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雪月華 * 九の巻





 結局その晩は一睡もする事が出来なかった。
 私の血を体内に入れたせいで苦しげにうなされている陵峨が心配だと感じるのは、妖怪である私にはあるまじき事ではあるのだろうが。

 夜明けが来て、微かに開けた障子の間から淡い光が射し込む。

 今日はどのような一日になるのだろうな…この様子では多分陵峨は動けまいから、色々としがらみが増える事は間違いが無かろうが。

 その光に、ぴくりと陵峨の瞼が動き、その深い色合いの瞳が緩やかに開けられた。

「気分はどうだ?」

 問い掛ければ、何とか、と苦笑する様子が痛々しい。
 私の、せいだな。己の感情をきちんと制御出来たならば、自らの手に傷をつける事も、それが原因で彼に毒を飲ませる事も無かった。

「…お休みになれなかった様ですね。貴方の役に立ちたいと思っていたのに、却って足手まといになって申し訳無い事をしてしまった。」

 独り言ででもあるかの様に呟く相手にもう一度しっかりと上着を着せ掛けてから、部屋を出る。一人になって色々と考える事も、この屋敷内の事を一刻も早く把握する事も急務であったからだ。



「これはこれは、早朝から散策ですかな、新しい頭領殿。」

 中庭に差し掛かった時、五六人の男達が目の前に立ち塞がった。
 嫌な感じのする妖怪共だ、これがあの陵峨の手下であるなどと、到底信じられぬ。

「おや、高貴なお方は我々下々の者とは口も聞いて下さらぬのか。…それとも、昨晩散々お頭に可愛がられて声が枯れて居られるのかな?」

 上がる、下卑た笑い声。一瞬彼らが何のことを言っているのか理解が出来なかった。

「朝早くから起きて来られる所は流石と申し上げますが、何故に寝巻きで出歩かれるのかが気になりますなあ…それとも、夜に可愛がられただけでは足りずに新たな相手を探しておられるとか?」

 二人目がそう言い、残りの者が又にやにやと笑う。中にはお望みならば相手をして差し上げましょう、と言う奴まで居て。
 漸く思考が現実を把握する。

 こやつらは。…私が昨夜陵峨に抱かれたとでも思っているのか。よしんばそうであったとしても、こやつらにこの様に馬鹿にされる謂れは無い。
 それに、お前達の相手だと…?私の身体に指の一本でも触れる前に原型を留めぬまでに昇華してくれよう。

 沸々と湧き上がってくる怒り。
 それに気付きもせずににやにやと近寄って来た最初の一人に、戸惑う事無く毒を注ぎ込む。一瞬にして消え失せるに充分な程の量の毒を。
 崩れ落ちるその男の姿を見て、残りがざわめき立つ。逃げ出そうとするのを光鞭で一閃し始末してから、漸く普段の心を取り戻した。

 こんな風に我を忘れて怒りを顕わにするなど、どれだけ振りだろうか。
 父の結界の張られたあの宮では、ただただ父の望む通りの人形の様に振舞っていれば良かったし、父の仕打ちに哀しみを覚えることさえあれ、怒りを覚える事などありはしなかったから。



「…見事じゃな。」

 振り返れば、一人の年老いた妖怪が庭先に佇んでいた。無言で誰だ、と問えば、彼は何処か陵峨にも似た笑みを浮かべる。

「わしの名は烈峨、陵峨の叔父じゃよ。向こうの離れに住んでおる。昨日は挨拶に出向けなくて済まなかったの。」

 叔父が居たのか。跡を継いだ時に良く血で血を洗う争いにならなかったものだ。
 ああ、まあ彼らなら有り得るのかも知れぬな、信じられぬ程の思いやりを持つ男だから。

「…いえ、構いませぬ。」

 自分にもし祖父が居たならばこれ位の年であろうと思われる相手ゆえ、自然に物腰が丁寧になる。

「ほほほ、不思議なお人じゃ、陵峨が惚れ込むのも尤も、といった所かな。」

 温和な笑みを浮かべる老爺に、ささくれ立ちかけていた心が解かれて行く。

「で、陵峨はあんたを抱いたのかの。」

 次いで放られた問いは如何にも不躾なものであったが、不快に感じられぬ所がこの老人の見事さであろうか。

「いいえ。」

 短く答えれば、烈峨と名乗った老人は再びほほほ、と笑った。

「そうじゃろうて、あの子はそういう子じゃ。そしてあんたも…色々と複雑なものを抱えて居られるようじゃの。」

 見抜かれて、いるか。…まあ別に困りはせぬが。

「時に陵峨は、今朝はどうしたのかの。」

 ゆったりと尋ねられて、この老人に隠し立てをしようという気は微塵にも起きなかった。

「…寝所で休んでおります。事故ではありましたが、我が血の毒を飲み込んでしまいました故。」

 手短に真実のみを告げれば、烈峨はそれだけで全てを呑み込んだというかのように頷いた。

「あんたも手に傷を負っとる。…この爺で助けになる事があれば何でも仰せられるが良いぞ。」

 私自身の手の傷などはどうでも良かった。自分で力を暴走させて自分を傷つけただけだ、放って置けば良い。
 だが…。

「毒消しの方法を、ご存知か。」

 思わずそう尋ねてから、随分と素直な気持ちになりかけている自分に驚く。

「毒消し、か…知らん事も無いが、あんたの毒だとすると…ちと、厄介じゃな…。お父上に似て、随分と妖力がお強いようじゃから。」

 そう言いながらも、付いて来なされ、と烈峨は先に立って中庭を横切って行く。それなりに風情のある木々の間を通り抜けて連れて来られたのは小さな庵であった。

「どれどれ、申し訳無いが少し貴殿の毒…いや、血を頂けるかな。」

 そう言われて迷いも無く小刀で手の平を浅く斬りつける。瞬く間にそこから滴り落ちた血を、差し出された椀に落とし。もう良いぞ、と慌てた様に烈峨が止めるまで血止めをする事もなくそのままでいた。

「こりゃあ大変じゃ、この器さえも溶かす様な強大な力じゃとは…。ちょっと待っていておくれ、出来るだけ効力のある薬を煎じる故、あんたが持って帰ってあれに飲ませてやっておくれ。」

 薬草を煎じたり、それを器に入れて溶かしたり、を繰り返し。半刻程経った時に椀の中に残ったのは、一見水の様な透き通った液体であった。

「ほれ、これじゃ。…急いだ方が良いぞ、あまり長く持つ薬ではないからの。」

 烈峨に見送られて、慌しくその庵を後にする。
 又お気が向いたならおいでなされ、と言う彼に軽く礼をして、未だあまり人影が無い回廊を歩んだ。



 部屋に戻ると、先程よりは幾分か楽そうな規則正しい呼吸の音が聞こえて。私の気配を感じとったのだろう、陵峨がゆっくりと此方を見つめた。

「何処においででしたか…お姿が見えなかった故、案じて居りました。」

 枕から僅かなりとも頭を上げぬ所を見ると、まだ大分加減が悪いという事か。

「…中庭で、貴方の叔父上だという方にお会いした。それで…これを。毒消しの薬だそうだ、少しは楽になろう。」

 傍らに椀を置けば、陵峨が苦しげな顔ながらも笑みを浮かべる。未だ起き上がるのは辛かろうと思い、私は又口移しでそれを与えた。
 …何の味も、せぬのだな。見かけ通り、誠に水の様な薬だ。

「殺殿…お手に、又傷が増えている…」

 じっと私の手を見つめながらふと陵峨が漏らした台詞に、思わず自分の手を背後に隠した。

「何でもない。手に傷の一つや二つついた所で、特に支障は無い故、案ずるな。」

 慌ててそう言ったものの、誤魔化せたのかどうかは良く分からない。
 薬が効を奏したのだろうか、二三刻後には陵峨の顔色はすっかり良くなり、難無く自力で起き上がれる様になった。御蔭で下級妖怪達にこの事を知られる事無く、無事に一日を過ごせた訳だが。



 それから、約半月。
 初めの頃こそ無謀な手立てで奇襲を掛けて来る妖怪達が居たものの、何事もなく表向き平穏な日々が過ぎていた。この館に暮らす者達と私との溝は埋まる事無く存在しているが、それは致し方無い事なのだろう。

 夜一人で休む事にも随分と慣れた。今までは…三日に一度位は父上が私の寝所においでになっていたから。

 尤も襖を隔てた向こう側には、警護の者を置く代わりに、と陵峨が床を取ってくれてはいたのだが。






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