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雪月華 * 伍の巻






 目の前で恐れを為した様に自分を見つめる息子の姿がある。さぞかし普段と違う父親の変貌に驚いている事だろう。
 ああ、自分でも驚いているさ、殊に殺が関わると、どうしてこんな風に落ち着きが無くなって、平然と冷酷な事でも出来る様になるのか、とな。

 大きく息を吐いて心を鎮める。

「…部屋に戻れ、犬夜叉。何処にもおらぬと十六夜が心配していた。」

 未だ怯えの取れぬ瞳でじっと私を見つめる犬夜叉が、小さくこくりと頷いて場を去って行った。



 殺がどんな風に弟に対したのか、聞いてみたい。けれど、その足で殺生丸の所に向かうには…昨日の今日で、あまりにも気まずかった。

 どうすれば、伝えられる?美しくも儚く、そして何かに一線を引いたかのような己の長子に。
 時刻は、今日も既に夕刻になっていた。殺に逢いたいけれど…またいつもの繰り返しになってしまう様な気がする。
 それでも、昼間堂々と息子の顔を見る勇気は自分には未だ無かった。

 暫くその場に立ち尽くしていると、再び結界が反応しているのを感じて。先程此処から追い返した雑魚達か、それとも未だ懲りてはいないだろうもう一人の息子か、と考えを巡らせる。

 …おかしい、この妖気は犬夜叉や他の者達のものにしては…些か大き過ぎる。特に敵意は感じぬが…見に行った方が良さそうだ。
 尤も昨日目の当たりにしたあの手腕なら、殺生丸自身が簡単に己の宮を守るだろうが。ああ、だが昨晩も随分と激しくあれを求めてしまったから…体調が本調子でないという事もあるかも知れぬ。

 周りに誰も居らぬ事を確認して、懐にずっと大切にしまってあった石の鍵を静かに近くの竜の置物の口に差し込む。
 そう、これが隠れ橋をこちら側から発現させる唯一の手段なのだ。
 水の音と共に浮き上がる橋。かつては儀式の時等の飾り橋として使用した事もあったけれど、もう随分と使う事が無かった。古いけれども豪奢な装飾のこの橋を、殺に渡らせたならどんなにか似合う事であろう。

 離れの中は閑散としていた。まさか橋から訪れる者があるとは思ってもおらぬらしく、殺付きにとつけた小妖も出迎えには出て来ない。
 そして可笑しな事に、殺生丸自身の気配も宮の中には感じられなかった。留守にしているのか、それとも何らかの理由でわざと気配を消しているのか。
 此方も故意に気配を隠して、殺がいそうな場所を探す。

 それでも、見つけられたのは僅かに使用した跡のある湯殿と、空いた座敷に整えられた寝具、そして其処に置かれていた殺生丸が今より少し小さい頃に着ていたのであろう夜着。
 ああ、そうか、犬夜叉にこうして世話をしてやったのか、と頭の片隅に思う。

 己が結界を反応させている妖気の持ち主の気配は、動いていない。場所は…この宮の上空。

 行って…みるか。もしかしたら探した相手も其処にいるのかも知れぬ。
 無礼な侵入者が佇んでいるだけだったとしたら、一刀の元に斬り捨てるまでよ。どうにも今は、少し機嫌が悪いのでな。結界がじわじわと相手の身を苛むのを待ってやる気にはなれぬ。

 宮の中庭から上空を見上げれば、果たして其処に上空に浮かんだままの殺生丸の姿があった。
 そして、その至近距離にいる妖気の正体は、陵峨。

 この様な場所まで訪ねて来るとは、一体何の用だ。
 否、用など知れておるか。殺と特別な関係を持ちたいか…もしくは己の一族に引き込みたいのかどちらかだ。
 どちらも断じて許せぬがな。

 我を失いそうになったその瞬間、ふっと壁際で心配そうに上空を見上げる小妖の姿が目に留まる。

「邪見。」

 呼びかければ、へへえっ、と平伏されて。事態の詳細を問いただそうとした瞬間、結界の反応が消えた。

 それは、殺が自らそれを解いた合図。いや、無意識にかも知れぬが、殺の体に触れているものは結界に反応を示さなくなる。
 慌てて上を見上げれば、二つあった影が、静かに一つに重なっていた。殺生丸を優しく胸に抱きこむ陵峨に、抵抗する事無くその胸に納まっている殺。

 自分はあのような抱擁をしたことがあっただろうか、と後悔の様なものを覚えながら、黙って見守るしか出来なかった。

「…お止めにならないので…?」

 小さく尋ねてくる邪見を、身振りで黙らせながら。







「何か用か、今日は随分と客が多い。」

 出会い頭にそう言い捨てつつ、宵の刻の訪問者を出迎える。
 今度の妖気は随分と大きいから、と止める邪見を振り払って宮の上空へと出た。妖気からして何となくそうではないか、と思ったのだが、其処には昨晩の妖の首領の姿。

「貴方に昨夜の礼を申し上げたくて伺ったのです。そして、許されるならば少々話もさせて頂きたい。」

 穏やかな瞳の色でこちらを真っ直ぐに見つめる男。
 この男の持つ空気は、嫌いではない。…少なくとも、すぐに追い返そうと思わぬ位には。

「礼など言わずとも良い。私が勝手にやった事だ。それと…気付いているかも知れないが、此処の結界は徐々にその身を蝕む。余り長居はなされぬ方が、貴方の為だ。」

 そう返してやると、相手は心配して下さるのか、と微かに笑った。

「大丈夫ですよ、これでも私の妖力はその辺りの妖怪よりは僅かに強い。暫くは持ち堪えられる筈ですから。」

 そうか、と答えることしか出来ずに見つめ合ったまま、暫くの間沈黙が落ちる。
 そう言えば、未だこの妖の名も聞いてはいなかったな。昨日一時会い見えるだけの定めと思っていたから。

「…お父上は、何か仰っておいででしたか?」

 僅かに空いてしまった間を埋めるように相手が問い掛けてくる。

「…いや、何を?」

 父上が私に一体何を仰せられるというのか。ああ、でも昨日は珍しく礼を言って下さったのであったな。

「次に会った時は警戒せよ、だとか、始末をしておけ、等とは仰せではありませんでしたか?」

 成程、この男は我が一族にとって敵にあたる存在であったのだったな。

「いや。…父上が私と言葉を交わされる事は滅多に無い故、誰か他の者になら命じている可能性もあるが。」

 そう返してやると、相手の視線が私の顔をじっとみつめた。静寂をやぶって掛けられたのは、お淋しいのですか、と小さな一言。

 淋しい…?それは、何だ…?
 この私が、孤独に耐えかねているようにでも見えるというのだろうか。ずっと、与えられる筈の無い物など、とうに諦めた筈であるのに。

 不意に、ふわりと抱き込まれる。

 従者を除けば、他人にこれ程までに側に寄られたのはこの男が初めてだ。昨日も唇にまで触れられても少しも不快感を覚えなかった。それに…何だかとても、温かい…。

「…不思議ですね、貴方に触れた途端に、先程までこの身を刺す様だった結界の力が消えましたよ。」

 そんな事を言われて、ああ、父の張った結界はこの身が触れた物には効かぬのか、とぼんやりと悟った。
 私の背を抱きこんだ温かい腕は、未だ離れる事無く身体を支えている。

「…貴方の、名は…?」

 相手に問い掛けた自分の声が、酷く掠れて聞こえた。



 暫しの間、そのままの状態でいて。このまま空中で語らうのもなんだ、と思い建物の方を見やった時。

 視界に映ったのは、意外にも己が父の姿。昨夜おいでになったから…今宵はもうおいでにはならないかと思っていたけれど。

 それにしても、どうしてこんな時にだけそんなに真っ直ぐに此方を御覧になるのか。そして、何故気配を隠しておいでになられた…?







 瞬きすらも出来ずに上空を見上げる。
 重なったまま随分と長い事動かない影。

 殺、お前はその男に心を惹かれたのだろうか。愛しいと、感じたのだろうか。

 と、不意に己と同じ金色の瞳が此方を見つめた。途端にそれが僅かに見開かれる。
 驚愕の、表情。そしてそれは、未だ此方に気付いていない陵峨の腕の中で。



 殺生丸の腕にゆっくりと力がこもり、柔らかく彼自身を抱きしめていた陵峨との間に距離が出来る。結界が再び反応したのか、一瞬身体を強張らせた陵峨に、殺の手が躊躇いがちに再度触れて。その苦痛を消してやっているのだ、と容易に分かる。

「降りて参れ。」

 いつまでもこうして対峙する気分にもなれず、声を張って空中の二人に呼び掛けた。それに応じて、片手を陵峨に触れたままふわりと舞い降りてくる己が息子。

「…手を離してももう結界が陵峨に反応する事は無い。此処はもう、そなたの宮の建物の中ゆえな。」

 静かにそう教えてやれば、ゆっくりと殺がその手を離して膝を付いた。そのまま深く、礼を取られる。
 …昨日と、同じだ。殺が私に対して取るのは、臣下としての礼。
 その場に呆然とした雰囲気で立っていた陵峨の方も、はっとして私の前に膝を折る。

「…答えよ、陵峨。…そなた、我が長子にならば従うと申すのか。」

 声が、冷えていく。
 元々陵峨は、私が治める数々の種族の中でも、、最も御し辛い一族の頭であった。穏やかで冷静な性格と、意に染まぬ者には例え力で適わずとも、決して従わぬ強靭さ。私の統治に、随分と不満を持っているようで、それは取りも直さず自分の代に彼の一族が我が一族の傘下に組み入れられたからかも知れないが。
 よりによって彼が殺生丸にこれ程までに関わって来るとは思いもしなかった。

 …殺の方も…いくらか陵峨に好意を持っているように見える。
 冷静に分析する自分が、随分と空しかった。
 殺よ、私は陵峨に随分と嫉妬心を感じているようだ。…お前が私に向ける感情が、陵峨に対するそれであればどんなにいいだろう、と。互いに無意識の内に手を取り合い、優しく抱きしめられる関係であったなら、と。

 不意に陵峨が頭を下げたまま、ゆっくりと口を開く。

「私は貴方にも良く仕えたつもりでおりますが、…そうですね、殺生丸殿には…全てを捧げても惜しくは無いと思わせる何かが有るかと存じます。」

 ふ、随分と殊勝で、かつ自信に満ちた台詞よな。…殺から好意を向けられている、というそんな自信が。



―――手に入らぬのならばいっそ、手放してしまおうか。お前の心が私ではなく他の者に向けられて、もう決して戻ることがないのだとすれば。



 そんな暗い情念がふっと頭の片隅を過ぎる。次の瞬間には、自分でも驚くような台詞が唇から零れていた。

「それでは陵峨の一族はお前が治めよ、殺。…この男は館にお前の居室くらい、喜んで用意をするだろう。」






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