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雪月華 * 拾弐の巻





 静まらぬ…少しも心が、静まる事を知らぬ。身体の中を駆け巡る紅き血潮の脈動が、自分自身にこうも伝わって来るなどと。

 …たかが、父の寵愛を受けた女と会い見えたくらいで。

 これは、死んでいった我が母が私の身に託した執念なのか?それとも、これは父上に愛される事を求め続けた私自身の執念…?

 高い木の枝に腰掛けて眼下に広がる景色を見れば、自然と口から溜め息が漏れた。けれど、いつまでもこの様な場所で二の足を踏んでいる訳にも行かぬな。私が戻って、父から受け取った返事を伝えるのを陵峨も待っているだろう。

 木から降りて今度は屋敷の正門へ向かって移動を始める私の足は、随分と重かった。



 門を守る妖怪も、一応父の息子である私を無碍には出来なかったのだろう、この顔を見ると誰何する事も無く道を開けた。
 通常の使者が取る形態と同じに控えの間に出向き、父への面会を申し入れる。まさか私がこうして本殿に来るとは思っていなかったのだろう、其処に詰めていた下っ端の妖怪が慌てふためいて室から駆け出して行き、そして代わりに連れて来られたのが先日私の所へ書簡を届けに来た父の腹心だった。

「お越しでしたか、殺生丸様。…大将は未だ起きておいでではございません。」

 つまりは此処に来る事が出来ぬ、という事。私に話す事等無い、という無言の意思なのだろうか。
 今誠にどこぞの女の許で眠っておられるのか、それとも館の何処かにおられて敢えて姿を隠しておられるのかは知らぬが。
 夜明け頃にこの屋敷の上空に来た時も、父の妖気を少しも感じなかった。つまりは故意に気配を隠して居られるという事であるのだろう。

「このまま帰る訳には行かぬ、この場で待たせて頂く。」

 そう言う私に相手の妖怪は僅かに目を見開く。

「宜しければ伝言を承りますが…いえ、大将が本殿の中でお休みならば使いの者をやってお起こしするのですが、如何せんここ数日ずっと貴方様の宮で寝泊りなさっておいででして。ご存知の通り我らではあの場所に入る事は叶いませぬ故。」

 父上が水の宮でお休みになっている、というのか。もしかしたら少しはかつて其処に住まっていた私の事を思い出して下さっているのだろうか、と一瞬期待するのを止められない。
 分かっているのに、そんな筈などない事を。あの宮の結界…他の者を追い出して愛しい相手と抱き合うには便利であろうからな。

「…貴方様ならばお入りになれるでしょう?直接そちらにおいでになれば宜しいのでは…?」

 まあ、それが出来るならば苦労はせぬが。父が新たに張りなおした結界で拒まれる可能性も無いわけではなかった。

(それならば、それでも良い…)

 頭の中でぼんやりとそんな声がする。父の結界がこの身を蝕むというのなら、いっそその思惑通りに消えてしまえたらいい。

「…そうしよう。邪魔をした。」

 短く告げて腰を上げた私を、彼は深く拝礼して見送ってくれた。



 水の宮…お前は私を拒むだろうか。
 早朝に佇んだと同じ場所に再び暫し足を止める。

 そうして、そろそろと結界が張られているであろう場所に近付き。この身に受けるかも知れぬ衝撃を予め覚悟しつつゆっくりと進んで行く。

 が、結界が私を拒む事は無く。私はそのままかつて住んだ宮の庭先に足を下ろした。
 拒まれなかった事が、ほんの少し嬉しかった。
 来る筈などなかろうと父が考えに入れておられなかっただけなのかも知れないがな。

 父上は何処においでなのだろう。情人と共に閨の中に篭っておいでならば、邪魔をするのも無粋が過ぎるであろうが。
 先に邪見を探す方が先か。この宮を管理しているからには、多少なりとも父の動向を知っていよう。

 かの小妖の気配を辿るまでもなく、その姿は見つかった。廊下を歩いて来て、其処に居た私に自分からぶつかって来たから。

「…え!?ってあ、殺生丸様、よくぞお戻りに〜!!」

 小妖の小さな瞳が微かに潤んでいる。長い事世話をして来た主がどうしているのか、心配であったのだろうか。

「父上が此処においでだと聞いた。」

 ぽつりとそう言った言葉に、邪見が慌てふためいてこくこくと頷く。

「誰ぞとご一緒に此方でお休みなのか?」

 邪見はやっぱり慌て気味に今度は首を横に振った。

「いいえ、お館様お一人かと。この屋敷に貴方様以外の者を連れ込まれる様な真似はこの邪見が許しませんぞ。」

 妙に力舌するものだな。それでも父が此処で誰かと共に休んでいるのではないのだと知って随分と救われた様な心持ちがした。

「父上がお休みの室は何処だ?」

「はっ、殺生丸様のお部屋にいらっしゃいますが。」

 父上が私の室であった場所に…?宮の中でも最も居心地の良い室であったから、父上のお心に適った、という訳だろうか。

 見送る邪見をその場に残して、足早にかつての自室へ向かう。
 手に僅かばかりの力をこめれば、呆気なさ過ぎる程簡単にからりと襖が開いた。



 外の明るさとは対照的に、閉め切った室の中は未だ真っ暗なままで。妖である私の瞳も、その暗さに慣れるのに暫しの時間を要した。
 部屋の様子を見回すと同時に、父の姿をその暗闇の中に探す。

 配置の何一つも変わってはいない事が純粋に私を驚かせた。
 そして、父が横たわっている場所は、かつて私が夜を過ごしたのと全く同じ場所。たまさかの夜の相手となった場所。

「父上…」

 低く呼び掛けて褥の傍らに座す。起こそうという意図で呼んだというよりは、自然に唇から零れ出た呼び声であった。

 ふと、父が寝返りを打って此方に顔を向ける。今更ながらに彼が何の上掛けも羽織ってはいないことに気付き、近くにあった父のものであろう上着をばさりと着せ掛けた。

 穏やかな寝顔には何処か先程見た半妖の弟のものと共通なものがある様な気がして。
 褥からはみだした父の手に何とはなしに触れた瞬間、それを強く引き込まれた。







『…え!?ってあ、殺生丸様、よくぞお戻りに〜!!』

 意識の遠くであの小妖の声がする。
 殺が戻った、と…?ああ、成程…これは私の願望が見せる夢なのか。ならば今しばらく、夢の見せる幸せな幻影の中でまどろんでいよう。

 ややあって、部屋の襖が開き。誰よりも愛しいのに、遠い存在が私の傍らに腰を下ろす。

『父上…』

 切なくも甘い声でそう呼び掛けられて、ばさりと上着を掛けられる。夢の中のお前は、未だ父の事を気遣ってくれる、というわけか。
 続いて久し振りに私の手に触れた、すべらかな肌の感触。

 嬉しかった。
 そして、私の欲は留まる事を知らずに。迷う事無く、その手を掴んで引き寄せ、この腕の中に、私自身の身体の下に閉じ込める。

 …夢でも良い。いや、夢だからこそ何のしがらみに囚われる事も無くそなたを抱く事が出来よう?

 夢の中の殺は、性急な私の愛撫に初めこそ身を強張らせはしたものの、現実の彼と同じ様に声を押し殺して静かに乱れ、その妖艶さで私を虜にした。

 お前が、愛しい。
 何処へも行くな、たとえ私がこの本心に反したどんな命令をしようとも。ずっと、我が側に…。

 矛盾していると笑うか?良いのだ、どうせ夢の中のこと、現実は何も変わりはせぬ…。
 目覚めたくなどないよ、ずっとこの夢を漂っていたい。



 それから私は何度も夢の中の殺と共に快楽を追って。いつの間にか又夢も見ぬ泥沼の眠りについたようだった。

 本来の目覚めを迎えれば、下半身に微かな違和感があって。夢精をしてしまったのか、と知らず知らずに自嘲の笑みが頬に上った。

 そんな、時に。

「…お目覚めになりましたか、父上。」

 夢に見るほどまでに想った己が長子の声が襖越しに掛けられた。かつてと同じ様に凛とした声ながら、幾分か掠れているように思えるのは私の気のせいだろうか。
 それにしても何故此処にいるのだろう。もしや私は未だ夢の中で暮らしているのか?

 其処まで考えを巡らせて、漸く先日自らしたためた書簡の存在を思い出す。
 そうだった、あの無茶な書簡を送っていたのだったな…ただ、襖の向こうに居るのであろうその存在を呼び寄せる為だけに。

「私に何か用か、殺。」

 …どうして私は素直に言葉を発する事が出来ぬのだろうな。想いの丈を述べる事が出来ぬまでも、せめてただ『良く参った』と労ってやれば良いものを。
 夢の中とは違って、現実ではあの陵峨に対する嫉妬がこの心に突き刺さる。






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