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雪月華 * 七の巻






 案内されて着いた屋敷は、これまで住んでいた離宮と丁度同じくらいの広さ。あの水の宮は住まう者があまりに少なすぎた故に使っておらぬ部屋が多々あったが、此処はどの部屋にも活気があって、救われた様な思いがした。

「殺生丸殿。まずはご用意したお部屋に御案内致します、ひとまず御寛ぎ頂いてから家臣達にもお顔を見せてやって下さい。」

 そう言われて頷きつつも、遠巻きに此方を眺める沢山の妖怪達がひそひそと囁き合うのは否応無しに耳に入る。

『お頭もお気の毒に…いくら世継ぎが居られぬからとて、犬の大将の息子を押し付けられるとは。』
『あら、でも陵峨様は結構納得しておられるという話だよ。…見目だけは麗しい御方の様だから、あの顔でお頭をたらしこんだのかねえ。』

 何処へ行っても変わらぬな―――下等な妖怪共の話は。生家でさえそうだったのだ、敵陣にも等しいようなこの館では尚の事かも知れぬ。
 例えこの館を治める男が見所のある男であったとしても。

「…申し訳無い、昨晩手下共に言って聞かせる余裕がありませんでした。
 急な、事でしたから…。」

 私が知らず知らずのうちに眉を顰めているのに気がついたのだろう、陵峨が心配そうに此方を見つめる。

「…気にして、居らぬ。」

 私はいつも、言葉と心が裏腹だな、とぼんやり思いながら、歩みを進める。さくり、さくりと砂を踏みしめる音がいやに耳に残った。



「此方です、貴方の御生家に比べれば随分と見劣りのする部屋でございましょうが、ご不便な事がございましたら何なりと御申し付け下さい。」

 この男は、随分とへりくだった物言いをするのだな。私が父上の息子で、その代理として此処にあるからか…。
 それでも、私よりも随分と年を経た妖怪であり、一族を束ねる地位にある彼にこうして接されるというのは、妙な心地がする。そんな風に感じるのは、私が彼に父親を重ねて見てしまっているからであろうか。

「どうかなさいましたか?」

 穏やかに問い掛けられて、暫し躊躇った後に、陵峨殿、と相手の名を呼んだ。

「呼びつけて下さって構わないのですよ、お父上も私の事は呼び捨てにしておられたでしょう?…それに、私も貴方に忠誠を誓った。」

 静かに背後で襖が閉められ、不意に一昨日の晩と同じ熱い感触を右手に受ける。

「…覚えて、おられるでしょう…?」

 静かな瞳が私を見上げる。
 確かに、覚えているけれど。父上とは又違った感触の口付けを、忘れてはいないけれど。

「…私は父の命でこの館に来たが、此処に住まう者達が頭と仰ぐ者は依然として貴方だ。だから…年下の私に向かってその様に畏まる必要は無い。」

 そう返すと、相手は困ったように微笑んだ。

「犬の大将は貴方を何とお呼びになっていらっしゃったのです?」

 不意にそう聞かれて、はっとする。
 この男はとうの昔に気付いていたのかも知れぬ、私が心の底から求めているものが一体何であるのかを。

「…殺、と。」

 動揺を悟られぬように、と短い言葉で答えのみを口にすれば、陵峨は口元の穏やかな笑みを消す事無く、では『殺殿』とお呼びしましょう、と囁いた。







 未だ朝ではあったけれど、出立が早くて昨夜の名残を洗い落としている時間が無かった事に気付いて、先に湯殿を借りる事にする。父はいつでも私が目覚めるまでに簡単な始末はしておいてくれたけれど、それでもやはり身体の奥まで清める事は出来なくて、朝に湯を浴びるのが私の習慣になっていた。
 湯浴みを手伝う者を寄越そうかと尋ねられて、一人で入りたいからと曖昧に断る。

 柔らかい湯気に当たりながら着衣を脱ぎ落として、思わずはっとせざるを得なかった。
 腕にも、脚にも、腹にも…体中に残る紅の痕。それが何時、どうして出来たものかが分からぬ程には、既に私は初心ではない。
 それでも、これまで私の身体に父上がこの様な印を残される事は無かったのに…一体何を意図しておられたのであろう。



 ぼんやりと熱い湯を浴びれば、肌に残る痕が余計に色鮮やかに映る。着物や髪で何とか隠れる部分である事に奇妙な安堵を覚えつつ、用意されていた襦袢に袖を通した。

「何か、ご不便な事はございませんか。」

 ずっと湯殿の外に居たのであろうか、扉越しに陵峨のそんな声が掛かる。特には、と言いつつ扉に手を掛けて外に出れば、はっとした様に此方をみやった陵峨が微妙に目線を逸らしつつ私の肩に新しい上着を着せ掛けてくれた。
 …痕が隠しきれていなかったのだろうか。

「暫くお休みになりますか。」

 その必要は無い、と言いたかったが、この湯上りの状態で彼らに会うのも得策とは言えなかったゆえ、陵峨の言葉に甘える事にした。

「それでは、ごゆっくりお休み下さい、人払いはしておきます。」

 小さく礼を言うと、相手も穏やかな微笑みを返してくれた。



 どのくらい時間が経ったのであろうか。少し瞑想するだけのつもりだったのに、眠りに落ちてしまっていた様だ。
 敵意がこもった妖怪の気配が迫るのを感じて私は目を覚ました。

(…敵地なのだから仕方ないにしても…初日からこれとはな…)

 思わず溜め息を付きながら起き上がり、部屋の中央に構えて立つ。

 程無くして数人の妖怪が部屋の扉の向こう側に来た。
 気配を消しているつもりなのかもしれないが、手に取るようにそれが分かってしまう。
するすると扉が開いて。
 既に察知して待ち構えていた私の姿を見て彼らはどよめき立つ。

「き、貴様、殺してやるっ」

 一人目が慌てた足取りで部屋に駆け込んでくるのをいなす。
 殺す事とて出来たが、殺す相手は陵峨の家臣だ、わざわざ溝を深める様な事はしたくなかった。ただ、いつまでも刃向かって来られても面倒なので、動きを止める位の打撲は与える。

「先日も聞いたが…何が望みだ。」

 静かに尋ねれば、途端に逆上したらしい二人目が踊りかかってくる。

「望みなど、聞いても叶えてはくれぬくせにっ!!」

 二人目は一人目より多少は使える男のようであった。数回渡り合った後、彼も床に伏す。

「…聞いてみねば分からぬ。それに、望みとは自分の力で叶えるものだ、願っても叶わぬ望みもあるがな。」

 自分でそう言っていて、何故か父の姿が頭に浮かんだ。
 私の望み…決して叶わなかった夢。私もこの男達とそう変わらぬのかも知れぬ。

「俺の兄さんはあの時あんたに殺されたんだ。虫けら同然に一瞬でな。それなのに今度はあんたに仕えろなんて…無理な話だ。」

 戸口に残ったうちの一人がゆっくりと口を開く。

「お頭はあんたを気に入ったのかもしれねえがな、あんたは人殺しだ。」

 馬鹿な事を。争いの場ではやらなければやられるというのが自然の掟であろう。他者を殺した事が一度も無い妖など、この世にいる訳が無い。

 だがその一方で、敵討ちを考える程に想われる家族というものは随分と羨ましかった。
 私も、もしかしたら…いや、きっと。父に手を下した敵がいたなら、例え力で叶わずとも一矢なりとも報復に行くのかもしれぬな。

 黙り込んだ私に痺れを切らした相手が部屋に踏み込もうとした時、部屋の後ろの襖が音も無く開いた。

「お前達、誰が此処に立ち入って良いと言った。」

 振り返ればそこに立っていたのは陵峨で。随分と怒っているのだろうか、その双眼は血の色に変わっている。
 部屋に満ちる威圧感が彼の妖力の強さを示しているかのようだった。

 何も言う事が出来ずにその場に佇む妖怪達に、一瞬の内に抜かれた陵峨の腰の剣が真っ直ぐに向けられる。

 …自分の部下を斬るつもりなのか…?あのいつも穏やかだった男が…?

 そう思った時、思考よりも先に身体が動いていた。後ろから抱きとめる様な恰好になるのも構わず、陵峨の腕を掴んで止める。

「止せ、陵峨。…止めてくれ、他ならぬ貴方が自分の部下を斬るなど。」

 ふっと部屋に満ちる緊迫感が解ける。

「殺生丸殿…いえ、殺殿…それが貴方の、命ならば。」

 そんな言葉と共に彼の右腕に篭った力が抜けた。

「連れて行け。」

 低く命じると、未だ動ける妖怪達が床に伸びている二人に手を貸して部屋を出て行く。



 部屋にまた、二人きりになって。此方に振り向いた陵峨に一瞬のうちに抱きすくめられた。落ち着いた、いい香りが焚き染められた彼の着物は随分と安心感を与えてくれる。

「貴方は、優しすぎる…」

 堅く私の体重を支えたまま囁かれた言葉に思わず肩が震えた。
 『優しいのではない、ただ私の弱さが彼らの弱さを鏡として映し出されて、殺せなかっただけだ。』、とそう告げられたらどんなに楽であろうか。
 …今だって、彼の背に腕を回して縋りつきそうになるのを必死で抑えている。

 私は、やはり。父上の代わりを欲しているのか?
 特別なものとして私を愛してくれる存在を求め続けて、そして陵峨に縋っているのか?

「…泣いておられるのですね…」
『泣くな…』

 陵峨の声と、今朝方聞いた気がする言葉がだぶって聞こえる。

 いつから、私は。こんなにも弱くなった…?
 妖力ではない、自分自身の心が日に日に弱っていくのが手に取るように分かる。
 かつてなら。そう、かつてなら、例え犬夜叉にばかり愛情を掛けられる父上の姿を見てもこんな涙が浮かんできたりはしなかったのに。自分の感情を押し隠して無表情を装う事が何よりも得意だったのに。

 父上、貴方は知っておられたのですね。
 私の精神が急激に弱って来た事に気付いて興が削がれ、お側から遠ざけられた。元々近くになんて居た事は無かったけれど、今は更に遠い。



 陵峨はそのまま随分と長い間、私の涙が止まるまでそのまま抱きしめていてくれた。時折髪を撫でてくれるその仕草が、随分と嬉しくて。物言わぬままで、彼の優しさに甘えていた。

「…貴方は、何もせぬのか。」

 顔を上げた時に何気無い風を装って尋ねた言葉に、陵峨は微かな苦笑を浮かべる。

「…私も男ですから、何も求めて居らぬといえば嘘になりますが…貴方の瞳がきちんと私を映す余裕が出来るまで待てぬ程に若くもありません。」

 そうだな、そういう男だったな、この男は。
 嵐の様に通り過ぎて行くだけの父とは正反対で、例えるならば、長いこと静かに降りつめる雨。けれど何処か、惹かれずにはいられない。





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