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郷愁


 益州攻略へと動いた呉軍の大都督である彼…周公瑾殿が病に伏し、巴丘で療養を行っているとの報が荊州へと入った夜。主君、玄徳様に呼び出しを受けた。

「すまんな、孔明。それで…報せは、もうそなたも聞いておろうな。」

 主の居室に足を踏み入れた直後、そんな言葉で迎えられて、私は緩やかに肯いた。

「で、どうするのが良いと思う。」

 ほんの少しだけ細められた、主のその目の真意が捉えられず、聞き返してみる。

「どう、とは?巴丘から立ち退かせる方策をお尋ねでしょうか。」

 巴丘。
 今は我が蜀軍の勢力内にある土地を療養の地に選んだ彼。軍隊は呉軍へと帰しても、自らがその地に留まった訳は一体何であったろうか。
 少しの間考えに沈んでいた私の耳に、主君の微かな溜息が響いた。

「そうではなく…いや、それもあるが…。まあいい。孔明、そなた明朝此処を発ち、巴丘に見舞いに行ってくれぬか。公瑾殿の具合がどの程度のものなのかを確かめに。」

「ご命令とあれば。しかし、その程度の事ならば偵察を出せば宜しいような気も致しますが。」

 私の返答に、玄徳様は、とにかく行ってくれ、と困ったように笑った。
 人の心に聡い主君のこと、数年前に出会って以来、私が密かに公瑾殿に想いを寄せていた事に気付いておられたのかも知れない。
 主君の言葉が無ければ、私が彼の見舞いに向かう事は無かっただろう。そしてきっと…彼が冥界へと旅立った後に私はひっそりと後悔する事になったのかも知れない。
 今こうして命を受けて巴丘へと赴いても、それはやはり同じ事かも知れないが。




 早朝に出発しても、数人の護衛を連れて私が巴丘へと着いたのは夕刻に近かった。
 公瑾殿が滞在しているという館の主に、取次ぎを頼む。館はこの地の有力者の物であろうか、広くてどっしりとした佇まいであった。
 静かだ。何の音も…聞こえない。館には沢山の使用人が立ち働いている筈なのに。

「お会いになるそうです。どうぞ此方へ。」

 先程の主の声に先導されて、長い回廊を歩んでいく。
 突き当たりの部屋。そこから細く明かりが漏れて、人の話し声が聞こえた。

「公瑾殿、この時期に来る蜀からの使者など…信用できません。お会いになるなど、お止め下さい。貴方をこの場で殺すつもりかもしれない相手なのに…人払いまでなさるなんて…。」

 ああ、この声は聞いたことが有る。赤壁のあの戦では先鋒を勤めた、猛々しい若武者。

「子明…大丈夫だ、そなたの心配は嬉しいけれど…もうこの身の命数は尽きているのだから。さあ、もうお行き。この地で…最期にそなたと過ごせて楽しかったよ。」

 綺麗な、でも弱弱しくなったあの人の声がそれを宥めている。
 ああ、互いに暗殺の危険とて有ったのだと、今初めて気付いた。今の私はそんな事にすら頭が廻らぬほどにあの人の病に心捉われているのだろうか。
 細く漏れていた光が幅広き物となって、扉が広く開く。此方に歩んでくる若者は、僅かに赤くなった目で、私の方を牽制するかの様に睨みすえてから通り過ぎた。
 開け放たれた扉をそのままくぐれば、部屋の中に居るのは彼一人。先程迄私を先導してきた館の主は、そのまま戻って行った。
 何ヶ月ぶりだろうか、暫くの間は互いの姿をじっと見つめあって。対する相手は寝台の上。横になって顔だけを此方へ向けていた。
 少しやつれて、細くなられた。それでも、その妖艶な美貌は衰える事を知らない。

「お久し振りですね、孔明殿。…お会いできて、嬉しいですよ。」

 先に口を開いたのは公瑾殿の方だった。
 口元に浮かんだ親しみを込めた優しい微笑は初めて向けられた物だったかもしれない。今まで見て来たのは…美しいけれど、何処か冷たい、そんな外交用の微笑みばかりだったから。
 今まで計略のやり取りをし続けてきた相手とは思えぬくらい穏やかな空気が流れる。そして私も、彼に害を為そうという気など微塵も持ってはいなかった。

「貴方にお会いできて嬉しいのは…私とて同じです。」

 そう返答した私の声は、少しだけ上ずっていたかも知れない。

「孔明殿は…私を喜ばせて下さるのがお上手ですね。」

 笑い混じりにそう言いつつ、手振りで座すようにとうながされた。
 言われて初めて周りを見渡す。が、座るべき座が無い。一瞬戸惑いを隠せなかった私に、公瑾殿が悪戯っぽい笑みを浮かべて手招きした。またもや初めて見る顔だ、と思いつつ、招かれるままに寝台に近付く。上掛けから出された細い腕が、そっと私の腕を引いて寝台の枕もとに腰掛けさせた。

「私の寝台に腰掛けるなど、御不快かもしれませんが…話が遠いと少々疲れるので。」

 至近距離から見上げられて、胸の中がどくどくと息づいていく。

「私が未練がましくいつまでもこの地に滞在することは…皇叔殿には目障りでしょうね。」

 ぽつりと、本題を口にする彼を、黙って促した。

「もう少し、…多分あと数日だけですから…お許し頂ければと思うのですが。」

 あと、数日。それがこの人の命の期限なのだろうか。
 背筋が、冷えて行く。
 同盟国とは云え、裏では敵味方の関係である呉の将の死は、蜀にとっては願っても無い事である筈なのに。
 近すぎる喪失の予感にただ胸が震えてしまう。

「…もう最期ですから…何故私が皆に迷惑を掛けてまでこの地に留まったのかお話しましょうか。巴丘はね、伯符様が…私の義兄が刺客に遇った時に、私が為す術無く駐屯していた地なのですよ。」

 彼の義兄…つまりは今の孫呉の王、孫権の兄であった男。残念ながら私は一度も会った事は無いが。
 いつの間にか目を伏せていた相手は、ゆっくりと続きを語る。

「この地で待っていれば…黄泉へと渡る時、あの方が迎えに来て下さるような心地がして。それで、この地で死期を待っています。最もあの方はもう私の事など忘れていらっしゃるかもしれませんが。死に臨んだ者が馬鹿な事をと、お笑いになるでしょうか。」

 そう言って少しだけ哀しげに微笑む彼の頬を、両手で包み込んだ。肌目細やかな、白磁の肌が掌に触れる。彼はゆっくりと目を開けたが、私の手を振り払う事はしなかった。

「貴方にそれほどまでに想われた義兄君が、うらやましいですよ。貴方を忘れておられるなどということは、よもやありますまい。」

 何とはなしに頬を撫でながら、安心させるかのようにそう答える。間近であるせいか、自然と囁き声になった。

「慰めて、下さるのか。」

 小さく返される相手の囁きがまるで睦言の様に甘く聞こえるのは私の心に有る不埒な想いのせいだろうか。

「一つだけ、お尋ねしても?」

 はっと我に返って彼の言葉に肯く。

「何故、余人ではなく貴方が、ここを訪れて下さったのです?」

 何と答えたものだろう。表向きの理由は、主君に命じられたから。けれど、確かに私はこの人に逢いに此処へ来たいと思ったのではなかったか。
 彼の顔を見つめたまま黙り込んでしまった私に、彼は緩く笑って首を振った。

「いいのですよ、答えて下さらずとも。…申し訳無いのですが、少し、起こして頂けますか?」

 助け舟を出すかのようにそう言われて、彼の背に手をかけ、その身体を起こすのを手伝う。自然、彼の身体を私の肩にもたせかける様な格好になった。

「部屋の隅に、布の包みが置いてあるでしょう。宜しければ、取って下さいませんか。」

 促されて、それを取りに向かう。固い感触。楽器…?

「琴ですよ。昔、私に伯符様が下さった物です。」

 怪訝そうな顔をした私に、公瑾殿が声を投げる。

「そう、それをこちらへ。私の膝の上に。孔明殿は…琴の音は、お嫌いでしょうか。」

 望まれたものを手渡しざま、そんな事を問われて、首を横に振る。

「…?いいえ、どちらかと申せば、好きですよ。」

 そう答えると、公瑾殿は黙って白布の包みを開ける。手入れの行き届いた、見事な装飾の楽器がその手の中に現れた。

「お耳汚しかも知れませんが…餞別に一曲聴いて行って下さいますか。」

 言葉と共に、調弦をする澄んだ音が部屋に響いた。
 そう云えば昔、兄に聞いた事が有る。先代の主君が亡くなって以来、公瑾殿が自ら音曲を奏する所は見た事がないと。それでもかつて聴いた彼の楽の音は今も耳に蘇る、とも。
 身を起こしているのは結構な身体の負担となるだろうと、先程していたように背を支えてやる。寝台に再び腰を掛けて肩を抱くと、そっと頭を寄せられた。
 静かな部屋に、爽やかな音曲が流れていく。
 これが彼の即興、というものだろうか。伸びやかな旋風のイメージ。それから悠々と流れる大河の。降りしきる雷雨に、洪水を堰き止める森林の。不意に荒々しく吹き付けた突風に、木々が騒がしく揺れる、そんな印象へと。移り変わっていく旋律に、ただただ引きずられて行く。
 又、曲調が緩やかになった。そして、絶妙な緊張感の漂う旋律へと移り、又激しい火の様なイメージになって、赤壁でのあの戦を私の脳裏にまざまざと蘇らせる。
 公瑾殿の細く、白い指の細かい動きが、いつしか彼の人生そのものを音で表現しているような気がした。
 それから少し暗い曲調がゆるゆると続き、最期は暖かな春の陽射しを想わせる音で締めくくられて。弾き終えて流石に疲れたのか、ぐったりと私の胸にもたせかけられた頭を引き寄せた。

「…素晴らしい音ですね。きっと、ずっと忘れませんよ。」

 心からの賛辞をその耳元に囁く。肩口に少しだけ乱れかかる、その絹のような黒髪を梳きながら。

「有難う。…此処に来て良かったと…貴方が少しでもそう思って下さったら…いいのですが。」

 軽く目を閉じたまま、浅い呼吸の合間に言葉が紡ぎ出されていく。

「…立場が…敵味方であっても…相手に惹かれるという感情がお分かりになるでしょうか。私にとっては…貴方と、曹将軍が…そうでしたよ…刃を…交えていても、輝きが…眩しくて…。」

 語られる言葉の一つ一つが、温かく心に染み入って来る。
 不意に、公瑾殿の肩が震えて。この人が寒さを感じているのだと、知った。

「寒いのですか。」

 そう言いざま、その身体を強く抱き寄せる。少しでも、この身の熱を分け与えたいと願いながら。

「少し…それでも、もう日がくれてしまうから。お帰りに、なるのでしょう?伯符様がこの世を去られた時は一人残されるのがあんなに淋しかったのに、不思議なもので今は…一人で旅立つのがとても怖いのですよ。黄泉には…皆もう先に行っているのに、どうした事なのでしょうね。今、貴方が抱きしめていて下さるこの間に息絶えてしまいたいとさえ…思うのですよ…」

 知らなかった、この人がこんなにも寂しさを抱えていたなんて。

「では私が死ぬ時は…公瑾殿、貴方が迎えに来て下さいますか?」

 半分冗談、半分本気で聞いてみる。
 なけなしの力で、それでもゆっくりと顔を上げた彼は、そっと私の顔を引き寄せ、唇に掠める様な接吻を与えてくれた。

「それまでに、もし。貴方が他に迎えに来て欲しいと思う相手がいなかったなら。きっと迎えに参り…ましょう…」

 そうして。かくんと、支えていた相手の力が抜けた。
 名を呼んでみなくとも、分かる。凄まじい喪失感が体中を貫く。最期に、自分で望んだ通りに、私の腕の中で息絶えるなんて。
 貴方が望むのなら、貴方が永久の眠りにつくまでずっとずっと抱きしめて眠るのに。まだ温かさが失われていない彼の身体を掻き抱き、その生前にはした事さえ無かった、深い口付けを施す。
 死の間際に軽く触れ合った唇は、今はもう応えを返してはくれない。
 涙が、頬を伝っていくのを感じる。これは、私が流した…?
 彼に、私も貴方が好きだったのだと伝えられなかった事が、今更ながらに悔やまれる。
 見つめる白い顔は、それでも例え様も無く美しい、慈愛の微笑を浮かべていた。

 どれくらい、そうしていただろうか。
 不審に思って室に入って来たのであろう先程の若武者に、肩を揺すぶられ、引き離されて。荊州から連れてきた従者の言う通りに、主君のところへ戻ったのは、翌日の昼だった。

「ご苦労だったな、孔明。…別れは、告げられたか?」

 玄徳様に気遣わしげに見つめられて、ただ肯くしか出来なかった。
 この方の三顧の礼に応えてお仕えした事に、後悔はしていない。
 けれど、叶うなら。公瑾殿、貴方ともう少しだけ早く出会って、共に生き、そして戦いたかった。

 葬儀は、呉国を揚げて盛大に執り行われたことだろう。貴方は…その泉下で今何を思っているのか。
 かつての主君・・・・・・おそらくは、想い人と再会して微笑んでいてくれるだろうか。伯符様、と貴方が呼ぶ人が、少しだけ妬けるけれど。


 琴の音が、あの人の声が、耳元に蘇る。
 それはいつも、私の心に懐かしさと、愛しさと切なさの波紋を投げ掛けて。
 どうか見守っていて欲しい、貴方の為に私はその夢を継ぎ、天下をその墓前に供えよう。それは私が、そして貴方が、共に追いかけた夢なのだから。




◇ 後記 ◇
これは…真三国無双3のスペシャルBOXに特典として入っていたCDで周瑜の逝去の場面の後の孔明の台詞を聞いて私が勝手に昔捏造した物です。(珍しく製作時間が短かった様な…?)諸葛亮と周瑜の間柄が単なる敵対関係ではあって欲しくないなあ、という私の個人的な願望が大きく作用しているかも。

2003/08/27 Shisui Gagetsu






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