novels index




雪月華 * 参の巻





 殺…そこに、いるのか。
 先程騒動があったであろう、その場所に。

 何故、あの時私が着く前にあの場を去り。
 そして館にも、帰らなかった…?

 意識を集中すれば、殺生丸の他に、もう一つ別の気配がある。
 それなりに大きな妖気。だが、闘気が感じない。一体誰であろうと思いながら、移動速度を速めた。



 気配を辿って着いたのは、先程来たすすき野原。月光を浴びて銀色に輝く風景が酷く幻想的である。
 視線の先には、佇む二つの人影が意外な近さで揃ってこちらを見つめていた。
 求めた相手と…今一人は、昼間会談した相手、陵峨。

 殺生丸の琥珀の瞳が、真っ直ぐに此方を射抜く。
 ああ、こんなに意思の強い色を浮かべていたのだな…目を伏せておらぬそなたの顔を久し振りに見た様な気がする。

「何をしている…?」

 取り敢えず発した問いは幾分間が抜けた物にも聞こえて。

「お話させて頂いていただけですよ、大将。ご子息には…初めてお目に掛かった。美しい御子ですな。」

 返事を返したのは陵峨の方。

「話をしていただけ、とな。昼間、我らを陥れようと謀った一族の首領が何の話をしていたと申すのだ。」

 何故だか神経を逆撫でされて、鋭い口調になる。

「昼間の話を。」

 対する陵峨の落ち着き払った様子は、酷く不愉快に感じられた。

「犬夜叉の次は…殺を捕らえて私の弱みを握ろうとでも思ったか?」

 吐き捨て様、大剣を引き抜く。
 元より裏切り者を生かしておく謂われはない。陵峨もそれなりに強い、恐らくは暫く打ち合いが続くだろうが、程なく決着が着くだろう。
 そう、思いも掛けない何かが起こらなければ。

「御待ち下さい、父上。」

 細い、だが鋭い声が夜気を切り裂いた。続いてまるで自分から陵峨の人質になるかのように、殺生丸がその身を以て背後に陵峨を庇う。
 この息子がまともに自分に意見して来た事など、初めてではなかったか。

「そやつは裏切り者ぞ。何故庇う、殺。それともそなたも、そやつに毒されたか。」

 思ってもみない酷い台詞を吐いてしまう自分が呪わしくてならない。
 対する殺生丸の肩がびくりと震えた。それでも、琥珀色の目線が逸らされる事は無く。

「…その様なつもりはございませぬが、父上がそう思われるならば否定は致しませぬ。刃向かった理由も聞かずに討つと仰るのはあまりにも、と思うた故庇いましたが…御気に障ったならば、私も共に成敗なされば良い。」

 …出来るわけが、無いだろう。お前を手に掛けるなど。
 ゆっくりと、抜いた剣を腰へ戻す。

「…殺に免じて、今宵は水に流そう。また後日、話を聞いてやる。今は去れ。…私が此処へ来たは、貴様と話す為ではない。」

 殺生丸の琥珀の瞳が、ふっと和らいだような気がした。

「それでは、お言葉に甘えて失礼を。」

 膝を折った陵峨が、立ち上がる前に目の前にあった殺生丸の手を押戴き、其処に口付けを落とした。心からの、忠誠を誓う口付け。…殺生丸は驚いたように手を戻したが。

 そうして、後ろを振り返る事無く陵峨が戻って行った後。暫くじっと自分の片手を見つめて物思いに耽っていた殺生丸が、思い出したように此方を認めて跪いた。

「…身分をわきまえぬ事を申し上げました。私も、これにて失礼を致します。」

 息子だとは思えぬ程に丁寧な言葉遣い。向けられる、最高の敬意。
 そのまま深く頭を下げて去ろうとする殺生丸の腕を慌てて掴んで止める。

 いつの頃からか捩れてしまった糸を、今、解かなければ。きっと一生、解けないような気がしたから。







 何故、あんな事をしたのか、分からない。つい先程出会った敵の首領を庇って、父上に意見するなど。

 父を真正面から見詰めて、足が震えだしそうになるのを必死で堪えた。だから、父が自分の言葉を容れてくれた時は、本当に嬉しくて。
 その直後に、背後に庇っていた敵の首領から手の甲に口付けを受けて面食らってしまった。一瞬とはいえぼうっとしてしまった自分を叱咤するように父に礼を取り、この場を去ろうとする。

 …と。不意に片腕を掴まれ、引き寄せられて。

「…私はお前に会いに此処に来たのだ、殺。」

 耳に注ぎ込まれた台詞は、信じられぬもので。期待してはいけない、と分かっているのに胸が震えた。

「…礼を言おうと、思った。お前の御蔭で犬夜叉は無事に戻った故。」

 ああ、そうか。弟の身をこれ程までに心配なさっておいでだったのだ。わざわざ私の許まで礼を言いに来て下さる程に。
 それでも、初めて聞いた父の感謝の言葉が嬉しくてならなくて。

「お言葉嬉しく思います。…されど、家臣である私に礼を申される必要はございません、御仕えする者として当然の事を致したまで。」

 そう静かに頭を下げる私を、父の力強い腕がそっと抱きすくめる。

「…殺…」

 掠れたような声でそう呼ばれて、ゆっくりと顔を上げると、深い色の瞳がじっと此方を見つめていた。

「…殺…」

 何度も何度も、ただ名を呼ばれて、父の腕に身を任せる。
 普段のように屋敷の褥の中ではなく、このような戸外の、しかも領界に近い場所で求められるとは思っていなかったけれど。名を呼ぶことで、何かを伝えたいと望んでおいでだったのかも知れない。

 組み敷かれた体勢のまま、頬を撫でる薄と空に輝く満月に、嘲笑われている様な気がした。







 引き寄せた殺生丸の背に、無言のまま腕を回す。

「…私はお前に会いに此処に来たのだ、殺。」

 耳許に囁くと、殺生丸の肩が一瞬びくりと揺れる。
 そう、お前に逢いたくて、気配を追ったら導かれた地がこの場所であったのだ。
 今こそこの息子との間に出来上がってしまった目に見えない溝を埋めようと思うのに、いざ目の前にすると、気の効いた言葉が浮かばない。

「…礼を言おうと、思った。お前の御蔭で犬夜叉は無事に戻った故。」

 せめて、感謝の気持ちだけでも伝えられたろうか。本当は、お前に贈りたいもっと沢山の感情がこの胸に帰来してやまないけれど。

「お言葉嬉しく思います。…されど、家臣である私に礼を申される必要はございません、御仕えする者として当然の事を致したまで。」

 先程も、思ったけれど。どうして父親である自分に対して、こんなにも他人行儀な礼を尽くすのだろう。
 父親であるというだけではない、半ば無理矢理に組み敷いたとしても、もう何度も肌を合わせた関係であるというのに。

 ああでも、それは私のせいか。父親らしい行動も、褥を共にする相手への睦言すら、殺に対してだけは満足に囁けなかった私の咎。
 それでもまだ、何と伝えれば良いのか、分からない。余計な事を言って、傷つけてしまうのが怖かった。

 尋ねたい事も色々とあったけれど。例えば、何故昼間此処へ来たのか、だとか。例えば、陵峨を庇ったのは、何か彼に惹かれる部分があったからなのか、だとか。

「…殺…」

 抱きしめて、何度も名を呼ぶ。
 こうして、抱きしめているだけで、自分の想いが全て相手に伝われば良いものを。それが無理なら、せめて、褥の内の行為で私の心を伝えられたら。
 せめても、と想いを込めて相手を見つめる。

 結局は気の効いた言葉も発せられずにいつもと同じ行為へと進んでしまう自らが、情けなくてならない。

 明るい月光に照らされて、扇情的な白銀の髪が乱れていく。
 否、乱しているのは私か。
 普段と変わらず、何の抵抗もなしに私の愛撫に応えて、欲望を受け入れ、ぐったりと意識を失った殺生丸に、今しか告げられぬ言葉を囁く。

『愛している、息子としても、…・想い人としても…。』

 …雰囲気に流されてこのような戸外で抱いてしまったが、いつまでもこのままこの場にいては、いくら妖怪である殺生丸でも体調を崩してしまうだろう。連れて帰って、湯でも浴びさせてやらねば。

 そう思って、手早くその体を上着で包み、抱き上げて屋敷へと帰途を急いだ。
 雲を呼び、それに乗る。殺生丸を住まわせている離れ―――水の宮が遠目に見えて来るのに、さして時間は掛からなかった。







「母上、兄上を知ってる?」

 父に連れられて屋敷へ帰還し、先刻の興奮のままに母親に尋ねてみれば、そのいつもは優しい笑みを浮かべる顔が僅かに曇った。

「いらっしゃることは知っているけれど…誰から聞いたの、犬夜叉。」

 声が、心なしか硬い。

「父上から!…父上も初めは教えてくれなかったけど、俺今日会ったんだよ、兄上に。」

 構わずそう答える俺に、母上はやはり硬い表情のままで”そう”と頷く。

「綺麗だったなあ、俺の兄上。…凄く無口だけどな。助けて貰ったんだ、敵に襲われた時に!!」

 嬉しそうに離す俺に、母上が漸く柔らかく笑ってくれた。

「そう。父上がいつまでたっても紹介して下さらないから、行き交う者達の噂話でしか聞く機会がなかったけれど…良い方なのですね。…いつか母も御目に掛かりたいわ。ああ、父上もそなたと一緒にお戻りになったの?」

「うんっ。…多分今頃は兄上の所にいらっしゃる…のかなあ…?兄上、何処に住んでるんだろう、同じ屋敷にいるんだよね?父上、いずれ会わせてやるって言うだけで教えてくれなかったんだ。」

 母上はそう零す俺に、困ったように微笑んで。

「多分、離れにいらっしゃるのではないかと思うけれど。あそこは、普段は入れない場所のようだから、お前も勝手に会いに行っては駄目よ。」

 優しく一言、釘を刺した。
 それでも、芽生えてしまった好奇心が納められる訳でもなく。

(離れ…かぁ。)

 夜が更けて、人の影が引けたらこっそり行ってみよう、と俺は決意を新たにしていた。



母上の言う、”離れ”を探して屋敷中を見て回る。人気の無い真夜中は、探索には又とない時刻であった。
 今迄来たことの無い、奥まった場所から、一筋の道が、伸びている。俺の勘が、この先に求める物があると告げていた。
 自然、足が早まっていく。

 道の先が、開けて。思わず俺は呆然とした。
 現れたのは、澄んだ大きな湖。その中に絶海の孤島のように存在する浮島に、本殿ほどではないけれども、随分と大きな建物が建てられていた。
 あそこに行くには、と橋や舟を探して、何一つ無い事に気付く。
 きっと何か、仕掛けがあるのであろう。普段は入れない、と母上も言っていた。

 今度は、必ず。あの浮島へ達する方法を見つけて見せよう、と心に決めて自室へと戻り始めた時。空から雲が近付いてきて、昼間出会った兄を腕に抱えた父がその絶海の孤島へと降りて行くのが見えた。

 飛空術。
 半妖である自分には、使えぬ術だ。
 それを以てしなければあの場所には立ち入れぬ、という事なのか。

 それにしても、こんな時刻まで、父上は何をしていたのだろう。そして、あの見事な戦いぶりを見せた兄は、何故今ああもぐったりとしていたのだろう。





Back || Index || Next
template : A Moveable Feast