雪月華 * 弐の巻
「戦いになったのか…」
無事だったか、と磊落に笑った父の眉が、草の上に転がる幾体もの狼の死骸を見て顰められた。
「ううん、俺が戦ったんじゃなくて…助けて貰ったんだけど…」
「…危ない目に合わせて悪かったな。誰に助けられたか、覚えているか?」
父に、告げるべきだろうか。
あの時、戦いの中で静かに告げられた彼の名を。
父に話せば、あるいは彼が誰なのか分かるかも知れない。
「殺生丸、って言ってた。」
その瞬間、父親の目が驚愕に見開かれる。
「殺、が…?」
辺りに残る戦いの痕を、父親の目が見回す。
広がる沈黙が重かった。
「ねえ、父上。殺生丸って…誰なの…?父上の知り合い…?」
声を掛けても、父は何かを暫く考え込んでいるようで、その後ゆっくりと発せられた言葉は、驚愕の真実であった。
「殺生丸は…お前の異母兄だ。」
止まってしまったかのような時間が、帰ろう、という父の声で動き出す。
兄上…だったのか。だから彼は自分の事を知っている、と言ったのだ。
でもそれならどうして今迄父は教えてくれなかったのだろう。
そして、恐らくは同じ屋敷に住んでいた筈だったのに、何故会うことすらも無かったのだろう。
会合にのぞんでいた相手の種族の様子に俄かに不穏なものが混じったので、適当に席を締めて戸口で別れた半妖の息子の気配を探す。
何事も無く無事であれと願うが…あそこで別れるとは、自分の注意が足らなかった。いやむしろ、相手を見る目が無かったというべきか。
匂いは森の方へと続いていた。鼻につく、大勢の狼の匂いが通った痕跡がある。
足を早めて近付いて行くと、森が開けて野原になっていた。揺れるススキの中に、息子の銀色の髪が揺れている。
「無事だったか。」
そう声を掛けてから、空気に混じる血の匂いに眉を顰めた。
戦いの、痕…。やはり襲われたのか。
宴席の途中で武装のままこそこそと入って来て、相手の首領に耳打ちして去って行った兵士を見て怪しいとは思っていたが。
それにしても、見事な太刀筋だ。とても一介の子供のものとは思えない。
聞けば、誰ぞに助けられたのだという。
「殺生丸、って言ってた…」
息子を救って貰ったのなら礼をせねばならぬ、と思い、誰に助けられたのかと尋ねれば、返って来たのは意外な返事であった。
殺生丸。
政略結婚の末に凝り固まる確執で一族を抜け、そして死んで行った先妻の遺子だ。
その母親の元に足が遠のいていた事もあって、犬夜叉にしたように幼い頃に父親らしい行為をしてやった記憶など殆ど無い。
母親が死んでからは、其処まで追い詰めてしまったという負い目から、滅多に顔を合わす事も無かった。
母が死んだのだと告げた時も、黙って頷く息子に掛ける言葉が思い浮かばず、逃げる様にその場を後にしたものだ。
時折、殺生丸の住まう離れへ続く回廊にその姿を見て、日々美しく成長して行く姿に目を奪われて。
不思議な感情がこの胸を帰来するのを感じた。
そうして宴席の酒に酔ったある晩、数年ぶりに突然息子の室を訪ね、美しい容貌に驚いた表情を浮かべる彼を組み伏して我が物にした。
父である私に歯向かう事も無く、恨み言の一言も言わず、殺生丸はただただ私を受け入れて。
それから時折彼を抱いた。
毎晩ではなかったけれど、大抵は酷く泥酔した夜や、何か思い悩む事があった夜など。そんな夜には、人間である犬夜叉の母の処でも、その他のいくつかの通い処でもなく、殺生丸の室で過ごした。
どんなに手荒な抱き方をしても、彼はきゅっときつく眉を寄せるだけで、静かに、美しく乱れて行く。
会話が生じる事は無かった。ただ互いの名を、時折呼ぶだけで。
いつの頃からか、何も語らぬ殺生丸の瞳が、夜の僅かな灯りの下で、もの言いた気に自分を見つめて来るのに気付いたけれど。
愛しい、と、はっきり今はその感情の名が分かる。
それでも今更、そんな事を告げられるだろうか、ずっと擦れ違い続けてきた我が子に。単なる息子としてではなく、お前が何より大切だと。
いつの間にか、こんなにも見事な太刀筋を誇るようになっていたなど、知らなかった。かつて、従者を介して一振りの刀を与えた事があったけれど。
「ねえ、父上。殺生丸って…誰なの…?父上の知り合い…?」
無邪気に尋ねる二人目の息子の声に我に返った。
ああ、そうか。
私はこの子にさえ殺生丸の存在を告げる事無く来てしまったのだ。
彼は、私の中では、ある意味で聖域なのかもしれない。容易には触れられない、そうして誰にも侵されたくない、そんな存在なのかも知れなかった。
いつまでも黙っている訳にも行くまいから、真実を話してやる。
凍りついたように瞳を見開いた息子を促して帰途につく心は、酷く複雑であった。
* * *
「兄上、どこにいるの?…同じ屋敷に、居るんでしょ?」
犬夜叉に尋ねられて、ああ、と曖昧な返事をする。
兄に会いたがっているのであろう、とその心は容易に推測がつくが、今この時に犬夜叉を連れて殺生丸の元へ出向くには、心の準備が出来ていなかった。
「いずれ会わせてやろう。今日はもう、母上に無事に戻ったとご挨拶しておいで。」
我ながら下手な誤魔化し方だな、と思ったが、犬夜叉は素直に自室へと戻って行った。
一つ大きく息をつき、ゆっくりと離れへ向かう。
私があの場に着いた時、既に殺がいなかったという事は、もう屋敷に戻っている可能性が強いだろう。
入るぞ、と声を掛けて静かに襖を開けると、其処には求めた姿は無く、変わりにかつて従者にと付けた小妖怪が居眠りをしながら番をしていた。
二、三秒遅れて気が付いて、大殿っ、と平伏される。
「殺は、居らぬか。」
「は、はあ…殺生丸様におかれましては、昼間どこぞにお出掛けになリ、未だお戻りではないかと…。ちなみに供は良いと仰せになられたので私はこうして手持ち無沙汰にこうして御留守を守っている訳でして…。」
慌てたように応える相手に、そうか、と頷いて踵を返す。
戻って、居らぬのか…諦める、という選択肢も無いわけではなかったが、何故だか今宵は探してみよう、という気が勝った。
供も連れずに表に出ると、外はもう闇が広がり始めている。
我らが一族の優れた嗅覚をもってしてもそのままでは殺生丸の匂いは掴めなかったので、適当に当たりをつけて、夕刻帰って来た方向を逆に辿った。
余計な事を、してしまったかも知れないと思う。
私が表立って動くことをあまり父上が喜ばれないとしたならば、本当に、余計な事を。
匂いで、父上はとうの昔に勘付かれただろうけれど。そのままあの場に留まる勇気さえ出ずに、まるで逃げる様に場を去ってしまった。
こんな自分は、嫌いだ。
きっと父上も、こういう所が不甲斐無いと思っておいでなのだろう。
空気に残る血の匂いで、自分が先程の場所に戻ってきた事を知った。
ああ、争いの結果斬り捨てた者達をあのまま放置しておくのは良くない、と思ったのであったか。向こうの種族の者の目に留まれば、いらぬ諍いを招く事になる。
せめて手厚く、葬ってやらねば。
取り敢えず死体を昇華させ、最後に匂いを消すかのように、白い木の花を一枝折り取って来て供える。
降り注ぐ月の光に、少しだけこの場が浄化されたような気がした。
ざあっと吹く強い風と共に、来訪者のある事を知る。会うた事は、無い気配。
ゆっくりと振り向くと落ち着いた雰囲気の壮年の男が佇んでいた。
自らの父ほどではないが、それでも随分と強い妖怪ではあるのだろう。
「夕刻、我らが一族の者を還したのは貴方か。」
還した…?
問われた意味が分からずに黙っていると、対峙する相手が少し微笑った。
「襲ってきた者全てを皆殺しにする事とて出来ただろう、貴方は。それを彼らの言い分を聞き、あまつさえ犬の大将がおいでになる前に逃がされた。」
…ああ…ではこの男が敵の首領か、もしくはそれに次ぐ者なのか。
沈黙を肯定と受け取ったのか、相手はこちらへと一歩寄った。
「部下から御名を伺った。初め誰なのか分からなかったが、そう言えば遠い昔に一度だけ聞き覚えがある。…貴方は、犬の大将の御世継ぎか?」
世継ぎ、か。
そう思ってはおられまい、少なくとも、父上は。
「…いや…今日はたまたま通り掛かっただけだ。」
素っ気無くそう告げると、相手は更に近くに寄った。
「私は別に貴方に害意を持ちはしない、例え貴方が肯定なさった所で。”殺生丸”…昔犬の大将に出来た一人目の御子がそういう名であった筈…。もう充分成長なさった頃なのに、これまで一度も姿をお見せにならないから不思議に思っていた。…私の推測は、間違っておりますか?」
唇から思わず溜め息が漏れた。
「あながち間違ってはいない。確かに私は父上の血を受け継いだ、だが嗣子ではない…。」
一息おいて言葉を続ける。
「だからもし貴方が眷属を手に掛けた私を成敗しても、さして我が一族は困らぬ。貴方の気が晴れるならばそれも良いだろうが。」
相手は少しだけ息を呑んだ。
遠慮がちに、相手の指が私の頬に触れる。大して不快にも感じなかったのでそのままにしておけば、ゆっくりと撫でられて。
一瞬、ああ、犬夜叉が父上にされるのと似ているな、と想いを馳せた自分が可笑しかった。
「先程も申し上げたとおり、貴方に害意は持たない。…もし貴方が一族の中で辛い思いをなされておいでならば、我が一族の元で暮らされる事も歓迎しよう。」
続けられる言葉に、苦笑が浮かんだ。
ああ、やはりな。私には犬夜叉が、普通なら子供が父親から受けるような愛情を受ける機会は無いようだ。
「例え、何があったとしても。…私は一族を裏切る事はせぬ。」
そう返した自分の言葉は酷く冷めた音をしていた。それでも、この男に何故だか嫌な感じを受けないのが不思議だ。
「…分かっておりますよ、貴方は本当の覇者たる気品をお持ちだ。世継ぎであられないというならば、残念でならない。貴方のような方にならば、喜んで従うのに。」
そんな言葉と共に、唇に柔らかいものが触れた。
蘇る、夜の記憶。
いつも父上に与えられるものとは又違う感触がした。
「お避けにならないのですか?」
不思議そうに尋ねてくる相手から、そっと身を離す。
「別に、何でもないことだ。私は、女子ではないし…そちらも単なる戯れのつもりであろう。」
そう告げた時、覚えのある妖気がこちらへ向かって来るのを感じた。
…父上…?
何か、意図があってこの場に向かっておられるのか。
同時に、目の前の男もその気配に気付いた様であった。
「お帰りになりますか、殺生丸殿。」
尋ねられて、いや、と否定を返す。
父上がこの場に用があるとしても、それともこの敵の首領に用があるとしても。私がこの場にいて邪魔だと仰せになるのならば帰れば良い。
どちらみち、今自分がここに居る事は気付かれている筈なのだから。
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