檻 -ORI- [後編]
一体今、僕は…何か懐かしい夢でも見ているのだろうか。
それでも瞳に映る部屋の景色は常と変わらず、数年間を過ごした源氏御殿の奥座敷。そう、異なっているのは、此処に居る筈の無い人物が目の前に居るということだけ。そして…僕の名を呼んで室の中に飛び込んで来たやいなや、骨すら軋むかと思うほどにこの身をきつく抱きしめているということだけ。
「…九…郎…?」
未だ確信が持てずに恐る恐る呼び掛ければ、他の誰に見えるのかと涙ながらに笑われた。何故此処に、と問うまでも無く、兄である頼朝が突然彼をこの御殿に呼んだのだという。
「悪かったと…言って下さったんだ、兄上が。二心は無いという俺達の言をようやく信じて下された。」
いや、鎌倉殿は弟が己に無二の忠誠を誓っていることは既に知っていただろう。今それを受け入れたということは…かの人の心にそれだけの余裕が出来た証。
「…お前が…この何年もの間、兄上の御心を和らげていてくれたんだな。お前には…いつも世話になってばかりだ。」
抱きしめられているせいでくぐもって聞こえる九郎の声に、心の中で首を振る。
―――違う、そうではない、そんな大層なことをしていた訳ではないのだ。自分はただかの人の傍に侍って、いつの頃からか自分を捕らえている敵である筈の彼にある種の情を抱くようになっていたというだけ。そう、共感であるとか、庇護欲であるとか、そういった類の感情を。
「…これから、どうする。兄上は俺達の望む様にすればいいと仰って下さっていたが。」
そっと身体を放されてから告げられた言葉に、知らずびくりと肩が動いた。
―――望む様に…僕の望みとは一体何だろう。そして、九郎に向かって好きにせよと言ったあの人の本当の望みは。
「弁慶…弁慶、具合が悪いのか?…急に色々と告げて済まなかった、何もすぐに決めろという話では無いんだ。」
ぼんやりしてしまった僕の様子を不審に思ったのか、九郎が慌てた様にそう付け加える。そちらへ淡く微笑んでおいて、次に掛けるべき言葉を探した。
「幸せに、暮らしていますか、九郎。」
それは離れていた間の万感の想いを篭めた言の葉。
「風の噂に…望美さんといよいよ婚礼を挙げるのだと聞きました。…おめでとう。」
続く言葉は自然に口から零れて。それに九郎はあの照れたような、嬉しそうな表情を見せる。かつて九郎が京で後白河に向かってした”婚約者”発言からはや幾年もが経っていた。
「皆の御蔭だな…感謝している。」
あとはかつての仲間達の様子を一通り尋ねて、和やかに談笑した後に九郎は梶原邸へと帰って行った。
九郎が訪ねて来た日から三日ほどが過ぎて。何をするでもなく、座敷から庭園を眺める。
『…これから、どうする。』
すぐに答えずとも良いと言われた九郎の問いが脳裏にこだましていた。
夜も昼も頼朝の訪れは無く、己から会いに行く権利を持たなかった日々の惰性で、ただこの部屋に座り続けている己が居る。
あの方が望まれる限りお傍に居ると言ったけれど…もし彼が他に心を癒してくれる相手を見つけたなら、いつまでも屋敷の奥座敷に住まわせて貰うのは迷惑だろう。そしてここ数日の頼朝の様子は、その事実を如実に顕しているのではないのか。
「出て行く…べきなんでしょうね…。」
閑散としたこの場所には自分の他に誰も居ないと油断して、小さな独り言が音となって零れた。その声に満ちた思いのほかの寂しさに、我ながらはっとする。
―――此処を、出て行きたくはない。…それが、僕自身の望み…?己の望みなんて、いつだって叶ったことなど無いのだけれど。
思わずふう、と漏れた溜め息に、思いの外近くから息を呑む気配がした。
「…お前…どうして泣いてる。」
そんな言葉と共に姿を見せたのは、九郎。ああ、許しを貰って又訪ねて来てくれたのだと状況を把握するまでに数瞬かかった。
言われてから初めて自覚した涙が、雫となって頬を滑り落ちる。
「…済みません、九郎…特に何かあったという訳では無いのですよ、ただ何だか感傷的になっている様です。」
我ながら下手な言い訳だと思いつつも返事をすると、九郎は僅かにその眉を寄せた。
「…俺もいつまでも子供じゃない。昔よりは…お前の感情も読み取れるつもりだ。さっきの独り言も…此処に誰か心を残す相手でもいるんじゃないのか。」
その言葉があながち外れてはいないゆえに。必死で心の動揺を抑える。
「仮にそうであったとしても…僕では君と望美さんの様に互いに想い合う関係にはなれそうにもありませんよ。」
冗談交じりに続けたつもりだったけれど、九郎はその瞳に浮かぶ真剣な目の色を変えず、不意にそのままきつく頭を抱かれた。
「…っ…何でそんな、全てを諦めた様な目をするんだ、お前はっ…!」
押し殺した囁きと同時に、廊下の向こうでがたん、と思いがけぬ物音。
はっとして顔を上げるよりも、驚いた様な九郎の呟きの方が一瞬早い。
「…兄上…?」
九郎が兄と呼ぶ相手…そう、頼朝様がたった今すぐ其処まで来ていたということ。足早に遠ざかっていく足音は、彼がまた此処を立ち去ったことを示していた。
びくりと、無意識に身体が震える。
何をしに…いや、何を告げにいらしたのだろう。
そしてあの沈着冷静を絵に描いたような御人が、思わず物音を立てて立ち去ってしまったのは何ゆえなのだろう。
「…兄上か…?お前が心を残しているのは、兄上なのか…?」
呆然として思考に耽っていた所を、いつの間にか九郎の瞳にじっと覗き込まれていた。
ああそうか、九郎が僕の感情を読み取れると言ったのは本当だったのだ。…あの方がいらしたというだけであれ程に反応してしまった僕を見ればそれは一目瞭然なのかも知れないけれど。
「…済みません、九郎。どうか…しているでしょう、僕は。軽蔑してもいいんですよ。僕もあの方も男なのに…捕われていた時に身体を重ねたというだけで…あの方に情を移してしまうなんて。」
どうにでもなれ、と敢えて直接的な言葉を選んで自嘲気味に返した僕に、九郎は赤面しつつも大きく目を見開いた。
「馬鹿野郎…軽蔑なんか、する筈無いだろう。お前と兄上が過ごした時間は…例え捕われの身だったとしても、人と人との間に想いが芽生えるには十分な時間だ。」
慰める様に背を叩く手が優しい。その感覚に暫し身を委ねていると、まるで励ますように背を支えて立ち上がる事を促された。
「行ってこい。…さっき…その…俺がお前を抱きしめていたから、兄上は動揺なさったのだろう。誤解を解いておいた方がいいぞ。」
でも、と反論する暇は与えられなかった。ぐい、と背を押された反動で部屋の外へと押し出されてしまう。たとえ弁解してみたとしてもあの方に受け入れて貰えぬことを恐れる己が存在すると同時に、心の何処かで九郎の言葉に賛同する己も居て、緩慢な歩みながらも捕らえられた最初の日に連れられた室へと足を運んだ。
「…頼朝様。」
襖を開けることはせずに、そっと廊下から声を掛ける。未だ完全に鈍った訳では無い武人の勘が、求める相手の在室を知らせていた。
「入れ。」
ややあってから投げられた言葉は感情の見えない低い音。それでもそっと襖を開けて足を踏み入れた部屋は、太陽の光を締め出して昼間ながらの闇であった。
―――同じだ、初めて此処に来たあの日と。この薄闇、そして此方に背を向けて座す部屋の主の姿。
思わずそんな感傷に浸っていた所へ先に声を掛けて来たのは頼朝の方。
「暇を告げに来たか。…九郎達と…共に行くのだろう?」
是とも非とも答えられぬ問い。それでもいつかは…いや、出来うる限り早急に結論を出さねばならぬ問い。
「貴方は…それをお望みなのでしょうか。」
反対に此方の唇から零れ落ちた問いは無様な震えに彩られて。それでも”何でもありません”と誤魔化すには明確に音を為し過ぎていた。
「私が望むかと…?その様なことは問題ではない。そなた達の好きにしろと申した…出て行くのなら私の気が変わらぬ内に鎌倉を去るがよい。」
―――出て行くのなら。それは出て行かぬという選択肢もあるのだと自惚れても良いのか。”好きにして良い、と与えられた自由がこんなに苦いものだなんて思ってもみなかった。
「…分からないんですよ、僕は。自分が本当は何を一番望んでいるのか、どうするのが皆にとって一番良いのか。」
小さな呟きは頼朝の背にまで届いたに違いない。それでも彼は暫しの間、微動だにせずただ黙って座り続けていた。
「…頼朝様…」
無言の背の圧迫感に耐えられなくなって思わずそう名を呟く。これで頼朝が無言を貫くならば…彼が己を拒絶しているということ。それ以上何も告げずに去ろうと思った。
―――誤解を解くどころでは、ありませんよ…九郎…。
今この場所へと送り出してくれた年下の親友にそう心の中で小さく弱音をはきかけた所で頼朝の低い声が紡がれて。
「ここ数年、ずっと私を支えてくれたそなたを、これ以上私に縛り付ける訳にはゆかぬと思った。傍に居ると…孤独を癒すと抱きしめられて嬉しかった。報いるには…そなたを本来あるべき場所へ帰すしか、そなたが最も愛する者の許へ帰すしかないと、そう心に決めた筈だったというに…」
一旦途切れた言葉と共に、頼朝がゆっくりと此方に視線を向ける。静かに、しかし大股で近寄ってきた彼にぐいと頭部を掴まれた。
まるで接吻を仕掛ける前のような、とそんな不埒な連想が横切ったのを隠して目を伏せれば、それを許さぬとばかりに彼の手に力が篭められて。
「去り際にあの様な姿を見せられれば、こうして力ずくでも引き止めたくなる。」
あの様な姿。それはきっと、九郎に抱きしめられていたあの一瞬のこと。
”引き止めたい”と言ってくれたのは、頼朝が此方を疎んではいないということ。
「…僕はきっと…貴方に引き止めて欲しくてここまで来たんですよ。九郎は、貴方の誤解を解いて来いと僕を送り出しました。それに…彼にはもう望美さんという伴侶が居ますから。」
ゆっくりと、間近に居る頼朝の背に腕を回して言葉を紡ぎ出す。
「好きなように、と仰いました。ご迷惑でないのなら、どうか僕を貴方のお傍に。」
願いはきっと、二人とも同じ。
驚いた様に一瞬目を見開いた後、骨も折れるかという程に強い力で抱きしめられる、それが答えだった。
◇ 後記 ◇
大変遅くなりましたが、2005年度弁慶BD企画第二弾のテーマは念願の頼弁。牙月以外にも頼朝×弁慶に興味を持って下さる方がいらっしゃるのね、と狂喜乱舞して速攻リクエストお応えリストに追加。思いの外長くなったので三部作にしました。第一部は一番暗い時期の馴れ初め、第二部は二人の心が通じ合い始めた頃の話、第三部は大団円(?)。九郎が第三部で妙に老成しているのは、やはり恋の経験者だからということで。本当はこれの後日譚『副題:甘々な頼弁の日常+九郎』などという代物も考えていたのですが…本編とは大分趣きを異にするので取り敢えずこれで完結。御要望が多ければ加筆します。
2005/04/02 Shisui Gagetsu
Special Thanks for... 総領百花様
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