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氷面鏡 -HIMOKAGAMI-
   第二部 『地 -CHI-』






 たとえそれがどの様なことでも
 貴方が願うすべてを 私は叶えようとするでしょう
 貴方は 私がこの世でたった一人 心から敬愛する御方だから



「殺生丸様。」

 昼下がりと言っても未だ肌寒い空気に包まれた水の宮へ、この場所には滅多に無い訪問客があったのは父と共に遠出をしてから数週間経った日のことであった。
 彼は父の腹心の側近で、此処を訪れたという事は何らかの伝言を携えて来たのであろう。

「…何事か。」

 父も自分も普段は使わぬ隠し橋が開かれて宮に相手の気配が近付いて来たのを察し、妙に胸が騒いで殺生丸が自らその入り口へ足を向けたのだった。

「御屋形様が貴方様をお呼びして参れと…。」

 深く頭を垂れてそう伝える彼の表情は、何処か沈んでいる様に見える。

「父上に何かあったのか。」

 途端に眉を顰めて問い返した殺生丸へ、彼は否と首を振る。

「御屋形様に何かがあったという訳ではございませぬ。ただ…あの方は今まさに貴方様の助けを必要となさっているのでしょう。」

口では説明がし難いという事か、それともそれは父本人から聞くべき内容であるということか―――いずれにしてもその家臣の意図が掴めぬ程に殺生丸は鈍くも愚かでもなく、軽く相手の労を労ってからその足で本殿へと歩みを進めたのだった。



「―――如何なされました。」

 思えば本殿にある父の私室に入ったのはこれが初めての事。普段逢瀬を重ねる折はいつも父王の方が水の宮へと足を運んだが故に…。
 室内は些か殺風景な程に片付いていて、余分な装飾等は何一つ無い。その室内で薄暗い中明かりを灯すことすらせず、父は独り端座していた。
 殺生丸が室内に入ってもその何かに耐える様な父王の姿勢は変わらず、ただまっすぐに視線だけが上げられる。

 ―――その視線が…まるで縋りつく様にも見えて。
 大妖である父がその様な事をする筈も無いと咄嗟に頭の中で打ち消しながらも、殺生丸は一瞬腕を差し伸べて父王を支えそうになった自分に愕然とした。

「…突然呼び立てて済まぬ。一体何の大事かと驚かせてしまっただろうな。」

 抑えた声で話す父王に、構いませぬ、と先を促すと、彼は暫く自らの内なる葛藤を振り払うかの如く黙っていたが、やがて再び口を開いて。

「…何もせずとも良い、ただ…傍にいてくれ。叢雲牙の力が此処の所強まっていたのは分かっていたが…ここ数日は特にそれが顕著でな…独りで何とか抑えられればと思っていたが。」

 叢雲牙―――それは天下を総べる覇道の剣。
 力が強まるのならば本来は何も問題が無い筈ではないのか。
 何故父がこうして苦しげな顔をしつつ抑える必要があるのか。

「…不思議に思うのは当然だ。私は今までお前にも…それから他の誰にもこの剣が私の手にある本当の訳を話した事などなかったのだから。」

 言葉を次ぐ父の声はとても苦くて、殺生丸の胸中の不安はいや増す。

「…これは私の牙から作った物では無いのだよ。私の父親の牙が…怨嗟に濡れて邪悪な意思を持ってしまった代物だ。冥界を総べる刀と言われているが、私に言わせれば総べるのでは無い、全てを冥界に引き摺り込む力を備えた刀なのだ。破壊と殺戮を好む剣…持ち主の意思が弱ければその気性に呑まれる事すらある―――勿論威力は強いが、さながら辺りは地獄絵図…。それを抑える道具として、私は他の二剣を鍛えさせた。」

 ふと気付けば、父は叢雲牙を腰に佩き、腰からは外した天生牙を抱く様に腕に抱えていた。
 自分の牙に縋るなど情け無い姿だと自嘲する彼を、思わず殺生丸はその身体ごとふわりと抱きしめずにはおれなくて。
 …普段ならば、父に自分から抱きつくなど決してせぬ事であったのに。

「っ…殺…。」

 僅かに息を呑んだ父王の声音が幾分かの安堵を含んでいたのは気のせいではないだろう。
 端座していた姿勢から僅かに背筋の力を抜いて愛息の方へと凭れ掛かる様にしながら、闘牙王は微かな笑みを浮かべた。

「…お前が触れただけでこの身にかかる負担が軽くなった。やはりお前はこの天生牙と呼吸を合わせる事が出来るのだな。」

 特に意図してした行動では無かった。…むしろ、衝動的に少しでも父を慰めたいと思っただけであったのだけれど。

「叢雲牙は…出来ればこの命に代えてでも冥界へと封じ込めたい。」

 不意にはっきりした意思の響きを持って発せられた言葉に、微かに殺生丸の表情が強張る。
 『命に代えてでも』…それは、父の本心であって決してたとえ話の類ではない事を、魂の何処かで感じ取っていたが故だろう。死のことなど父に考えて欲しくはなかったが、今そう言って諌めたとしてもそれは父の苦しみを増すだけの事。
 きつく引き結ばれた唇は何かを耐える様に微かに震えていた。

「…すまぬ、お前には苦しい思いばかりをさせているな。だが、万一…万一私がこれを封印する事に失敗したなら…お前がこれを持ってくれ。お前ならば刀に支配される事無くその所有者となる事も出来るだろうから。」

 暗に父が没した後にその遺志を継いでくれるかと尋ねられて。視界がぼんやりと滲むのを必死に耐えながら殺生丸は父王の身体を支える腕の力だけを強くした。



 叢雲牙の力は日に日に強くなって行き、闘牙が自室に篭って瞑想を行い、精神を研ぎ澄ます事も増えて。そんな折、必ずと言って良いほど殺生丸も水の宮から父の許へと足を運び、その姿を見守り続けた。
 その甲斐あってか、叢雲牙が暴走する様な事態は幾月もの間起こらなかったが、いつの間にか音を成していた崩壊の序曲が消えた訳では無い事を、闘牙も…そして殺生丸も認識せざるを得なかった。





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