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雪月華 * 拾参の巻





 どうして拒む事が出来なかったのだろう。初めは父の突然の行動に驚いて動けずに、けれどその後はこれまでの慣れか、父の動きに抵抗する事もせずにただ流されて。

 随分と優しげに、そして切ない表情を浮かべて父上はこの身を抱いた。―――瞳を、固く閉じて。
 夢の中で、誰か愛しく想う者と私を間違えて居られたのだろう。

 それならば、いつもの様に彼の腕の中で気を失ってしまう訳には行かぬと。父上が目覚めた時、其処に私が居た事を何とかして隠し切らねばならぬと、強く自分に命じる。

 それでも、久し振りにこの身に感じた父の体温は、酷く温かくて。誰かの身代わりではなく、私自身としてこれを感じる事が出来たならもっと嬉しかったろうに、と浅ましく願ってしまう自分が情けなかった。

 絶頂を迎えた後で一瞬意識が途切れてしまうのはやはり避けられず、暫くしてから現実に帰る。

 …良かった、未だ眠っておられるな。早く室の外へ出なければ。身支度はそれから整えれば充分だ。

 そっと褥を出ようとして、今更ながらに身動きが取れぬ事に気付く。私の背には父の腕がしっかりと回されていて。そしてその寝顔はすぐ私の目の前で。

 父上は…愛しい相手ならばこうして朝まで抱きしめて離さぬのだな…。

 思考に浸りそうになった己を叱咤し、そっと父の腕を外して其処から抜け出す。



 漸く室の外へと出ると、未だ朝ではあるものの、陽はもう随分と高くまで上っていた。 以前控えとして使っていた室に入り、鏡を見ながら己の衣装の乱れを直す。出掛けに陵峨に結って貰った髪が崩れてはいないのがせめてもの救いだった。

 流石に、湯殿を使っている時間は無いだろうな。その間に父上が起きられたら、抱いた相手が私であると分かってしまうだろう。

 少々物足りないが、冷水に浸した手拭いで身体を拭った。
 以前父がこの身体に残した痕は、今はもう首筋の一箇所を残して跡形もなく消えている。

 一応の身支度が整うと、先程までいた部屋の前へと戻った。何と無く中には入り辛くて、室の外の廊下に座して父が目覚めるのを待つ。



 小半刻も経った頃だろうか、室の中で身動きする気配がして。次いで喉の奥で押し殺したかの様な低い、短い笑いが聞こえた。

 …お目覚めに、なられたのか。

 このまま父が室から出て来るまで待つべきか、それとも私が居る事だけでも先に知らせておくべきか、と迷って、結局後者を取る事にした。

「…お目覚めになりましたか、父上。」

 そんな分かりきった問いを発する事で。暫しの間が間を分かち、続いて普段よりも幾分低めの返答が返って来た。

「私に何か用か、殺。」

 …やはり分かっては下さらぬのですね、私がこうして貴方をお訪ねしたその理由を。けれど、何としても父と陵峨の間を取り持つのが今私が此処にいる理由だから、引き下がる訳には行かない。

「陵峨の許に昨日お送り下された書簡の件でお話がございます。」

 襖の向こうでは又暫しの奇妙な沈黙が有った。

「…ほう、書簡とな。まあ良い、申してみよ。」

 投げやりに発せられる声。貴方にとってはあの命令は、ごく普通で当たり前な事なのでしょうか。

「畏れながら、あまりにも無茶なご命令です、父上。反抗する事の多い種族を上から押さえつけるだけでは返って反発を招くのだと、父上もご存知の筈でしょう…?」

 不敬にならぬ様に言葉を選んで問い掛ける。

「…それで?」

 短く聞き返してくるだけの父に、痛む胸を押さえながら言葉を重ねる。

「お送り下された書簡の内容は、未だ陵峨と私しか知りませぬ。どうか…・お考え直し下さいませ。」

 言う事は既に言った。これで駄目ならば…諦めて戻るしかないか。

「…入って来るがいい。」

 短くそう言われてゆっくりと襖を開ける。
 途端に私の身体を包む濃厚な夜の気配。父は未だ寝台の上に胡座したままであった。
 戸口の近くに腰を下ろして礼を取る。

「顔色が優れぬぞ、この室の空気が気に喰わぬか?元はお前が使っていた居室であろうに。」

 顔を上げれば冷たい笑みを浮かべる父の姿。立ち上がって私の方に近付いて来た父が、私の襟元に手を掛けて立ち上がらせる。

「陵峨の為に此処に来たか。」

 問いかけと共に父の眼光が鋭く私を射竦める。

「…私が自分で決めてやった事です、陵峨の咎では…」

 そう答えるのがやっとの私に、父は襟元を掴む手の力を強めた。

「だからそれは陵峨の為であろうと申しておる。…あの時もその身を盾に陵峨をかばい、そして今もあれの為にわざわざ私の許を訪ねた。」

 最後の方は低く唸るようにも聞こえる声で父が言う。真っ直ぐな眼光は未だ私を捉えて離さない。
 と、不意にその瞳が逸らされ、父の唇が暗い笑みの形を作った。

「お前の望みを聞いてやらんこともない…代償を寄越すならばな。」

 そんな台詞を言うが早いか、背に鈍い痛みを感じる。一瞬の内に床に引き倒されたのだと知るまでにそんなに時間は掛からなかった。

 …これでは、先程の繰り返しになってしまう…。

 頭の何処かで冷静に嘆く己の声がする。
 拒まなければ…こんな方法であの書簡の内容を覆す事を、陵峨も望みはしないだろう。

 既に私の着物を脱がせ、性急に局所に触れ始めていた父の手が一瞬止まる。
 どうしたのだろう、まさか私の心を汲み取って下さった訳ではあるまい…?
 そんな事を思って父の方を見上げると、その瞳が怒りでゆらゆらと揺れていた。

「殺…そなた…今朝此処に来る前に陵峨に抱かれて来たな。」

 父が何を言っているのか、すぐには分からなかった。
 陵峨に、抱かれる?私が?彼は私にそんな事をしたことなど一度も無いのに。

 漸くその意図が分かったのは暫しの時が過ぎてから。
 父上は。水に浸した布で拭うだけでは拭いきれなかった私の体内の残滓に気付かれたのか。
 でも、例え覚えて居られぬとしても。…それは貴方が残されたものでしょう…?
 もっともそれを父に気付かれる訳には行かないのだけれど。

 目を伏せた私に焦れたのか、父が動きを再開する。

「…おやめ、下さい…父上…」

 みっともなく喘ぎそうになる息の下で。ようやっと、喉の奥からそんな言葉を出す事が出来た。
 思えば父の手を拒絶したのはこれが最初であったのだった。

「私を、拒むと申すか、殺。」

 はっとしたように動きを止めた父が、こちらをじっと見つめる。今の父の瞳には複雑な色が渦巻きすぎていて、その感情が少しも読めない。

「お前が黙って受け入れれば、あの書簡を無に帰すと私が約しても、か?」

 重ねて問い掛けてくる父の腕の力が緩んだ隙に、父との間に距離を置く。

「…このような事をなさるべきでは有りません。愛する女がおいでなのなら、身代わりで身体を慰める事などせずに、一途にその相手をお愛し下さい。」

 自分でも驚く程に流暢に舌が動く。陵峨が言っていた言葉が、鋭く脳裏で響いていた。

『私がこの心を捧げるのは生涯でたった一人の唯一の者にのみ、権力闘争の為にあてがわれた女など愛せる筈も無い。』

 一つ大きく息を吸い込んで続きを口にする。

「書簡の件を父上にお考え直し頂けなかったのは私の力が及ばなかった故です。残念には思って居りますが、忠誠を捧げる事に変わりはありません。ですから…これで失礼を致します。出来るだけお申し付けの物を用意出来る様、手を回さねばなりませんので。」

 それだけを言い切って襖を開けて外に出ようとする。父は何かに打たれでもしたように、はっとした表情をして私の方を眺めていた。

 …意外なのですか、私が貴方にこんなにもはっきりと物を申した事が。私自身もそんなことが出来るなどとは思っていませんでした。
 今も少し、足が震えている程ですよ。



「殺。」

 室から出る寸前の所で呼び止められて。足を止めた所を後ろから抱き寄せられた。

「…書簡は、もう良い。」

 耳許で囁かれて、ふわりと身体を解放される。私が足を踏み出すより先に、父の姿が回廊を遠ざかって消えた。







 いつから、私を拒むなどという事を覚えたのだ。私を相手に、あれ程までに堂々と言い切ったのは、あの陵峨の影響だろうか。



 殺を残して立ち去ったあの部屋から少しでも早く遠ざかろうと、自然に足音が荒くなる。
わかっているのだ、何もかも、この私が蒔いた種なのだと。だが、自らが張り巡らした蜘蛛糸に自分で捕らえられあがき苦しむ蜘蛛が何処に居る?
 こんな私では、あれの心を得ることも、それを安らげてやる事さえ出来る訳がない。

 最後にあの書簡の内容を取り消したのは、せめてもの矜持だった。
 わかってくれ、私の気持ちを。父から、離れて行ったりしないでくれ。

 適当に空いた部屋を選んで中に閉じこもり、ひんやりと冷たい床に横たわる。
 それで頭が冷えるかと思いきや、そうは行かずに。又もや殺の心を掴んだであろう男への激しい嫉妬が湧き上がる。

 後宮が、濡れていたな。あれが私以外の男のものになる事など決して無いと思っていたのに。

 本能にまかせて暴れ出しそうになる体を、理性の声が必死に止める。
 よせ、これ以上殺に、己が一番愛しいと思う者に、情けない姿を曝す気か?

『…このような事をなさるべきでは有りません。愛する女がおいでなのなら、身代わりで身体を慰める事などせずに、一途にその相手をお愛し下さい。』

 毅然としたあの声。どんな刃で身を斬られるよりも、この心に痛かった。

 ああ、そうか。陵峨ならば、お前の理想に適うのだな…奴ならばきっと、一人と決めた者だけを愛し抜くだろう。
 私も、叶うならばそうしたかった。
 けれど、私はお前という存在に出会う前に、あまりにも多くの時を費やしてしまい、そしてその間を一人で過ごす事に耐えられなかったのだ。自分の息子でありながら決して手に入らぬ存在、手を伸ばしてはいけない相手と知っていたから。




「父上…其処にいらっしゃいますね…?私はもう戻ります、最後のお言葉、有難く賜りました。」

 ふいに襖の向こうで声がして。自分が身を隠していたこの場所など、妖力の強い者が少し意識を集中すれば簡単にわかる事を思い出す。

 …そうか、”戻る”のか、陵峨の許へ。

 襖を隔てた場所では殺生丸が丁寧に辞儀をしている気配がして、このまま帰らせてしまいたくないという想いの命ずるままに、からりと自分から襖を開ける。

「気を付けて参れ。」

 せめて、別れ際位…本心のままの心をそのままに伝えておきたかったから。
 はっとしたように殺生丸が顔を上げて此方を見、続いてかすかに頷いた。もう一度礼をして立ち去ろうとする彼に、未練がましくも声を掛ける。

「その髪…誰が結った?」

 殺が訪ねて来た時から気付いていたが、以前この屋敷に居た頃のようにそのまま流してはおらず、繊細に美しく結われていた。
 …答えは何と無く想像がついていたのだけれど。

「…出掛けに陵峨が、結ってくれました。」

 返って来た答えに、覚悟はしていたもののやはり衝撃を受けずにはいられない。自分で尋ねておきながら『そうか』と一言返したなり黙り込んでしまった私を、殺生丸は少し訝しげに見つめ、それから当初の予定通り颯爽と去って行った。



 その髪型も、お前には良く似合う。

 けれど…他の男が付けた結い目など、全て解いて。お前の癖の無い銀色の流れが、私だけの指にその動きを委ねてくれたなら。






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