落華 * 九の巻
―――有無を言わさず、俺から離れて行ったくせに。再び目の前へ現れた兄は、やっとの思いで俺が見つけた筈だった足掛かりを、否定してみせるのか。
酷いじゃねえか…お前に会えて、やっと戻って来てくれたのかと純粋な喜びが一瞬俺の胸を満たしたその後で、すぐさま失望の底へ突き落とすなんて。
「…っ…何でそんな事言うんだよっ!!」
自分の声がまるで慟哭の叫び声の様にも聞こえる。
衝動のままに異母兄の両腕を己の手で掴めば、意外にも相手はこちらの手からすり抜ける事無く、ただ、勢いのままに地面に倒れはせぬ様にとその足を踏みしめて静かな目線を俺に投げただけだった。
「…離せ、犬夜叉。」
ややあってから掛けられた声は何とも静かだったけれど、その眉が僅かに寄っているのを見て、いつの間にか自分の力が彼の腕に痛みを与える程までに成長していたのだと知った。
昔から異母兄の腕は華奢でありながら且つ強靭であったのに、今はその腕をこの手の力で掴んでおくことが出来る。…尤も、兄が本気で振り払おうと思ったなら、それは至極簡単なことなのではあろうが。
「離さ…ねえよ…。」
手指の力を緩める事無くそう呟いてやれば、兄の口からは軽い溜め息。間近に見えるその秀麗な横顔に、どくんと鼓動が脈打つのを感じた。
「答えるまで離さねえ…何でだよ!?何でいつも俺を…突き放す様なことばっかり…」
まるで幼子に戻って駄々をこねているようだと自分でも思うけれど、口から飛び出す掠れた声を止められない。
「…では逆に問おう、そうして私を捕まえておいてどうするつもりだ。」
暫しの沈黙の後に兄の口から発せられたのはそんな一言。問いに問いで返して来るなど、簡単に答えを与えてくれぬ所は昔から変わっていないとふっと思った。
それでも互いの問いの内容が今の互いの立場を如実に示す。俺は異母兄を求めてやまず、異母兄は俺から離れることばかりを望む…そんな関係を。
どうするつもりだとそう問われても、明確な解答など有りはしない。ただただ…傍に居たいのだから。
それでも、それを言葉のままに異母兄に告げるのは余りにも気恥ずかしい気がした。
思考に沈む内にいつの間にか指の力が緩んでいたのだろう、振り払われるでもなく殺生丸の腕が己の手から離れて行く。
「っ待てよ。」
思わず呼び止めた所で、既に此処から歩み去ろうとしていた異母兄はぴたりと身体の動きを止めた。
「私はお前の問いに答えられず、お前も私の問いに答えられぬ。ならば始まりに戻るまでだ。忠告はした、それを聞くか否かは…私には関わりの無きことだ。」
その言葉が今までの兄の言の葉のどれよりも、己を突き放したものに聞こえて、胸の中が冷たく凍って行く。
”関わりが無い”…そう言うほどに俺はお前にとってどうでも良い存在なのか。
俺がもしも強さを手に入れて…仮にお前がそれを認めてくれる日が来たとしても、お前が俺の傍に居てくれることは、もう二度と無いということなのか。
そう考えた時、まるで異母兄を挑発するかの様に声を放っていた。
「四魂の玉には、別の使い方もあるんだぜ。」
その言葉にさらりと異母兄の髪が揺れ、その黄金色の瞳が再び俺を映す。
それが何とも心地良い気分で、そのまま言葉を次いだ途端に兄の表情が一瞬凍った様に見えた。
『桔梗の話では、四魂の玉を使って人間になる事も出来るんだってよ。』
正確には、俺が『人間になる』という言葉を口にした瞬間に無表情な筈の兄の眉が曇った気がした。
「それで…お前はどちらを選ぶ。」
それでも間を空けずに、何でも無い事を話すかの様な平坦な声音が返されて、ただ兄の眼光だけが普段より鋭く此方を見据えていた。
「…人間になるなんて考えた事も無かったが、それも悪くねえかもな。」
―――嘘だ。
兄と話すこの瞬間まで、人間になるなどという選択肢は少しも俺の心を惹き寄せはしなかった。
こう口にしてしまったのは、ただ一重に兄の無表情を崩したかったが為。
殺生丸は暫しの間何の反応も返さず、ただじっと此方を見つめていた。
やがてさくり、さくりと落ち葉を踏みしめる音が近付いて来たのが、夢現の様に感じられて、はっとした時には意外な程近くに異母兄の顔があった。
「四魂の玉を護っているという人間の巫女を愛したか。」
囁くような声音は確かに此方に向けられているのに、異母兄の不意に逸らされた目線が見た事の無い痛みを湛えて脇の大樹を見つめていた。
”愛した”…?
一体かれは何の話をしているのだろう。
愛するという、その言葉の意味が分からぬ程にもう子供では無いと思いたいけれど、それでもそういった経験は未だ己には無いままだったから。
戸惑いを含んだ俺の表情をどう受け取ったのか、殺生丸はゆっくりと一度瞳を閉じた。
「…達者に暮らせ。」
小さな呟きと共に信じられぬ程に優しい感触が不意に額に下りて来て。
それが異母兄の唇であったのだろうと分かる頃には、かれは既に静かに姿を消していた。
あの口付けの意味は分からない。
それでも兄にああ言ってしまった手前、その言葉を違える事は躊躇われて、俺は心の中にもやもやとした迷いを抱えたまま、次に桔梗に会った時に人間になる為に玉を使わせて欲しいのだと告げた。
…強さは、もういい。
それを得ても異母兄に振り返って貰えないとするならば、四魂の玉を用いて強さを得ても意味の無い事だから。
そんな諦めが何処かに生まれていたのかも知れない。
そうして、その虚ろな心を埋めてくれる何かとして”人間になる”という選択肢に縋っていたのかも知れない。
思えば初めに俺が妖怪としての生き方を選んだのも、そうすればあの異母兄とずっと一緒に居られると思ったからだったのだから。
俺の言葉を聞いて何とも嬉しそうに微笑んだ桔梗の表情に、何故だか対照的に痛みを含んだ先夜の兄の瞳を思い出した。
「明日また、此処で会おう。四魂の玉も、持って来るから。」
そう告げた桔梗が緋袴の裾を翻しつつ去って行くのを、俺は座ったままぼんやりと見送ったのだった。
―――そして、その明くる日。
前日と同じ場所で待っていた俺の許へ現れたのは、昨日とは全く異なる表情を浮べた桔梗だった。
「死んでもらう、犬夜叉。」
此方に向かって浄化の矢を放った彼女に、ああ、自分は騙されたのだろうかと今更ながらに思った。
『四魂の玉に手を出すのは止せ。』
…ああ、そうだった…あの異母兄の言葉はいつだって正しかったんだ。
あの時わざわざ俺の所へ訪ねて来たのは、俺を心配してくれていたからなんだろうか。意地を張って結局こうなってしまった俺を見たら…情け無いと思うだろうか。
『…半妖だからと言って容赦するつもりは無い、お前が我が一族として恥ずかしくない力を身につける事が出来なければ、私が自らとどめをさす。』
遠い昔に異母兄はそう言って俺を叱ったのだから。
それでも…少しは悲しんでくれるだろうかと思った所で白い靄に包まれる様に意識が遠くなった。
―――白はあの気高い妖怪の色。
幼い頃から、今もずっと、俺が求めてやまなかった美しい大妖の色。
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