雪月華 * 六の巻
「それでは陵峨の一族はお前が治めよ、殺。…この男は館にお前の居室くらい、喜んで用意をするだろう。」
父のそんな言葉がこの耳を射る。何を仰っているのか、一瞬理解出来ずに呆然と父の顔を見つめるしかなかった。
「…父…上…?」
思わず唇から漏れ出る、吐息の様にも聞こえる細い声。これは…私のものなのか。
「…分からぬか、殺。お前に統治を委ねようと言っているのだ。」
感情を消してしまったかのような父の声が追い討ちを掛けるようにそう告げる。
父上…私を屋敷からお出しになりたいとお考えなのですね。
分かっております、天球に二つの太陽は存在し得ない。同じ様に貴方の血を引く者が一所に二人居ても、争いの種にしかならぬという事を。
…理屈は分かっているけれど、それでもやはり哀しいと思うのは…私の我儘でしょうか。
それでも、父の命は絶対。唯一の救いがあるとすれば、私がこれから共に暮らす相手が、それなりに好感を持てる相手であったことであろうか…。
「…承りましてございます、父上。」
何とか平静を装ってやっとの思いでそう礼を取る。
「…では明朝発つがいい。色々と準備もあるであろうからな。陵峨は先に自分の館に戻れ。自らの言葉を忘れるでないぞ、手下共にも誓いを守らせよ。」
淡々と命じていく父。深く頭を下げてその場を下がる。
居室に戻れば、扉の前で所在無さ気にうろうろと歩き回る邪見の姿。こちらを見上げて、殺生丸様…、と辛そうに名を呼んだきり、地面を見つめている。
「どうか、したか。」
思えばいつも側に仕えていたこの小妖とも、大して多くの会話を持った事は無かったな。
「…殺生丸様…それで、宜しいのですか…?」
躊躇いがちに問い掛けられて。うるさい、と一蹴する事も出来たけれど、仕方ないだろう、と一言だけ返して部屋に篭る。
静かに、だが有無を言わせる事無く閉じた扉の外から、邪見も御供致します、という相手の声が小さく聞こえたその時。
「それには及ばぬ、邪見。」
最も聞きたくて、そして最も聞きたくなかった声。
何故今この時に私の許においでになるのです、父上。一番表情に感情が溢れてしまいそうになるこんな時に。
からりと事も無げに襖が開けられ、父が横目で此方を見つめる。
「これが新しい住処で不自由をする事はあるまい、どうやら貢いでくれる者が居るよう故な。…この宮を管理する者が居なくなるゆえ、そなたが残れ、邪見。」
そう言われると邪見もただただ平伏するしか無い様で、額を地面に付けている。
…それにしても、私がこの宮を出た後、此処にあの人間の女と半妖の弟を住まわせるのかと思っていた。離れではあるけれど、広さも、装飾も、それなりに見事な建物であったから。
もっとも、私と私の母の匂いの沁みついた宮に、愛しい女を住まわせたいとは思われぬか。
考えに沈み込んだ私がはっと我に返ると、父がじっと此方を凝視していた。
「今宵はもう下がれ、邪見。」
父の声が淡々とそう命じるのが遠くに聞こえる。今度は静かに、ゆっくりと扉が閉められるのを空気の流れで感じた。
何と無く父の顔を正面から見据える勇気が出ずに、顔を俯けていると、不意に背に重みがかかって後ろから床に押し倒された。
―――父上…貴方は闇の深まる時刻に、時折現れては私をお抱きになったけれど。今宵も抱き納めとばかりにこの身の上を過ぎて行かれるのですか。私の存在は貴方の心に適わなかったけれど、この身体は束の間戯れるのに悪くは無かったという事でしょうか。
今宵も、きっと父上が私に言葉を掛けて下さる事など無いだろう。身体だけを繋げて…そして、朝になったら私は此処を去らねばならない。
「…陵峨の何処がそれほどまでに気に入ったのだ…」
次の瞬間、耳を甘噛みしながらそんなことを囁かれて、驚かずにはいられなかった。例えその言葉の内容がどんな事であったにせよ、私に言葉を求められた事が嬉しくて。
…けれど、何と答えろと…?
確かにあの陵峨という妖怪にどこか惹かれる所が無かったといえば、嘘になる。でもそれはきっと…彼に父親としての面影を重ねていたからで。いつだって求め続けていたのは本当の父である貴方からの愛情だと、伝えられる筈もない。
殺を追おうという思いと、離れると決めたのならこれ以上手を伸ばしてはいけないと自分を止める相反する思いが胸の中で火花を散らして。
結局私が取ったのは、殺の部屋に足を向けるという行動であったけれど。
閉ざされた室の前で、側仕えとして付けた小妖が供を申し出ているのを、我ながら残酷にも聞こえる言葉で遮った。
―――それには及ばぬ、と。
そうして強引に室の扉を開け、愛しく想う相手の姿を見た途端、口から滑り出てしまう酷い言葉。投げ付けられたそれに、表情を消して俯いていた殺の瞳が曇った。
平伏する小妖を下がらせて、室の中に二人きりになって。いけない、と自分の中の何処かで声が聞こえていたが、既に湧き上がっていた激情を治める術が分からず、顔を背ける相手を常よりも随分と乱暴に床に押し倒した。
こうして過ごす事が出来るのも。例え心が通じておらなんだとしても、身体だけでも側に留めておく事が出来るのも今宵限り。
私が自ら、この息子を己が下から解放しようと決めたのだから。
そう思うと、昨日から胸の中に渦巻いて離れなかった問いが口から漏れ出るのを止める事は出来なかった。
「…陵峨の何処がそれほどまでに気に入ったのだ…」
答えては、くれぬだろうか。
そもそも人を好く感情に理由などない。ただどうしようもなく、自分さえも見失うほどに焦がれ、惹かれるのが恋というもの。
そう知っている筈なのに、殺が何も言ってくれぬ事が辛くてならぬ。
最後の晩だからこそ。…せめて一言なりとも、本来あるべき会話をしたかった。
そう思いながら、情事の手を止める事はせぬ己が呪わしい。
…手離したく、ないのだ。本当は片時も離さず、いつだって側に置いておきたかった。本当は昼の光の下で見る殺の姿も眺めたかった。
陵峨は…私が抱いた望みの全てをその手中にするのであろうな。
そうしている間にも、見下ろす息子の瞳にはうっすらと涙が浮かび、その身体は静かに乱れて行く。
哀しい、瞳だ。―――-私が見ることが出来たのは、いつだって哀しそうな殺の瞳だった。
それでも、その涙の雫が綺麗で。どんなに手酷く抱いた晩でも、達する直前に一度だけ「父上…」と呼ばれるのが嬉しかった。
―――ならば、今宵は最後の晩なればこそ。彼の身体に私の印を刻んでしまいたい。永遠には無理でも、せめてあの陵峨の目に留まる程には鮮明で、強き刻印を。
雪のような白肌に唇を寄せ、強く強く吸い上げる。
痛かったのであろう、微かに殺の眉が寄り、その唇を空気が通る音が静まり返った室に響いた。
それでも私は印を残すのをやめる事はせず。首筋に、肩に、背に、腹に、更にはもっと下の方にまで紅い鬱血の痕を残し続けた。
合間に与えた下肢への愛撫でついに気を失ってしまった殺の身体を胸に抱きかかえる。
今ならば、どんなに強くその身を抱き締めても気付きはせぬだろう…?尤も例え気付いた所で、そなたは面と向かって父である私を拒絶したりは出来ぬのであろうが。
ああ、そして、今宵は。お前は私を呼んでくれなかったな…ただただ静かに喘ぐだけで。
夜が、更けて。
私の手中に有った唯一の気高き華が指の間から零れ落ちて行くのを感じた。
いつもの様に夜中の内に本殿に戻ろうとして、出来ない。―――どうしようもなく、未練がつのってならぬのだ。
どうか、せめて―――朝日が昇るその瞬間か、あるいはお前がその黄金色の瞳をうっすらと開けるその瞬間まで・・・・・・こうしてこのまま、お前の温もりを抱き続ける事を許してくれ。
飽きる事無く己が長子の顔を眺め続け。段々と明るくなって行く戸外の様子に、離れざるを得ない刻が来た事を知る。
…笑えぬな、私は自分で自らを苦しめているのだから。
不意に。眺めていた殺の長い睫毛が微かに震えて、その瞳が光を映す。未だはっきりとは目覚めて居らぬようであったが、ぼんやりとかち合った目線を逸らす訳にも行かず、数秒間見つめ合った。
「…父上…」
ようやく聞き取れるか聞き取れぬかという瀬戸際のような音量の声で呼ばれ、次の瞬間にはその頬をすうっと伝い落ちる銀色の雫を見る。
そうして再び閉ざされた殺の瞳。…再び眠りに落ちたのであろうか。
吸い寄せられる様に、その頬に流れる涙を唇で吸い取る。
「泣くな…」
起きている時には決して掛けられぬであろう、そんな一言を祈るように呟きながら。殺を涙させる原因にしかなれぬ己が、どうしようもなく虚しかった。
ゆっくりと殺から身体を離し、今度こそ心を決めて室を出る。
夜明けを迎えた中庭の木々が微動だにせずにいるその光景が、目に焼きついてならなかった。
浅い眠りを彷徨っていた様な気がする。
耐えられぬ寂しさに、どうせ夢の中で誰も知りはしないのだから、と涙を流して。不意に頬に熱く濡れた感触を憶えた。
「泣くな…」
初めて聞いた気がする、優しくも切ない声が耳に残る。
あれは、夢…?私の尽きぬ望みが見せた、一瞬の幻であったのだろうか。
朝が来て、此処を発たねばならぬ刻が近付いて。持って行く物など殆ど有りはしないけれど、身を守る武具だけを纏めて身に付ける。
「…殺生丸様。」
薄暗い廊下で邪見に呼び止められて振り返る。
「お発ちになるのですか…?」
しわがれた声で問い掛けられて、ああ、と頷くと、小妖は痛ましそうな瞳で此方を見つめた。
「…やはりこの邪見もお供させて頂くわけには参りませんか?」
小さな声でそう尋ねて来るのは、長く仕えた主であるこの私の身を心配しているからであろう。
「父上に此処を守れと命じられたのであろう。ならば、それに従え。私も…残した荷物はお前に預けておくことにする。」
ははっ、と平伏しつつ後ろでじっと私を見守る気配を感じながら建物の中から出れば、既に迎えに来ていた陵峨という名の妖怪の姿があった。
「御仕度は出来ましたか。」
短い問いの言葉に、応、と頷く。
父に出立の挨拶をすべきか否か、この期に及んで迷うのは私の弱さなのであろうか。父上からしてみれば、もう昨晩別れは済んでいる筈なのに。
「…参りますか?」
そっと促されて踏み出した歩みは、随分と重かった。
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