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ゆめ


 あの男が、憎かった。父を殺した、あの男が。
 戦場での出来事だ、彼のせいではない、悪いのは黄祖だと人は言う。―――尊敬してやまぬ、あの美しき自国の水軍左都督でさえも。

 ならば、父の無念はどうなる。若くして父を討ち取られた俺の行く場の無い遣り切れぬ想いは。

 滾る気持ちに酔いも手伝って、思わず手近にあった杯を硬い卓子に叩きつけた瞬間、それが粉々の破片となって床に散らばるのが妙に可笑しかった。

「畜生っ…!!」

 知っているさ、こうして物に当り散らしたって俺の気は晴れないし、現状が変わる訳でも無い。でもこうでもしないと都督の命に逆らってでも己の私怨を晴らしてしまいそうだ。
 荒くなった息を整える様に大きく息を吐くと、凌統は散らばった欠片をそのままに満天の星空を求めて外へ出た。



 一歩足を踏み出して、ぞっとする。
 完全に気配を断ち切った状態で、其処に一人の男が佇んでいた事に。

「周都督…」

 思わず相手の名を呟いた凌統へ、暗闇に融け込むかの如く立っていた周瑜が漸くその気配を解き放った。
 彼が何の為に其処に居たのかは、一目瞭然である。恐らくは、精神的に不安定な状態である凌統が妙な行動を起こしはせぬかと監視を兼ねて慰問に来たのだろう。
 監視だけならば旗下の兵士にさせれば良いのに、それでは凌統の面目が丸潰れとなる事を知っていたからそうしなかった。
 もし何か有っても、それを全て彼の胸一つのみに納めて置ける様に。

 広がる沈黙。
 ―――この人の瞳がこんなにも闇に融け込む漆黒なのだと、この時凌統は初めてその事実に気付いた気さえした。

「…公績。」

 小さな囁きと共に腕を取られて、自らの両手が細かい傷と血に汚れていた事を知る。

「…申し訳ありません。」

 無意識の内に口から零れ落ちた言葉は、何への謝罪か。
 軍の大勢の為に私情を抑えきれない己の弱さへか、はたまた翌日には戦へ出ねばならぬというのに自らを傷つけた無責任へか。

「公績。」

 窘める様に、そして宥める様に澄んだ声に再び字を呼ばれた。

「そなたの気持ちは尤もだ…謝ることなど何も無い。―――得物を握る手に傷を付けるのは戴けぬが…。」

 既に己の血で黒く汚れている傷口へ、濡れた感触が這う。それがかの上官のものである事を理解するには数瞬を要した。

「都督…?…その様な…血が付いてしまいます。」

 はっとして制止してみても、相手は自嘲気味に首を振るだけ。

「…私の歩んで来た道はもう血まみれだ、公績。傷口の治療でそなたの血に触れたとて…構いはせぬ。」

 この方は―――――己の生き様を”血まみれ”と評するのか。
 天才的な軍事感覚を有した、何処か人間味の無い方だと思っていたけれど…決してそれだけでは無いのかもしれない。
 もしかしたら…都督も今の俺と同じ様な気分だった事があるのだろうか。

「…もう休め。明日の先陣、真実を告げるならばそなたを外すべきかどうかと随分迷ったが…そなたを外しては策が立ち行かぬのでな。」

 いつの間にか清潔な白い巾が傷付いた手にきつく巻きつけられて、そう促された。
 彼の策に己が必要であると言われるのはこの上無く名誉なこと。けれど、そう告げた周瑜の面が酷く辛そうに翳って見えるのは気のせいではないだろう。

「あの…大丈夫ですか、都督?」

 思わず問い掛けた言葉に返って来たのは必死に浮べられた淡い笑み。

「…大丈夫だよ、公績。逆にそなたに心配される様では、私もまだまだだな。」

 素早く背を向けてその場を去ろうとした彼が、不意に何かを思い返した様に立ち止まる。

「―――悪夢を見ることがあるか、公績。」

 ぽつりと零たれた言葉は夜の闇の中にひっそりと溶けて。相手はきっと答えを求めてはいないのだろうけれども、何事か応えを返そうと考えを廻らす。
 ―――選択肢は是か否か、二つしかないというのに。

「答えずとも良い。…この世はまるで、悪夢の様だな。いや、悪夢ならばまだ良いのやもしれぬ…醒めれば幸せに思えた瞬間に戻る事が出来るのだから。だが…そんな夢物語は叶わぬな…。」

 軍議の時でも戦の陣頭指揮を取る時でも他の誰より凛としている筈のこの人の声が、今は何とも哀情に満ちた響きで紡がれる…その事実は凌統の心の中にあった筈の憎しみを凪いだ湖面の様に静めていく。

「都督…」

 恐る恐る差し出そうとした手には、先程かれ自身の手で巻かれた白布。
 そっと背後からその細い肩を抱けば、受け入れるかの様に上体の重みが預けられて。

「…私達は…良く似ているのかも知れないな…」

 周瑜のそんな言葉の後ろを引き取る様に、凌統は上官である彼の身体を抱え上げると散らかったままの自分の天幕へ入り、其処のみは整えられたままの寝台へかれを下ろしたのだった。



 誰に恥じる様な事をした訳ではない。
 ただ互いの傷を癒す様に抱き合って眠っただけ。
 …勿論、間近にあるその秀麗な美貌に心の臓の動きが早まらなかったかと言われたなら、それはその通りだけれど。

 夜明け前の未だ早い時刻に目覚めた時には、もう共に眠った筈の人の姿は跡形も無く天幕からかき消えていた。

 浅い眠りの中でふっといつも悩まされるのと同じ悪夢に陥りかけた時、ひんやりとした手が額に添えられたのを覚えている。
 それをきっかけにもうその夜は苦しい夢を見る事無く休む事が出来た。
 ああ、己を救い上げてくれたのは都督の掌なのだ、とそう思うと何とも言えない充足感が心を満たす。

 ―――呉国が赤壁にて大勝利をおさめるその前夜の、己の心にのみしまい込んだ大切な記憶。
 貴方は現実こそが悪夢の様だと仰った。ならばこの記憶は…貴方が俺に束の間見せて下さった幸せな夢なのか。

 …それでも、いい。
 そう心の何処かで思う自分が居る。

 移ろう世に永遠など有り得ない…ならば束の間の幸せに感謝を。
 それが俺の尊敬してやまぬ貴方の与えて下さったものならば尚更に。



◇ 後記 ◇
やっぱり異色CPの凌統×周瑜です。こんな物を書いていますが私は実は旋風江の凌統&周瑜のエピソードが大好きだったり。思わずヒ首を手にして甘寧を狙ってしまう凌統の刃を自らの身を持って止める周瑜…旋風江の中で最も好みなシーンの一つです。

2004/10/07 Shisui Gagetsu






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