novels index





郷愁〜夢の幻〜


 魏との最終決戦を、私はこの地、五丈原に定めた。
 眼下に広がる、世闇を見つめる。私の傍らには妻、月英が控えていた。ふっと、その気配が後ろへ去ろうとするのを感じる。

「どうしたのです?」

 問い掛けると、彼女はいつものそつのない仕草で振り返った。

「明日を控えて、今私がすることは、戦の支度以外にはありません。」

 有能で、武道も身につけており、共に仕事をするには申し分の無い妻であった。

「そうでしたね、貴女の言う通りです。」

 私はそう答え、そこで普段ならそのまま彼女は立ち去る筈だった。
 それなのに、今日は。

「…けれど今、貴方が想いを馳せていらっしゃるのは、戦の事ではございませんわね。」

 一瞬置いた後、僅かに棘を含んだ声が耳に届いた。
 聡い女だ。舌打ちしたくなるような気分に捉われながら、それでも私は誤魔化す。

「別に、戦に全く関係の無い事を考えていたわけではありませんよ。」

 そう、関係が無いわけでは無い。
 何故なら彼も私と同じように、病を押して戦に出て…路半ばにして倒れたのだから。
 あの時には想像でしかなかった心情が、今確かな実感となって私の胸に有る。考えてみれば、私と彼は本当に良く似ていたのだと、そんな感慨に耽っていたのだ。

「…亡くなられた呉軍の水軍左都督様、でしょう。私が知らぬと思っておいでだったのですか。夜、何度も名を呼んでおいででしたよ。」

 月英の凛とした声が、束の間私を現実に引き戻し、そして去って行く。私をやり込めておいて去るつもりなのか、と唇が自嘲に歪んだ。が、それさえも束の間の事。

 私が望めば何時でも、貴方は夢に姿を現してくれる。
 ねえ、公瑾殿。分かってはいるのですよ、これは私の願望世界。本当に貴方の魂が私を訪ねて下さっているわけではないのだと。
 それでも…いいから。どうか今宵も私の相談相手となって欲しい。そして…共に眠って下さい。

 司馬緯は持久戦の構えで、一向に総攻撃をかけては来ない。
 どうすれば私の息のあるうちに魏の喉笛を噛み千切れる…?どうすれば…。

『孔明殿、貴方の病も貴方の手駒の一つでしょう?うまくお使いになればいい。』

 …ああ、死を装って敵をおびき出せとおっしゃるのか。
 貴方が言うのなら、それが最善の策だ、そのように致しましょう。

 ならば、兵の士気を揚げる為の補給はどのように?

『敵に見つからぬような斬新な運び方を…普通の荷車ではなく…』

 何かに象った荷車、ですか…牛など如何です?

『宜しいかと。短時間で作れるか?』

 苦しいですが…何とか形には出来ると思いますよ。

『…不必要になることを祈るが、万一策が成功しなかった場合の事も考えておかれた方が良い。』

 私の命が持たなかった場合を考えて、私の影武者も作れ、と。

『…』

 何処へ行かれるのです?私が死ぬ時は迎えに来て下さると約束して下さったでしょう?

『…それは…』

 困ったような彼の顔を最後に、意識が現実を見つめる。
 幕舎へ戻って、月英に作業の指示を出さねばならない。




 床に入ると、又彼の面影を呼ぶ。
 貴方は一人で死んでいくのが堪らなく淋しいと言っていた…私も、多分同じなのだろう。明日の朝を無事に迎えられるのか、と僅かに痛む体を庇いながら思ってしまう。

『今はただ、ゆっくりと休まねば。貴方が眺めるであろう朝日が、清冽なものであるように、私も祈ろう。』

 あの時と、逆の立場ですね。今は貴方が私を慰めてくれる。

『…そうだな。では今の貴方の眠りは…この私が護ることにしよう』

 そう言って差し伸ばされる、例えそれが幻であったとしても、温かい手に、私はゆっくりと眠りに誘われていった。




 夜明け前の冷たい空気に、漸く与えられた浅い眠りから呼び戻される。
 又、新しい一日が始まる。
 自分の命の灯火が何処まで続くのかは分からないけれど、為せる事は全て為してから逝こう。

 起き上がった瞬間に軽く襲ってきた眩暈をいつもの事だとやりすごして、諸葛亮は自分の天幕を後にした。
 指示しておいた作業が順調に進んでいるかどうか、自らの足で見回りに行く。

「孔明様。」

 入ろうとした陣屋の陰から不意に呼び止められて、足を止めた。
 凛としたその声は妻の月英のもの。

「順調に進んでおりますわ。…貴方はご自分の身体を少しでも養生なさらなければ。」

 気遣いを含んだ妻の声に曖昧に頷きながらも、陣幕の中を覗く。

「…私の、多分最後の戦ですからね。秘策に使う道具は自分の目で確認しておきたいのですよ。でも…戦が終わるまで私の身体が持つとは思えませんから…死した後の事は頼みましたよ、月英。昨晩命じた通りに…。」

 話している間にも襲ってきた二度目の眩暈。思わずぐらりと上体が傾ぐ所を、月英が支えた。そのぼんやりとした意識のまま、兵卒達に担架で先程まで寝ていた自分の天幕へと運ばれる。




 薬師と、そして蜀軍下の主だった武将達が入れ替わり立ち替わり枕元にやって来た。指示を仰ぎに、そして見舞いも兼ねて。
 後継の武将達にも言い残すべき事は伝えた、と思う。
 心残りがあるとすれば…元徳様の夢の実現をこの目に出来ずに死んでいくことだろうか。

 …そろそろ、潮も引き際であろう。
 公瑾殿…貴方は、かつての約束通り本当に私を迎えに来てくれるだろうか。貴方が招いてくれさえすれば、心残りなど全て忘れてしまうことさえ出来るであろうに。

 外はそろそろ日が昇って久しいというのに、天幕の中は静けさと暗さを保ったままだ。付き添ってくれている者が何か言っているようだが、意識が段々集中出来なくなってきた。
 いよいよ旅立つ時が来たのか、と自分でも悟るのに、未だ貴方の姿だけがない。

 不意に、朦朧としたままの意識の中で、妙に鮮明に美しい琴の音が聞こえた。
 ああ、これ程の演奏はこれまで一度しか聞いた事が無い。
 今はもう現世を去ってしまったあの人の幽玄なる調べ。

 誘われるかのように其方に向かう。
 病に侵された身では近付く事もままならないかと思ったが、身体は宙を移動するかのような感触でそちらに動いた。

 霧に覆われたようだった視界が徐々に晴れていく。
 周りを見ると、紅梅の蕾が美しく色づく庭園であった。自分のすぐ足元に小さな水の流れがあり、大きな太鼓橋が架かっている。

 そして、その中央に。焦がれた人の、姿が有った。
 細い指が琴を弾くその度に、長い黒髪がさらさらと揺れる。一心不乱に演奏を続けるその側についと寄って、肩に手を掛けた時。蕾であった紅梅が一斉に花開き、芳香を放った。

「もう、思い残すことは有りませんか?」

 微笑をたたえてそう尋ねられて、思わず頷いていた。遠慮がちに相手に触れようと手を伸ばすと、引き寄せるように橋の反対側へと導かれる。

 橋から足を離した瞬間、そこはあの梅の園でも、勿論現世の戦場でも無く。見たことの無い、穏やかな、静かな世界が広がっていた。

「公瑾殿。」

 小さな声での呼びかけに答えて振り返ってくれた美しい人に、諸葛亮はそっと囁く。

「もう迎えに来ては下さらないのかと、思いました。」

 恨み言の様にも聞こえる甘い睦言が発せられた暫く後。

「約束ですから。」

 と恥かしそうに頬を染めつつ、やはり小声で返す人の姿があったという。




◇ 後記 ◇
これも真三国無双3の五丈原蜀軍シナリオのイベントをベースに書き始めたものでした。一応、巴丘の周瑜の話と対になっております。
ラスト、結局周瑜が黄泉で誰と想いを交わすのかは謎のまま保留;;

2003/08/27 Shisui Gagetsu






|| Index ||
template : A Moveable Feast