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雪月華 * 壱の巻






 父上が、私を望んで下さるのは、暗い夜の閨でのみ。
 昼になれば、愛しい人間の女との間に作った半妖を愛おしそうに抱き上げ、時には未だ幼いその子供に手ずから剣を教える姿が見られた。

 父上…貴方は世継ぎとしての、完全な強き妖怪の覇者としての私などお望みではないのですね。
 貴方が望んで居られるのは、ただひたすらに従順に貴方の欲望を受け入れる、抱き人形としての私だけなのですか…?


  * * *


 強くなれば。
 そうして父上の役に立てる様になれば。
 いつかは、振り向いて貰えると信じていた。

 それでも、心の何処かでは知っていたのかもしれない。
 どんなに、武術の腕を磨いても。又学問を積んだとしても。それは、叶わぬ望みであると。

「若君もお気の毒に。折角あんなに剣の腕を磨かれても、大殿はあの半妖ばかりをお構いになる。」

 屋敷の廊を歩めば、ひそひそと耳に届く声。
 聞こえぬとでも、思っているのか…?それとも、わざとこの耳にその不愉快な音声を注ぎ込むのか。

 憐れまれるのは、御免だ。能力では上である筈の私が、初めからあの半妖よりも価値が無いと言われたような気がして。

 無視するように、中庭へと出る。この時刻ならば、誰も居るまい…要らぬ事を考えず、静かな時を過ごしたかった。

「殺生丸様あ…こちらにいらっしゃいましたか!!」

 ぱたぱたと、背後から駆け寄ってくる音。
 名を、邪見。いつの頃からか、私付きにと父が仕えさせた小妖怪である。

「なんだ。」

 言葉少なく問い掛けると、一瞬おびえたように肩を揺らす。
 別に、そんなに怯えずとも何もしないが。

「ああ、殺生丸様、大殿がお出掛けになるそうでございますよ〜。」

 こちらを見上げてくる相手の顔にちらりと目線を走らせて。

「…それが?」

 邪見は困ったように視線を彷徨わせる。

「ええと、あの〜…御供なさらないので…?」

 ふ、出来ると思うのか…?呼ばれもせなんだのに。
 私の無言を怒りととったのか、邪見が不意に地面に額をすりつける。

「も、申し訳ございませんっ、犬夜叉めが一緒に行くようでしたので、てっきり殺生丸様もご一緒なさるのかとこの邪見、勘違いを致しました。」

 もう、何度もあったことだろう…?父上はいつも私を供にはなさらない。

「せ、殺生丸様…?どちらにいらっしゃるので?」

 しわがれた声に問い掛けられて、自分が知らず飛空術で舞い上がろうとしている事を知る。無性に外の空気が吸いたかった。屋敷の中は噂話ばかりが渦巻いて、息が詰りそうだ。

「…出掛ける。」

 短く答えを放って、供はよい、と目線で制する。ふわりと空へ舞い上がって、秋のうら寂しい様な風を頬に感じた。







 夕暮れ時の、一面のすすき野原で。初めてあいつに、会ったんだ。
 繊細な銀色の髪が茜色を反射して、風になびく様が本当に綺麗で見惚れずにはいられなかった。
 こちらに向けられた瞳の色が、酷く自分と似通っていて。
 不思議に思ったのを今でも覚えている。

 俺はその日、父上に連れられて外の世界に遊びに来ていて。他の種族の首領と会合があるから、と父上が館の中に入っていった後で、退屈だったからその辺りを散策していたんだ。
 何とはなしに歩いていたら帰り道が分からなくなってしまって、それでも匂いを辿って誰かは見つけてくれるだろうと歩みを進めていた。

 不意に、視界が開けて。目の前に広がったのが、見事なまでに穂が揺れる一面のすすき野原であったのだ。

 佇む美しい人影を見つけてそのすぐ側まで寄って。それでも、相手は何の反応も返してはくれなかったから、襦袢のような形の美しく着こなされた衣装の袖をそっと掴んだ。

「なんだ。」

 短く、心なしか冷ややかに発声された言葉。
 巡らされた視線がキィンと音を立てて交わった様な気がした。

「あ、あの。此処が何処だか教えて欲しいんだけど…」

 相手の美しい眉が僅かに顰められる。
 琥珀色の瞳が何の感情も映さぬままこちらを見つめた。

「…知らぬのか。」

 白くて華奢な指先がすうっと上がる。

「自分の匂いを辿って元来た道を戻れば帰れる。」

 素っ気無く言うと、又目線が俺から離れて行く。

「…ねえ、名前、何て言うの?」

 このまま別れてしまうのが勿体無くて、糸口を模索する。
 問い掛けた相手は又こちらをじっと見つめた。

「あ、俺は犬夜叉って言うんだ。俺は半分だけ妖怪だけど、父上は西国では結構名が知れた大妖怪…」

 間が持たなくて、慌てて始めた自己紹介が、相手のもの言いたげな視線で遮られた。

「…知っている。」

 低く告げられた、言葉。
 …知って…いる…?
 その意味を問いかけようとする前に、掴んでいた袖は指の間をすり抜けていた。

「あっ、待てよっ」

 少しだけ距離を置いてまた景色の中に佇んだ相手に、何故だかそれ以上踏み込むことは出来ずに、とぼとぼと帰路についた。

 自分の匂いを辿る…か…やったことが無いし、上手く行くんだろうか。
 目を閉じて、意識を集中して。随分と長い時間が経った頃、ようやくその意味が分かってきた。それでも、他の様々な匂いに邪魔されて、そう簡単には嗅ぎ分けられずに。
 段々と匂いが特定出来たと思った頃。

「待て。」

 今迄こちらを全く無視するかのようであった相手から押し殺した制止を受けた。

「え?」

 振り返ると、つい先程までとはまた異なる雰囲気がその身を包んでいた。そう、まるで臨戦態勢でもあるかのような張りつめた空気が。

「どうか、したのか?」

 問い掛けた俺に目線を向けることも無く、その腰に差された細身の剣がすらりと抜かれる。







 足を向ける場所はいくらでもあった筈なのに、自分が何故此処に来てしまったのか、分からない。
 よりによって、父が犬夜叉を伴って訪れた多種族の領域との境界へ。

 風に乗ってくる匂いが、父と、そして弟である半妖との居場所を教えてくれた。
 別に私がここにいる事に気付かれると不味い、という訳ではないが、わざわざ顔を合わすつもりもなく、少し離れた野に足を下ろす。

 一面に広がる風景に、心を空洞にしたままただ見入って。

 どのくらい経った頃か、此方へと近付いてくる気配を感じた。まだ一度もまともに顔を合わせた事の無い、弟の気配が。

 森から野に向かう小道の出口で、もの言いた気に此方を見ている。黙って放っておくと、今度はすぐ側まで寄って来て袖を掴まれた。

「なんだ。」

 …どうしてわざわざ自分の側に近付いて来るのか、分からなかった。
 黙って帰れば良かろうに…お前と私に接点など無いのだから。ただ、同じ父の血を引いた、相容れぬ兄弟だという事以外には。

「あ、あの。此処が何処だか教えて欲しいんだけど…」

 大方父上と離れて散策でもして道に迷ったのであろう。戻れなくて困っている、といった所か。
 生憎連れて行ってやる気はない。せめて帰る方法のみを示唆して背を向ける。

「…なあ、名前、何て言うんだ?」

 更にそんな風に声を掛けられて。弟が自分の存在すら知らぬという事を知った。
 父の元を去って死した母が残した対の屋に住む私の顔など知らずとも、当たり前の事か…。

「あ、俺は犬夜叉って言うんだ。」

 
暢気に自己紹介を始めた弟の話を聞いているのが何故か苦しくて、思わずそれを遮った。
 知って、いる、と。
 相手の瞳孔が大きく見開かれるのが目の端に映り、少しだけ其処から離れて立つ。

 間もなくこの弟は帰途に着くだろう。私はここで、今しばらく中断された空白の思考を続けたかった。


  * * *


 不意に風の匂いが、変わる。この匂いは…父上のおいでの方角から…?
 血の匂いは、しない。ただ、異種族の者が群れを成してやって来るのを感じる。それも、明確な敵意を持って。

 未だ其処に佇んでいた弟は、その気配に気付く事も無く、先程私が告げた通りに自らの匂いを追っている。
 父上が訓練なさったのだ、ある程度はこの弟も戦えるのであろうが。仮にも幼いのだ、放っておく訳にはいくまい。
 それにもし人質に取られでもすれば…父上がお心を痛められよう。

「待て。」

 低く制止するのと、腰の刀に手を掛けるのとが同時であった。



 程なくして、大勢の気配が迫る。
 狼の、一族の気配。

 弟をどこか安全な場所に連れて逃げるべきか、それとも襲って来た者を成敗すべきか、一瞬迷った。
 けれど、もし連れて逃げたとしても、根本の解決にはなるまい。

「犬夜叉。」

 初めて、弟を名で呼んだ。

「な、なに…?」

 私の背に庇われる形になった弟が不思議そうにこちらを見上げる。

「答えよ。…父上は何の御用でこの地に参られた?」

「…ええと、会合があるって…」

 …謀られたか。ご自分の身はご自分で守られるだろうが…。

「下がっていろ。…それから、多少の火の粉は自分で払え。」

 ちらりと目線で弟の腰にくくりつけられている剣をさすと、私は今正に敵が現れようとしている森の方へと意識を戻した。


  * * *


「こんな人気の無い所に来てくれるとは都合がいい。…大人しくしてな、そうすりゃ殺しゃあしねえよ、尤もお前の親父との交渉が終わるまでだけどなあ。」

 調子よく恫喝の言葉を吐きながら近付いてきた群れの頭が、私を見て不意ににやりと口角を上げた。

「おやあ…ガキだけかと思っていたら別嬪さんもいるのか。下らん役回りだと思ってたが捨てた物でもなかったなあ。」

 下衆が。
 無言のまま刀を振れば、呆気無く落ちる首。頭を斬り殺されて、集まっていた者達が一斉にざわめき立つ。

「てめえ、よくもっ」

 技量も無くして、数だけ揃えても無駄な事だ。こちらに向かって来る者を手早く始末しながら、低く問いを発する。

「何が望みだ。」

 向かって来る敵が途絶えて。間合いを取って構えた敵の一人が、叫ぶように怒鳴った。

「昔の様に自由になりてえ、それだけだ!!他の種族の下で悔しい思いをするのはもう御免だ、だから終わりにするんだ!!邪魔を、するなっ!!」

 我を忘れて激昂する姿に、酷く物悲しさを覚える。

「…咎めはせぬ、去れ。」

 低く告げると、取り巻いていた敵の半数は数歩後じさった。
 静寂が、辺りを支配する。

「…貴方は、何者だ…襲い掛かった我々に理由を尋ねる者など、かつて一人もいなかったのに。」

 敵方の一人が、そんな事を呟いた。
 何者か、か…私が聞きたい、我らが一族にとって、私は一体何であるのかを。







 俺が、気付いても居なかったのに、いつの間にか周りを敵に囲まれていて。白銀の影の背に庇われているのを知る。

 緊迫した空気。
 ”俺だって戦える”そんな言葉は口に出す事すら出来なかった。
 『多少の火の粉は自分で払え。』と、そう言われたのに、俺の所には一欠片の火の粉も飛んで来る事などなかったから。

 敵の数人が続けざまに向かって来て、一刀の元に斬り伏せられて行く。いつも父上に稽古をつけて貰っていたけれど、力任せに刀を振り回すだけの自分の腕等まだまだであった、と思い知らされた。

『何が望みだ』

それから二言、三言。低く、深く響いた声が敵の心を静めて。敵でありながら、相手がこの白銀の妖怪に敬意を払った事を知る。

「貴方は…何者だ…?」

 敵が発したのとそっくりそのまま同じ台詞を、俺も尋ねたかった。それは、単なる相手への興味という、純粋なものであったのかも知れないけれど。

 暫くの間、黙ったままであった妖怪が、やがてゆっくりと口を開く。

「我が名は、殺生丸。…咎める立場にはない故、咎めぬと申したまで。されど、もしこの場に留まり続けるのならば、私が余計な真似をせずとも、そなたらの命は無い。」

 それは、どういう…と思った時に、敵方がにわかにざわめいた。皆が慌てたように散っていく。

 何があったのだろう、と。
 一瞬考え込んだ後、助けてくれた事に礼を言おうと思ったのと、すぐ目の前にあった人影がふわりと宙に舞い上がるのが同時だった。
 止める間も無く、その姿は上空高く消えて行く。此方を振り返る事さえせず。


  * * *


 それから、間もなくして。

「無事だったか、犬夜叉。」

 森に繋がる小道から、父の大柄な姿が現れる。





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