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檻 -ORI- [中編]


 それから幾つもの季節が過ぎて。鎌倉には表向き平穏な日々が続いていた。
 捕われ人とは言っても、頼朝は閨の中で弁慶の身体を求めるだけで、その時でさえ彼を酷く痛めつける様なことはしない。牢に繋がれるでも無く、御殿の奥殿に部屋を与えられ、一人の時は其処で自由に時間を過ごすことが出来る。

 食事を運んで来る従者たちの言葉から、嘗ての仲間達が梶原邸に軟禁されてはいるものの、頼朝との約束通り無事に過ごしていること、九郎と神子がいよいよ仲睦まじい様子であること等を知って、ほんの一瞬ちりりと胸が妬けはしたものの、その痛みが彼らと共に居た頃に比べると格段に小さくなっている事に驚いた。




「弁慶。」

 まだ昼間であるというのに部屋を訪ねて来た頼朝の声に何事かと振り向く。

「どう、なさいましたか、頼朝様…?」

 丁寧な口調は生来のもの…捕われ人だからと彼の機嫌を取っているわけではない。

「もし今私が…お前を自由にすると言ったなら、お前はどうする?」

 部屋に入るでもなく戸口に立ち尽くしたまま源氏の棟梁である男の口から発せられた言葉は、普段の彼とは異なる弱弱しい口調であった。

「いきなり何を仰せなのです?」

 どうするかと言われても、その様な仮の疑問にそれほど明確な答えは持ち合わせておらずに、それでも相手の様子を気遣って弁慶は微かな笑みを浮かべる。

「…お座り下さい。何か…あったのですか?」

 誘われるままに弁慶の傍に腰を下ろした頼朝は、次の瞬間何を思ったのか、まるで幼子が母の膝枕を乞うように寝転んで、弁慶の膝に頭を乗せた。

「お前がこうしているのは、あの時の契約があるからだろう…?私はいつもそうだ、無償の情で包んでくれる相手を持たぬ。」

 ―――ああ、この方は。お淋しいのだと、今初めてそう思った。
 いつも無言のまま、闇の中で身体のみを交えるばかりの頼朝の心の内を読み取る事は、いくらそういった事に聡い弁慶でも容易ではなくて、相手も自分にそれを求めてはいないのだろうといつの頃からか推し量ることすら止めてしまっていたけれど。

「政子様が…奥方様がいらっしゃるでしょう。貴方の良き理解者なのではありませんか?」

 北条政子。頼朝が不遇の環境にあった頃から何かと彼に力を貸した女性…彼女の残酷な一面はその身に宿った異国の神ゆえか。
 彼の妻の話をした途端、頼朝の眉がきつく寄せられ、眉間に深い皺が刻まれた。

「あれは…既にこの世界を去った。もっと人の負の情を喰らえる世界を見つけたというのでな。あれと私は良く似ている…引き止めることなど出来ぬ。
お前ならば分かって居るだろう。今まで政子の力を借りてこの鎌倉を治めてきたのだ、あれが居なくなった今、確実に九郎達をあの邸に籠めておく力すらない。お前が私との契約を破棄したとしても…」

 彼にはその代償を求める気が無いということか。
 元々が頼朝の九郎への理不尽な憎しみから始まった関係なのだから、それは本来ならば嬉しい知らせの筈なのに、弁慶はそれを単純に喜ぶことは出来なかった。

 ”九郎の兄であり、そして仇でもあった筈の男だけれど…共に数年を過ごしたこの人を、このまま放っておいてはいけない”―――何故だか強くそんなことを思う。
 静かに、まるで愛おしむ様に、膝の上に頭を預けたままの頼朝の髪へと指を滑らせば、彼の眉間の皺が僅かに緩んだ。

「今も…九郎がお嫌いですか。」

 慎重に話題を選んで問い掛けると、頼朝は瞼を閉じたまま暫しの沈黙を守り、やがて低い声で答えを返す。

「さあ…な。私はあれが羨ましかった。私が持ち得ぬものを全て得てしまうあの弟が妬ましくて…あれの姿を見ていると己の孤独を思い知らされたものだ。」

 ―――己の持ち得ぬものを全て得る…か。同じ父の種から生まれた兄弟であるが故に、それは耐えられぬ苦痛だったのかも知れない。孤独など、そうと気付くまでは感じることすらせぬもの。
 けれど、九郎とて望むもの全てを手に出来た訳では無い。彼が生涯を通じて最も欲したであろうもの…そして今でもきっと欲し続けているであろうもの…実兄からの愛情は未だに与えられぬままなのだから。

「あの時お前と契約を交わしたのも…あれの傍からあれの一番大切なものを奪ってやりたかったから…我が物にしたかったが故。…恨んでいるだろう、そんな理由でお前を九郎から引き離した私を。」

 普段よりも格段に饒舌に言葉を続けられて、答えに迷う。
 不思議なものだ…恨みは無い。あの時も、今この瞬間も。己にとって九郎は唯一無二の存在だったけれど、自分は九郎の”一番”では無かったろう。もし何事も無い平穏な日々が訪れていたとしても、自分が平然とした顔で変わらず九郎の傍に居られたどうかは自信がなかった。

 ―――僕も、もしかしたらこの方と同じ。自分だけを特別なものとして愛してくれる誰かを求めている。

「…恨んでなど…おりませんよ。」

 否定した言葉は、頼朝が思わず閉じていた瞳を開いた程に優しい音色。

「最初の問いの答え…お傍におりましょう、貴方がそれを望まれる限り。政子様の代わりにはなれませんが、お寂しさを紛らわせて差し上げるくらいは出来ましょうから。」

 膝の上の重みをそっと両腕で抱き込んで、己からの初めての接吻を静かに相手の額に落として。あとはただこの人の心に雪融けの季節が訪れるのを待とう。

 その瞬間に源氏の棟梁である男の頬に初めての涙が一筋伝ったことは、彼のみが知る事実だった。





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