雪月華 * 四の巻
気が付いたときは、身体を清めて柔らかな褥に身を横たえられていて。昨晩は常に無いほどに優しく、何度も父に抱かれた事を思い出す。
今更ながらに気付いてみれば、あの場所は屋敷の外で。気を失った自分を父上が運んで下されたのか、と頭の片隅で思った。
「お気が付かれましたか、殺生丸様。」
傍らから心配そうに覗き込む邪見と目が合う。
「夜のうちにいつの間にかお戻りになって、朝になって殺生丸様のお部屋から出て来られた大殿が、ゆっくり休ませてやってくれ、などと仰るのでこの邪見、心配致しましたぞ。」
ああ、父上は本殿に戻られたのか、と。ぼんやりと悟った。
今迄だって、父上が朝までこの離れにおいでになった事など無いけれど。今朝はどうしてまだいらっしゃるかも知れない、などと思ったのだろう。
「別に身体に異常は無い、もう起きる。」
傍らの従者にそう告げると、邪見はははあ、と平伏してから主の室を出て行った。
「殺生丸様、結界が反応しておりますぞ。」
ぼんやりと朝を過ごして、太陽が南から西へと移り始めた頃。邪見があたふたと駆け込んで来て告げる。
この宮の周りには父のかけた結界が張ってあるが、これまで自らそれに触れた者などいなかった。父以外の者が、この宮に訪れようとしているという事か。
私に敵意を持っての事か、それとも単なる好奇心か。何となく興を惹かれて立ち上がる。
「下がっていろ、邪見。…私が出る。」
言い捨てて、空中へと飛ぶ。
この宮への出入りは、専ら空を経由する事が多かった。父の住まう本殿から、隠し橋が有るには有るが、母が死んで以来、いやそれよりもっと前からついぞそれが使われた事は無い。
結界が反応を示す場所へと移動すると、静かな筈の水面にばしゃばしゃと跳ねる水飛沫。見え隠れする白い髪は見覚えのあるものであった。
そう、昨日も顔を合わす羽目になった半妖の弟の…。
「何をしている。」
足音を立てないように部屋に戻っても、兄を抱きかかえた父の姿が脳裏から消えなかった。朝が来て、いつもと同じ日常が流れて行って。
昼間、一人で遊んでいる間に、自然と足が昨日の小道へと向く。道を辿れば現れる、周りを水に閉ざされた離宮。
父のように、飛空術を用いてあの場所に行き着く事は出来ない。
橋も、舟の代わりになる物さえ何も無いとするならば。…あのぐらいの距離…泳いで渡れない事も無いだろう。
足を踏み入れた湖水は、酷く澄んでいて、同時に昼間なのに凍りつくように冷たく足を刺した。ばしゃばしゃと、水を跳ね上げて泳ぎ始める。
こんな場面を父上や母上に見られたら、きっと物凄く叱られるだろうな、と頭の片隅で思った。今はそんな事より、今まで会う事のなかった兄に会いたい気持ちが勝っていたが。
岸から見るより、意外と遠い。もう随分と泳いだ様な気がするのに、未だ半分程しか来れていないようだ。
(…やばいかな…)
手足が随分と冷えて来ている。完全な妖怪でない自分には、少々危険な状態なのかも知れない。
岸に戻るかどうするか、と迷い始めた時。何の感情も浮かべぬ声が中空から降って来た。
「何をしている。」
この声…兄上…?
見上げようとした瞬間に、水中で均衡を崩して溺れかける。と、意外な強さで腕を掴まれた。
…また、助けてくれた…?
「何の用があってこの様な場所で水遊びをしているのか知らぬが…ここで足掻いていても永遠に何処にも着けぬぞ。」
無機質な声ではあったけれど。
「答えろ。何のために、ここにいる。」
未だ凍るような湖水の中に身を置きながら、兄上に掴み上げられた手首だけが熱かった。
「…兄上の住んでる場所に行きたくて…」
小さくそう呟くと、整った美しい眉がすっと顰められた。
「…何…?我が宮へ来たいのならば、父上にでも頼めば良かろう?」
兄上は、こうやって俺が訪ねて行く事を喜んではくれないのかな…。
そんな事を思った瞬間、身に突き刺さる寒さが増した様な気がした。知らず、ぶるりと身体が震える。
「寒いのか。」
そう、呟いた兄が片腕に自分を抱え上げて空中へと飛んで。瞬時にその寒さが温かさに代わった。
こんなに空高く飛んだのは、初めてかも知れない。父上は、いつも自分を連れて行く時は地上を移動するから。
「…皆に黙って出て来たのだろう。」
溜め息のようなものを一つつくと、兄は黙って自分の宮の方角へと身体を向けた。
…連れて行って、くれるのか…?
「湯殿と着替えは用意してやろう、身形を整えたらあるべき場所へ戻れ。」
相変わらずの声音で次の瞬間には釘を刺されたけれど。
連れて行かれた水上の建物は、凝った作りの、どこか香気漂う場所であった。
回廊の向こう側から小さな影が姿を現す。
「殺生丸様…ってお前は犬夜叉!?半妖のお前が何故此処にいるのじゃ!!」
未だ兄の腕に抱えられたままの俺を見て、緑色の小妖怪が目を大きく見開いて叫ぶ。
半妖…か。父上の配下にも俺のことをそう馬鹿にする輩が多くてもういい加減慣れたけれど。それでもこの兄の宮でそんな言葉を聞きたくはなかった、と思う。
兄上は…俺のことをどう思っているのだろう。やはり半妖の弟など一族の名折れだと思っているのかな…。
「邪見。黙って湯殿と着替えの用意をしてこれの身支度を整えろ。…びしょ濡れで本殿に帰すわけにはいかぬ。」
ぴしりと打つ様な命令を下す兄に、邪見と呼ばれた小妖怪は、は、只今、と早足で回廊を下がって行く。それを見送って無言のまま自らも歩みを踏み出した兄の背を慌てて追った。
兄が足を止めたのは、大きな木造の扉の前。目で促されて、その扉を押し開く。温かそうな湯気が立ち込めるその場所に足を踏み入れ、礼を言おうと振り返った時には兄はもうその場にはいなかった。
この宮はどうやら対岸から眺めるよりも数倍の広さがあるらしい。湯殿だけでもこんなに広いのだから。
ほっとした気分になったからか、急激に眠気が襲ってくる。ここでこのまま眠ったら、今度こそ兄上に呆れられてしまうだろうか…朦朧とした意識の中でそんな事が頭を過ぎった。
「犬夜叉め、出て来るのが遅いですな。」
先程からそんな事を言う邪見に、視線で様子を見て来る様命じる。
仮にも妖の血が流れているのだ、多少湯に当たった位ではどうという事も無かろうが。
程なくして邪見がぶつぶつと呟くのが聞こえてきた。
「全く、人の住まいで湯殿まで借りておきながら、その中で眠りこけるとは。図々しいのにも程があるわい。これ、起きろっ、殺生丸様にご迷惑がかかるじゃろうが!!」
どうやらそれでも半妖の弟は起きないらしく、邪見の声が更に大きくなる。
「もうよい、邪見。…空いた座敷で暫く寝かせてやれ。結界の水に長い事浸かっていたゆえ、身体に影響が出ているのだろう。」
後ろからそう命じると、邪見はへえ、と頷いた。
邪見を下がらせて、眠り込んだままの弟の顔をじっと見つめる。
寝巻き代わりにと着せた襦袢は、弟には随分と大きすぎた。休んでいる間に、先程まで着ていた水浸しの衣も乾くだろう。
それにしてもこの弟は先程私を”兄上”と呼んだ。昨晩は私の名さえも知らなかった筈なのに。
…父上が、教えたのだろうか。
こんな些細な事からも父の意図を知りたいと願う自分が酷く可笑しかった。
一、二刻程も経った頃だろうか。何とはなしに見守っていた視界の中で、半妖の弟がぱたりと寝返りを打ちざまにぼんやりと目を開けた。
「あ…」
未だ夢の中を彷徨っているかのような瞳で此方を見つめる視線から、そっと目を逸らす。
「…気が付いたのなら、早く仕度をして本殿に戻れ。」
言葉少なに命じると、弟の表情が残念そうに曇った。それでも、流石にもう少し此処に置いてくれとは言い難いらしく、乾かしてきちんと形を整えられた元々着ていた衣装へと手を伸ばしている。
「あの…休ませてくれてありがとう。兄上の服…だよね、これ…?」
小さな声がその口から漏れた。
確かに、弟の夜着にと貸した服は、己が時たま身に纏う服ではあるけれど、それがどうしたというのであろう。
「…いい匂いがしたから…。」
無邪気に見上げてくる瞳に、香が焚いてあるだけだ、と返す自分の声が我ながら酷く素っ気無く響いた。
粗方仕度の出来た弟を隠れ橋の場所まで連れて行ってやる。行きと同じ様に腕に抱えて帰す事も出来たけれど、その様な所を家臣の妖怪にでも見られたら錆落としが面倒だ。
それにしてもこの橋を最後に使ったのはもう随分と前になる。
…未だ母が存命であった頃の事か…。普段は空を移動した方が気楽であったゆえ、この橋を使うことは無かった。
眼下に広がる水面。
脇に置いてある精巧な作りの竜の置物の頭に手を触れれば、ざざあっと音がしてその水の中から古い浮き橋が現れる。
「…こんな橋が、あったんだ…。」
目の前の出来事に呆然と呟く弟を、視線で促す。ゆっくりと歩みを進めた相手が、橋に足を掛ける寸前で振り返った。
「また…会える…?」
幼い瞳でそんな事を問い掛けられて。まさかもうこの場所には来ぬ方がいい、とは言えなかった。
「さあな、機会があればあるいは。」
それだけを告げて、自室へと踵を返す。後ろからずっと視線を向けられている事には気付いていたが、敢えてそれを無視して。
やがて浮橋を歩み出す音が聞こえたので、足を止めて静かに見送る。犬夜叉の姿が湖の向こうへと消えると、橋は又音を立ててその全貌を隠していった。
知らなかったな、あんな橋があったなんて。渡り終えた途端に跡形も無く存在を消してしまった。
兄は対岸で何かの置物に触れて橋を開いていたけれど…ならばこちら側にもそれに準ずるものが有るのだろうか。
きょろきょろと、辺りを見渡す。
「探しても無駄だぜ、半妖の若君よ。」
不意に背後から聞こえて来た下種な声。ああ、そうか、この場所は本殿の何処かだ、当然俺を良く思わない妖怪達が沢山いるんだ。
「…何か用かよ。」
「何であっち側から渡って来たかは知らねえがな、この橋が開かれるのは大将がお渡りになる時だけだ。尤も最近は大将もこっちの道は使わねえからな、便乗して、っていうのも無理だぜ。」
それにしてもこの妖怪は何故その様な事を知っているのだろう。それとも知らなかったのは俺だけ…なのかな。
「さあ、半妖は人間の母君の所へ帰った、帰った。こうして切なく対岸を眺めるには半妖じゃ吊りあわねえ。」
随分と不躾な言い様だ。
あの兄ならこういう輩はどう扱うのだろうか。きっと相手にもせずに過ぎるのではないかと思う。ああ、でも兄上は完全な妖怪だから、こいつらも黙って頭を下げて従うのか。
何か言い返してやりたいとも思ったが、何だかそんな気分でもなくなってしまった。無視して帰ろうとすると、後ろから声が追って来た。
「近付かねえ方がいいぜ、殺生丸様は俺らにとっても高嶺の花なんだからよ。半妖などに見向かれるわけがねえ。」
そしていつの間に来ていたのか、その妖怪の仲間達が下卑た笑い声を上げた。
「うるせえっ!!兄上に気に掛けて貰えずに足掻いてるのはお前らだろっ!!」
振り向きざまそう言い捨てて、足を踏み出した瞬間。何か大きなものにぶつかった。
「犬夜叉か…お前達も、この様な場所で何をしている。」
頭上から降ってきた声は紛れも無く父である大妖怪のもので。いつも優しく母と自分に語り掛けてくれるその声音が、今は幾分冷たい色を含んでいる。
「何でもねえです、大将。もう少し暗くなったら夕涼みにでもしゃれ込もうかと思ってただけで。」
抜け抜けと言い逃れる妖怪達。話を合わせておけば、離れに行っていた事を父上に知られずに済むかも知れないけれど。
何か答えなければ、と焦るのと、父の第二声が響いたのが同時だった。
「去れ。此処はそのような事に使う場所ではない。」
もしかしたら父は妖怪達の嘘に気付いていたのかも知れなかった。
一礼してすごすごと去って行く妖怪達。その姿が見えなくなると、父の瞳がひたと俺を見つめる。
「殺に、会ったな。」
いきなり核心に迫られて、こくりと頷かない訳には行かない。
「父が気付かぬとでも思ったか?離れの周りの結界は私が張ったものだ。水の結界も、大気の結界もな。」
ああ、そうか、俺が湖に入った時点で父上には気付かれていたということか。
「又どこぞの不調法者が離れに行きたくて足掻いているのだ、と思っていたが、不意に結界が解かれたのでな。ああ、殺が一時的に解いたのか、と知った。」
静かに語る父の声は、低く、重い。
「あのまま足掻いていたなら、お前の命は無かったかも知れぬ。水に懸けてあるのは、そういう呪であったゆえな。」
恐ろしい事をさらりと口にする父は、まるで初めて会う者であるかのように瞳に映った。
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