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氷面鏡 -HIMOKAGAMI-
   第一部 『天 -TEN-』






 終わり無き春は無く、終わり無き冬も無い。
 全ての生命はただ、移ろい行く時の流れに身を委ねるのみ―――。



「殺、少し出掛けぬか。」

 結界に守られた美しい湖の中心にある孤島に建てられたこの宮の主の居室へ、その父王が足を運ぶのはもうここ数日の日課となっていた。

「…父上。」

 想いを通じ合わせ格段に親しい間柄になったとは言え、以前と変わること無く礼を取って父を迎える殺生丸へ、父王は僅かな苦笑を浮べる。

「いつも言っておろう、私にその様な堅苦しい挨拶をせずとも良い。恋人としても、息子としても、存分に甘えて良いというに…。」

 それでも私は父上にお仕えする者ですゆえ、と小さく応える殺生丸の頬は、父王の台詞を受けてほんのりと薄紅に染まっていた。

「それで…私と共に来てくれるか?」

 最初の問いを繰り返した父王へ、殺生丸は是、と肯いてから僅かに首を傾げる。

「私は構いませぬが…父上は宜しいのですか?此処の所連日こちらへお渡りですが…本殿の方でも御政務があるのでは…」

 一族の事まで気にかける辺り、流石は大妖怪の嫡男といった所か。

「そなたは誠に心配性だ。政務は…まあ家臣達に小言を言われぬ程度には済ませて来たよ。それにな、私が此方に渡らねばお前は中々本殿に顔を見せてはくれぬだろう。愛しい者の姿を一日中見ずにおれる程私は出来た男では無いのでな。」

 確かに殺生丸が今でさえ滅多に本殿へと足を運ばぬのは事実であった。長年の慣れもあってか、格別な用でも無い限りふらりと足を伸ばして見る気にはならなかったが故に。

「…まあ良い。」

 口ごもった殺生丸の語尾を何事も無かったかの様に遮ると、父王は先に立って庭先へと歩み出した。



 空を翔ける父と共に飛空術を用いて館から遠く離れた地へ降りる。

「…この場所が、何か…?」

 あたりは見渡す限りに広がった草原で、格別に父が自分を連れ出す理由が分からずに殺生丸は言葉少なに問うた。

「うん…?…場所では無い、殺。私はお前と共に空を翔け、眺めたかった。此処は他に何も無い分、空が本当に良く見える。随分と長く共に暮らしていたのに…こうして傍らに立って空を見上げる事すらしなかったなど、私は馬鹿な男だな。」

 その様な事はございませぬ、と真摯に否定する殺生丸へ、父王はゆったりとその腕を伸ばす。

「お前には空が似合う。地上にある事が信じられぬ程に気高く、孤高で…同時に儚く思えるのだよ。」

 それだけをふっと告げると、彼はふっとその瞳を細めた。

「ずっと昔にな…この丘には美しい桜の大樹が植わっていたのだ。お前が生まれるよりも昔の話だが…戦の折に焼け焦げて跡形も無く枯れてしまった。」

 父がこの話を通して何かを告げんとしているのか、と殺生丸は僅かに顔つきを強張らせる。
 それを知ってか知らずか、父王はその腰から一振りの剣をすらりと抜いた。彼自身の牙から鍛えられた剣のうちの一つ、『天生牙』と名付けられた癒しの剣だ。

「触れてみよ。」

 追憶から不意に現在へと立ち返ったその言葉に、殺生丸は微かに瞳を見開きつつその指をそっと伸ばした。父の意図する所を察すれば、柄を握れという事では無く、刀身に触れてみよという事なのであろう。
 刀身には常なる刀の様には錆び一つ無く、透き通った美しい光を放っている。錆びつかぬのはこの刀が返り血を浴びる類の用途には使われぬ故だろう。

「…やはりな。」

 殺生丸の指先が触れた途端に一瞬刀が呈した燐光を目にして、闘牙は満足そうに微笑んでそれを鞘へと戻した。
 何が”やはり”であるのかその理由をすぐには告げずに彼は言葉を続ける。

「誰にも言うた事が無かったが…所有する三剣のうちで私が最も気に入っているのはこれだ。」

 僅かな間の後に『何故でございますか』と静かに問い返す殺生丸へ、父王はふっと真剣な面持ちを浮べた。

「他の刀はただ命を奪うのみのもの。我らが真に願うべきものは殺戮では無いゆえ、だ。私は多くを殺して、その結果として今を手に入れたが…この刀はその贖罪でもあるのやも知れぬ。」

 闘牙の言葉はある種の苦さを含んでいて、殺生丸は初めて聞く父の述懐に胸を揺さぶられる思いがしてならなかった。

「お前が触れた時、刀から優しい燐光が放たれた。刀がお前を主として認めた証だ。今は未だ私がこれを手放す訳には行かぬが…いつか、お前の守り刀として腰に穿いて欲しい。」

 まるで別れ行く相手へ贈る餞別の言葉の様な、と思ったのは殺生丸の気のせいであったろうか。
 『今は未だ手放す訳には行かぬ』という言葉にその真の原因がある様な気がして、殺生丸は思わず更なる疑問を音にしかけた。

「…何も問うな、殺。時が来ればお前にも分かる…そう、いま少しの時間が過ぎれば。今はまだ、知らぬままでいれば良い…」

 先を制して愛息の言葉を止めた彼が不意に相手の肩をきつく抱きしめて。
 重なった影は暫くそのまま動かなかった。



「次は昼の空では無く…共に星空を眺めに来れると良いなあ。」

 やっと息子の身体を解放して館に戻ろうかといざないつつ、のんびりとそう呟く闘牙の姿は、すっかり普段のものに戻っている。
 もっとも夜のお前と二人で出歩きなどしたら…大人しくしていられる自信は私になどないがな、と冗談めかして口説く言葉は、半ば本心であったのだろう。

「星空の下に…あの日の桜が咲いていたなら、もう何もいう事は無いのだが。」

 最後の言葉は、遠い記憶への送別となって殺生丸の耳のみに納められた。





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