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雪月華 * 拾壱の巻





 まだ明けきらぬ暁の空を、様々な考えに沈みつつ移動する。他の者に見つからぬように早く陵峨の屋敷を出はしたものの、まだ到底人を訪ねる時刻では無い故、元々何処かで時間を潰すつもりであった。

 けれど、そんな思いに反し、私の足は真っ直ぐにかつて住んでいた屋敷を指して。紅い日が昇り始める頃には既にその場所は全景を現していた。

 このまま今居る場所で暫く待つべきかとも思ったが、そんな理性の声に反して身体は飛ぶ事をやめずに進む。
 結局行き着いたのは住んでいた離れの上空であった。

 数週間前と変わらぬ…外見は少しも変わる所が無い。壊されでもせぬ限り当たり前の話だが。

 そして中は…どうなのであろうな。
 少なくとも今は私が無断で入る事は叶わぬ。父上はあの日、私に陵峨の屋敷で暮らすようにと暗に御命じになったのだから。

 それでも、此処に佇めば気持ちが落ち着く。心が自然に穏やかになる。

 あの日、陵峨が此処を訪れなければあるいは今の状況は違っていたろう。
 いや、あるいは私があの野原へと気まぐれに赴かなければ。そして見て見ぬ振りをして立ち去っていたならば。

 考えても詮無き事だ。もう一度やり直すことが出来たとしてもきっと私も、そして陵峨も、同じ事をしたのだろうから。
 それに…かつてのこの場所で過ごしていた毎日に…何もかもが薄布で遮られた様な感覚の毎日に、果たして私はいつまで浸かっていられただろう。耐えて、いられただろう。―――なるようにしかならぬものだ、どんな物事も。



「…!!兄上っ!!」

 誰も居らぬと思っていた下から突然そう呼ばれて、はっとしてそちらに目を向ける。
 庭の木々の間に佇む小さな影は、父の大切ないとし子のもの。

(犬夜叉、か…)

 こんな朝早くから湖のほとりで何をしていたのだろうな。

「…降りて来てよ、兄上。もう一度会いたくて、毎晩此処に来てたんだ。」

 頼りない口調ではあったが、先日合間見えた時よりは僅かに大人びて見えるのは気のせいだろうか。
 どうせ時間を持て余す身だ、地面に足を下ろして半分血の繋がった弟の話を聞いてやったとて変わりはあるまい。そう思って静かに高度を下げて行く。

 相手から少し離れた場所にそっと着地すると、犬夜叉はまっすぐに此方に向かって駆けて来る。
 黙ってそれを見ていると、彼は驚いた事に私の手を両手で掴んだ。幼子特有の熱い体温が私の冷え切った手に伝わる。

「兄上、手が冷たいんだね。」

 そう言って見上げて来る黄金色の瞳と視線が交錯する。

「ここ、結構寒いもんな。あそこで何してたの、兄上?」

 言葉を発せぬ私に焦れたのか、犬夜叉が一方的に話をする。
 何をしていたか、か。考え事をしていた、と言って理解できる年ではないだろうな。

「別に。」

 言葉に詰ってそう言えば、犬夜叉の顔が僅かに曇る。

「兄上、俺の部屋に来てくれない?…あの、母上も兄上に会いたいって言ってたんだ。」

 何を言い出すかと思えば…あの人間の女が私に会いたいと…?自分の夫と、彼女の知らぬ妖怪の女との間に生まれた私の顔など見て嬉しいのか?
 父上も私が彼女と顔を合わせることに良い顔はなさらぬだろう。それにこの時刻では未だ彼女も閨の中ではないのか。もしかしたら、父も共に。

「いや…やめておく。朝も早い、未だ休んでいるだろう。」

 又弟の表情が曇る。

「…そっか、そうだよな…。兄上は…宮に戻るの…?」

 心なしか声の調子が弱まっている弟に、黙って首を振る。
 私があの後あの宮を出て行った事を知らぬのは、幼子であれば当然の事か。

「じゃあ…ずっと此処に?」

 重ねて問われて、どうしたものかと思いつつも成り行きで頷いた。確かに此処ならあまり人通りもないゆえ、時間が過ぎるのを待つには適した場所であろう。

「俺も、一緒にいていい?」

 まだしっかりと私の手を掴んだままそう言う弟を振り払う気にもなれず。けれど、この弟は早くに戻らねば朝になって母である人が心配するのではないのか。

 地面に敷かれた白砂の上に腰を下ろした私の傍らに犬夜叉も座り込む。目の前に広がる湖とその上にぽつりと浮かぶ孤島を見つめながら互いに無言のまま結構な時が流れた。

 不意にぽすん、と。腕に小さな重みが掛かる。
 …夜中起きて湖を眺めていたという訳か。朝になってから眠りに誘われるのも無理は無い。
 先程まで掴まれていた手を見やれば、力は抜けているもののまだ掴まれたままで。何と無く、父が愛した幼子の温もりを感じたいような気分になってその身体ごと膝の上に抱え上げた。

 無防備なものだな…私がもし、このまま手をその首に掛けたなら一たまりもあるまい。尤も父上の宝を壊すような気を今の私は持ち合わせて居らぬが。

 私に全ての体重を預けたまま、半刻ほど経っても弟は目覚めない。そろそろ帰らせねばまずいかと軽く声をかけて揺すってみても何の反応も無く、どうしたものかと戸惑う。

 この場所に放って行く訳にはいかぬな…家中には半妖であるこれを良く思わぬ者も沢山居ろう、そういう者達に襲われたとしても今の状態では応戦出来まい。
 このまま抱えて部屋まで送ってやるのなら、少しでも他の者の目が少ない今を選ぶべきだ。

 結局そのまま立ち上がり、意識を集中して自分の気配を消す。
 犬夜叉達母子が生活している部屋の位置を知る事は大して問題ではなかった。匂いを辿ればそのような事は造作もなかったから。
 犬夜叉の母親であろう気配をわざと避けて、弟が抜け出したのであろう寝具の中に眠ったままの弟を横たえてやる。

 さらばだ、誰かが起こしに来るまでゆっくりと眠るがいい。

 心の中でそう声を掛けて早々に立ち去ろうと腰を上げて、避けていた気配が後ろから近付いて来るのを感じた。
 犬夜叉の母親…か、起きて来たという訳か?

「殿…?ではいらっしゃいませんわね、よく似ていらっしゃるけれど。」

 父と私を見間違えたというのか。まあ、こんな時刻に弟の寝所まで来れるのはこの屋敷では父くらいなのであろう。
 こんな間違いをするという事は昨晩は父上はこの女の元でお休みになったわけではないのだな…夜通し訪れを待っていた、という所か。

「若君様、ですの…?」

 今この女と多くの言葉を交わす気にはなれなかった。
 犬夜叉と暫しの時間を共有した事で多少意識が外にずれていたが、私は陵峨の一族に送りつけられたあの書簡の為に此処に居るのであって、他の事に心を煩わす訳には行かない。

「弟は送り届けた。…私はもう行く、他言無用だ。」

 我ながら硬い声だと思う。足を踏み出した時、遠慮がちに女の手が袖を掴んで私を止めた。

「御待ちを…!」

 …やめてくれ、これ以上今の私に負荷を掛ける様な真似は。私を父と錯覚して引き止めているわけではあるまいな。
 初めてまともに女の姿を見つめた私の瞳は随分と不機嫌な冷たい光を湛えていたのだろう、彼女は慌てて私の袖を放した。



 そのまま庭へ出て、其処から上空へと姿を消す。あと暫く、近くの森ででも波立った心を静めて、それから父上の元へ参るとしよう。







 何日もあの場所で張り込んだ甲斐が有ってか否か、漸く俺は兄上と再び会い見える事が出来た。
 言葉少なくしか応えてくれぬ兄に随分と不安な気持ちになったが、彼の手をしっかりと掴んだ自分の手を振り払わないで居てくれる事だけが救いであった。

 宮に帰る事はせぬという兄の隣に半ば強引に腰を下ろして。それから強烈な眠気に襲われた事を覚えている。

『犬夜叉…犬夜叉…起きよ、犬夜叉。』

 軽い揺れと心地よい深みのある声に名を呼ばれた…?
 でも、身体全体を包み込む感触と何処からか香る落ち着いた香りに誘われるかの様に、俺の意識が完全に覚醒する事は無かった。

 やがてふわりと身体が宙に浮いて。暫く後に冷えた布の上に下ろされた様な感触を受けた。

 温もりが、去って行く。俺の身体の熱じゃなくて…つい先程まで俺を包んでいてくれた何かの温もりが…。

(行か、ないで…)

 夢の中でそう追いすがってもその姿は霧に覆われて俺には既に見えない。

「お待ちを!」

 不意に切羽詰ったような女の声が耳に届き、一気にぼんやりしていた意識が覚醒を始める。
 今の声は…母上…?

 漸く瞳を開けると、其処には呆然と庭先を見つめる母が居た。

「…どうか、したの…?」

 尋ねれば少し痛々しくも見える小さな笑みを浮かべて彼女は此方を振り返る。

「どうも、していないわ…」

 嘘だ、どうもしていないなんて、そんな表情じゃない。勘がそう告げてくる。

「母上…兄上に、会ったの?」

 思いついて問い掛けた言葉に、母の肩がびくりと震えた。

「…!!」

 覗き込んだ母の瞳には一種怯えのようなものが見え隠れしていた。






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