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雪月華 * 拾の巻





「お頭っ…!!犬の大将から使者が参りましたぞ!!」

 それなりに精悍な容貌の若武者がある朝慌てて陵峨を探して駆け込んで来て。其処に居たのが求める相手ではなく私であった事に目を大きく見開いた。

「あ…申し訳無い、その、此処は以前陵峨様の居間であった室故、間違え申した。」

 ああ、成る程な…何と無くそうではないかと思っていたが、彼は私にそれまで使っていた居間を譲ってくれたと云う訳か。

「構わぬ。…父上から使者が…?」

 若武者は言い辛そうに頷く。
 父上が、使者を寄越したとすると…その用向きは一体何であるのだろう。

「…何処に居る、その使者は。」

「は、控えの間にて待たせて居りますが…。」

 語尾を濁すのを聞き流して、私はそのまま立ち上がり、部屋の敷居を踏み越えた。

「控えの間に人払いを、それから陵峨を探して私の所に来る様伝えてくれ。」

 思えばこの屋敷に来て人に命令口調で物を言ったのはこれが初めてであった。若武者の方も私がそんな風に話す所を聞いた事が無かった故か、意外そうな面持ちをしながらも『すぐに』、と頭を下げた。

 一体何を、父上は…?
 ただその事のみが頭の中を占め、回廊を歩む足取りも自然と早くなって行く。私がからりと襖を開けるのと、座していた使者が此方を見つめるのとが同時であった。

「殺生丸様…」

 父の腹心であるその男は、確か犬夜叉達母子の世話をも任せられている男だったか。普段離れの宮に篭っていた私でも見覚えのある顔であった。

「…」

 黙ったまま見つめる私に、彼が懐から木箱を取り出す。

「お父上様から、書簡でございます。決して中を見る事無く届けよとの、厳命でございました。」

 差し出された箱には、紫の紐で封がしてあった。

「この書簡は私にか、それとも陵峨に宛てたものか。」

 尋ねても、使者である男は知らぬと言う。
 …どちらが読んでも構わぬ、という事か。

「返事を持ち帰る様に言われたか?」

 重ねて尋ねれば、目の前の相手はただゆっくりと首を振る。

「いいえ、ただお届けせよ、とだけ仰せでございました。」

 父上の意図が読めぬ。別に今に限った話ではなく、元々父上は私にその意思を伝えるつもりなど無いのやも知れぬが。

 溜め息をつきながら木箱を開ける。
 記された豪快な文字は紛れも無く父のものであった。

 内容は…。既に遅延をきたしている上納品を二月以内に納める事。そして、其処に記された品の数は異様なまでに多かった。
 反抗的な部族であったから負担を多くして忠誠心を量ったのだろうか。しかし、これでは却って争いを招くばかりのような気がするが…。
 そして今、統治を任されているという事は、この私がそれを取り立てねばならぬという事か?とても可能な量とは思えぬ故、何らかの策を講じねばなるまい。

「…戻って良い、ご苦労だった。」

 私が使者にぽつりとそう声を掛けるのと、陵峨が反対側の襖から姿を現すのが同時だった。使者は彼の顔を見ると長居は無用とばかりに軽い会釈をして踵を返し、部屋に残ったのは二人だけとなる。

「…お呼びでしたか。」

 いきなり使者の用件は何だったのかと聞かず、こう尋ねる所がこの男のこの男たる所以であろう、と頭の中でぼんやりと思った。
 無言のまま書簡を納めた木箱を差し出す。陵峨も黙ってそれを受け取った。

「…拝見しても?」

 尋ねられて静かに頷くと、彼はその書簡に素早く目を走らせた。その穏やかな顔が途端に怒りの色に染まったのが見て取れる。私が目の前に居るという事で自分を抑えたのだろう、その表情は一瞬後には綺麗に覆い隠されてしまったが。

「これまでも、父上はこの様に無茶な要求を?」

 遠慮がちにそう問えば、物言わぬ目線が返って来る。無言の肯定、という事か。

 もし父の命を満たさなかったらどうなるというのだろう。反逆者として討伐をされるのか…?
 父はそういった類の暴君では無いと思っていたのは私の思い違いだったという事なのか。
 今は私が此処に居るとはいえ、人質としての意味は全く持たぬと考えて良いだろう。

「明日、父上の所に伺う。必ず説得出来る保証は無いが…他の者には未だこの事は伏せておいてくれ。混乱と憎しみが生まれるだけだから…。」

 陵峨が黙って頷くのを確認して、私も又無言のうちに自室へと戻った。



 父上の心が、考えが。何一つ読めぬ。
 それが私の心に妙な焦りを生み出し始めていた。



 その晩も、いつもと変わる事無く過ごして。異なった点と言えば、予め明日着て行くべき正装を私が用意して褥の横に出しておいた事くらいであったろう。

 そして、皆が起き出さぬうちに発とうと身支度を整え始めた私の髪を結うのを手伝い、かつ門の所まで見送ってくれたのが陵峨であった。

「どうか、御気をつけて。」

 そんな一言と共に、ゆっくりと背を抱きしめて。朝の冷気の中、離れて行くその温もりが名残惜しく感じられた。







 手に入らぬならばいっそ、手放してしまおうと。そう自ら決めて殺をかの男の屋敷へ送ったくせに。

 ―――未練が、断ち切れぬ。

 夜が来れば、あれが今どんな夜を過ごしているのかという考えが頭を満たし、幾人か居る妾の許へ足を運んでも少しも満たされる事が無い。

 十六夜の所を訪ねる事は出来なかった。彼女の所へ行けば、犬夜叉が『兄上は?』とまるでおねだりをするかのように姿の見えぬその存在の消息を聞きたがるであろう事は目に見えていたから。

 どうすれば良い、どうすればお前は、その身も心も私だけの物になってくれる…?

 自分から手を放しておいて、身勝手過ぎる問いだと自分でも分かっているさ。
 だが、もう既にあれと離れて二週間が経つ。もう、耐えられぬと。あれと離れて、顔を見ることさえ叶わぬままに過ごすのは耐え切れぬと。身体の細胞の一つ一つが、そして何よりもこの魂が悲鳴を上げている。

 殺を送り出して一週間程過ぎた頃から、私は主の居らぬ水の宮で夜を越すようになった。たとえ本人が不在でも、数十年間暮らしたその残り香が微かに香っている様な気がして。そして私は久し振りに安らかな眠りを得る事が出来たのだ。

 …けれど、それももう限界。
 あれの細い体躯を、すべらかな肌を、この腕に感じたい。欲望は留まる事を知らず、翌朝私は思い立って一通の書簡をしたためた。

 我ながら暴虐が過ぎるであろう、と思われる内容。
 けれど、これを受け取ったなら。お前はきっと我が許に来るのではないのか?せめてもの抗議をしに、あるいは私の命令を全うして。

 名目はどちらでも構わぬ、そなたの顔が見たい。そうして今一度、この腕の中に組み敷きたくてならぬのだ。
 …今一度?いや、叶うのならば永遠に。






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