故隠し事をなさるのです。」

 不意に後ろから引き寄せられて、陵峨から視線を外せぬ様顔の向きを固定される。

「何も無い、などと…それは嘘でしょう?」

 静かでありながらどこか熱い視線が、最後の晩の父の姿を彷彿とさせた。陵峨の指が、既に着物を脱ぎ落としていた私の肩をゆっくりと滑る。

「久し振りに会うて、お父君は貴方のこの肌を愛でられたか。」

 耐え切れなくなって目を伏せれば、首筋に噛み付くような口付けが降って来る。

「…っ」

 思わず息を呑んだ私を、陵峨がきつく抱きしめて。

「気付いて、おいでか?この場所は、貴方が初めてこの館に来た時にお父上の印をつけておられた場所なのですよ。」

 そのまま首筋を彷徨う彼の舌の熱い感触。私の中の何かが、ゆっくりと呼び覚まされていく。
 …何故ならばそこは、やはり今朝に父が触れた箇所であったから。例えそれが、誰ぞの身代わりとしてであったとしても。

「…やめて、くれ。…貴方は、待つとおっしゃっただろう?それに…貴方の唯一が既に決まっているのだ、とも。」

 どうにか腕に力を込めて密接した体を離せば、陵峨の真摯な瞳がじっと此方を見つめていた。

「やはり気付いていては下さらなかったのですね、その唯一こそが貴方なのだと。」

 その様な事を、言われた事など無かった。私はいつも…そんな風に他人に想われた事など、一度たりともなかったから。

「何を…」

 思わず問い返した所で、唇を塞がれて。背に回された陵峨の手がゆっくりと移動して後宮を探り、父の残したものを掻き出すのを頭の片隅で呆然と感じていた。







 酷い事を、してしまった。
 けれど、あんな風に言って貰えた事が本当に嬉しくて…心は未だ父への感情を捨てきれぬくせに、陵峨の手を拒めずに。もしかしたら…陵峨に父の影を重ねて抱かれた。

 気がついたら、自然に足が此処に向いていて。あの日出会った、陵峨の叔父だという老妖怪の住む庵は、変わらぬ閑静な佇まいを呈していた。

「ようおいでになられた、ささ、入りなされ…」

 何処から現れたのか、烈峨の姿が今は目の前。優しい笑みを浮かべつつも、その瞳が痛ましげに細められる。

「…ほんに、不器用じゃな、あんたも、あの子も…そしてあんたのお父上も。」

 この老人は、私の顔を見ただけで何があったのか、全てを察してしまったのであろうか。

 勧められて庵の中に入り、焚いてある火の側に腰を下ろすと、老いた手が白い手拭いでもって私の頬をそっと拭った。

「気付いておられなんだか、ご自分が涙を流していたことに。」

 座る様にと促されて座り、皺だらけの手にぽんぽんと背を軽く背を叩かれる。

「あんたは未だお若い。…それなのに、時折こうして泣き場所を与えてくれる相手が誰もおらなんだというのは気の毒な事じゃ。」

 …気の毒…私が?
 妖怪に泣き場所などある筈の無いものではないのか…?感情など、涙など、有ってはならないものではないのだろうか。

「いいんだよ。あんたが思うように、あんたの望む事をすれば。」

 年老いた烈峨の声は、まるで私の中の何かを解放するかの様にこの胸に染み透る。

「感情は時として我ら妖怪にとって枷となる厄介なものじゃが、何も悪い面ばかりでもない。誰とも心を交える事無くただ戦いのみの毎日だったら、それはそれは空しいじゃろうて。だから我らは群れを作り、頭領とお慕いする方と、そして仲間を求めるのじゃ。…その群れ同士が相争うのも、また宿命じゃがなぁ…」

 最後は何かに思いを馳せるかのようにそう呟いた烈峨が、僅かに声の調子を変える。

「…お疲れじゃろうて、暫く休んで行きなされ。ここはこんな小さな庵じゃが、あんたが休める様な別殿がもっと奥にあるからの。」

 そう招かれて、案内されるままに付いた場所は、やはり落ち着いた雰囲気の板張りの建物。

「さあさあ、何処でも自由に使ってくれて構わんよ。わし用にと先代が建ててくれた館じゃが、どうも一人身には狭すぎてな。陵峨が小さい頃は良く遊びに来てくれたもんじゃが、総領となってはそうも行かんからの。結局わしもあの小さな庵が気に入ってここは空き家の様なもんじゃ。」

 空き家と言っても、室内は綺麗に保たれているし、庭の木々も大切に育てられている事が明らかであった。

「わしはあっちに居るからの、眠るならほれ、そこらに寝具がある。ぐっすり眠っても大丈夫じゃよ、誰もこの館には入れんからの、わしがここで番をしとる限りな。」

 そう言いながらさっそく敷物を探し出して差し出す烈峨は、やがて思い出した様に付け足した。

「陵峨の事も…あの子の事も入れたりはせんよ。じゃが、もしこの老人の願いを聞いて貰えるなら…あれを嫌ったりはせんでやっておくれ。あの子がこんな風に誰かに入れ込んだのは、本当にあんたが最初で最後じゃろうからな。」

「嫌ったりなど…出来ぬ。」

 私がようやっと喉の奥から絞り出した声は随分と掠れていたが、振り返った烈峨は春の日差しを思わせる様な笑みをその頬に浮かべた。

「安心したよ。…たとえ想いが叶わなくても、あんたが幸せになってくれるならきっとあの子も本望だろう。」

 烈峨が何を言っているのか良くは理解出来なかったが、彼はそのまま室を出て行ってしまった。
 いつの間にか準備されていた寝具にそっと身を横たえる。落ち着いた香りが其処からは漂って、いつしか深い眠りが私を覆った。







 外の喧騒を聞いて、ようやく目が覚める。

「其処をどけ、烈峨。そなたと争う気は無い。私は殺に会いに来たのだ、邪魔立て致すな。」

 …父上の、声?今朝方別れたばかりの。どうして此処においでなのだろう。
 そして私はどの位寝ていたのだろう、外はもう薄闇に飲み込まれようとしている。

 今一つ状況を把握出来ないままに、そっと物陰から成り行きを見守った。

「今は大将の事も入れては差し上げられんよ、御子息とそうお約束したのでな。…大丈夫じゃ、中に居るのは御子息だけで、あんたが心配するような輩は誰もおらん。もし陵峨が此処に来ても、きっとわしは同じ様に追い返すよ。」

 続いて聞こえて来るのは少ししわがれた烈峨の声。今までずっとそこに居てくれたというのだろうか。

 と、場の空気が不意に変わったのが肌に伝わる。

「…やはりお主も来たのか、陵峨。」

 溜め息と共に吐き出された烈峨の声に、押し殺した様な陵峨の声が返事を返す。

「お探ししていたのです。まさか叔父上のところに殺殿がおいでとは思わずに伺うのが遅くなった。…何故、私の事まで追い返すなどと仰せられるのです?」

 一瞬置いて、しわがれた声が続く。

「約束をしたからじゃよ、お主のことも、大将のことも、中には入れぬとな。その理由を問うならば…今のお主らでは、どちらも苦しみを与える事しか出来んよ。身に覚えがあるじゃろう?」

 静かだが、重みのある言葉。陵峨よりも、そして恐らく父よりも長く生きているであろう彼ならではの貫禄なのであろうか。
 けれど、いつまでもその言葉に甘えているわけにもいかずに、私はそっと屋敷の内から足を踏み出した。



「おお、起きられたか。」

 打って変わって朗らかに声を掛けてくれる烈峨に軽く頭を下げて会釈をしてから、庭先に佇んだままの父の前に膝を折る。

「すぐにお迎え出来ず失礼を致しました。…何か、ご命令がおありでしょうか、父上。」

 しかし、父からは暫くの間返事が返ってくる事は無く。不審に思ってそっと顔を上げてみれば、其処には呆然と此方を凝視している父が居た。

「…どう、なされたのです…?」

 問い掛けても父の表情は動かない。ただ、握り締められた拳が小さく震えていた。

 何か、お怒りになっておられるのだろうか。
 そんな私の不安を裏付けるかの様にゆっくりとその手が腰に佩いた剣に掛けられて。

「お前の残した痕か、陵峨。…今朝方会うた時はあの様なもの、付けてはおらなんだ。」

 地を這うかの如く低い声が耳に届く。そして同時にその手が鞘から刃を引き抜いて。父が何をしようとしているかが一瞬で知れた。

「おやめ下さい、父上!!」

 父上と陵峨の仲があまり良く無いという事は知っている。けれど、こんな風に争って欲しくは無かった、どちらも既に私にとって欠く事の出来ぬ大切な存在になっていたから。

「例えそなたの願いでも、此度は聞けぬ。烈峨と共に少し下がっていろ、怪我をするぞ。」

 必死で訴えても、父は抜いた刃を戻そうとはせずにまっすぐに陵峨を見据えている。

「気の毒じゃが止める事は出来ぬよ、殺生丸殿。あんたのお父君と陵峨とは、いずれ互いに勝負を付けねばならん運命じゃった。互いの群れを率いる者としても、そしてあんたという存在を互いに欲する好敵手としてもな。」

 不意に後ろからそう声を掛けられて振り返れば、哀しげで、しかし厳しい目をした烈峨が私のすぐ側に立っていた。

 いくら陵峨がそこらの妖怪よりも格段に力が強いとはいえ、父上と相争うたらきっと命を落としてしまう。
 そして万が一父が負けるとしたら…それはそれで私には耐えられぬが…。

「勝負を、お受けしましょう。」

 静かな陵峨の声が戦いの始まりを告げる。
 いつの間にか西日さえ残ってはおらず、辺りは灰色の雲に覆われていた。星一つ見えぬ夜、その様な事、以前は何とも思わなかったのに、酷く気分が沈んで行く。



 暫しの睨みあいの後、激しく繰り出される剣戟。双方共に一歩も退かぬ状態が随分と続いたけれど、やがて陵峨の手に疲れが見え隠れし始める。
 一気に大きな技で勝負を付けようとしたのだろう、陵峨の闘気が渦巻き始めて。それを認めた父の口の端が僅かに上がる。

 …駄目だ、陵峨。父上は爆流波を使われる…!!

 そう頭の中の符号が一致すると同時に、無意識に身体が動いて。数瞬後には、視界が真っ白な光に包まれていた。





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