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赤壁


 彼だ、と思った。

 もう随分と昔に一度だけ遠目にその姿を見た事はあったけれど、良く顔を知っていた訳では無い。
 けれど何故だか一瞬でそれと解った。

 彼こそが、忍びで対岸に渡った私の目の前に供も連れずにふらりと現れたこの男こそが、彼だ。
 乱世の奸雄とも、覇王とも呼ばれる男。そして今まさに東呉をその鋭い牙で噛み砕こうとしている張本人。

 私が気付いているのと同様に、彼も此方に気付いていようか。何気無く散歩している様にも見えるけれど、その歩き方には寸分の隙も窺えぬから。

 …気付いているのなら、声を掛けて来るだろうか。
 それとも、近付いた瞬間にその腰に差している刀を抜くだろうか。
 それとも見なかった振りをしてこのまま通り過ぎるのだろうか。

「たった一人で、何をしている。」

 厳しさと覇者たる貫禄を示す深い声。
 行き交う瞬間に、すぐ側から利き腕を掴まれて、咄嗟に途方にくれた様な表情を作ってみせる。
 懐刀を忍ばせてはおいたものの、此処で彼と刃を交えるつもりは無かった。
 この男のことだ、一人で来た様に見えても何処か近くにきっと護衛の者が居るだろう…そして私は伯符様の様にそれの相手を一人で出来るほどには武芸に長けていない。

 黙ったままの私に焦れた様に、曹操がぐいと掴んだ腕を引き寄せる。

「答えよ、この様な何もない所で一体何をやっている。」

 強い、語気。
 この男は…どこか伯符様に似た雰囲気がある。覇者たる気質であろうか、そして私は彼のその気質に生涯惹かれ続けたのだ。
 笑みが自然に頬に上った。

「何も。…ただ歩いていただけにございます。」

 ほう、と相手の眉が上げられる。もっとも、好んでこれから戦場になるであろう場所を散策する者などいるまい。

「歩いている、とな。それは確かにそうであろうが…何処へ行くつもりだ。」

 此方を見据える瞳の中に、何処かこの駆け引きを楽しんでいる様な光が感じ取れて。

「…行く宛などございませぬ。」

 思わず目を伏せてそう答えたのは、多分本心。
 …私はもうずっと長い事、行く宛を見失ったままだ。必死で自分を誤魔化して何かを目標にしてみても、いつも心は冷めていて。

「そなた程の器量なら、行く宛などいくらでもあると思うが…心の拠り所を失ったままという意味であろうな。」

 ふっと厳しさが相手の声から消え失せて、私の腕を掴む手の力が弱まった。
 伯符様も時折こうして穏やかな空気を私に与えてくれたものだった、とそんな場合ではない筈なのに束の間の追想にふけってしまう。

「…行く宛が無いのなら、ものの試しにわしの閨房の内にでも飼ってやろうか。」

 悪い冗談を言う男だ。本心では無く、からかっているだけであろうけれど、こういう切りかえし方をする辺り、あの幼馴染を更に彷彿とさせる。

「私は娼婦ではございませぬ故…散策の途中で初めてお会いした方に身を売る様な真似は致しませぬ。」

 この男ほどの人物ならば、こう返答した所で機嫌を損ねて刀を抜くという事もあるまい。果たして目の前の相手は不意に哄笑し、次いで場の空気を一変させる様な台詞を口の端に乗せる。

「噂通り、気高い男よ。亡き孫策にしか身を開かぬか、周瑜よ。」

 やはり、彼も私が何者であるかという事に行きあった瞬間から気付いていたという事か。

「わしがそなたの正体を見破っていた事に驚かぬとは流石よな。」

 くいと顎を持ち上げられ、視線をしっかりと捉えられる。

「死に場所を、求めて来たか。」

 続けられた言葉にはっとする。
 そうとも言えるし、そうでないとも言えよう。

『俺の分まで、お前は生きろよ。権を助けてやってくれ、お前と同じ夢を見られなくなる事だけが心残りだ』

 人伝てに聞いた、今際の折の伯符様の言葉。裏切る訳にもいかず、かと言って喪失の痛手を簡単に癒す事も出来なかった。

「さあ…?それよりも、刀をお抜きにはなられぬのですか?」

 曖昧に誤魔化して逆に問い掛ければ、曹操は黙って己の刀を一瞥する。

「斬られたいなら協力してやらんこともないが…そなたとやりあうのは戦場での楽しみに取っておきたい。正直、どうしても手に入れたいと願い、結局わしの物にはならなんだ稀代の軍師はそなただけなのだ。そなたがどんな戦をするのか、それを知りたくて大軍を南に向けた。…呉を指揮するのは、実質そなただと分かっている故な。」

 呉の主は、私ではなく仲謀様だと反論しかけて、曹操に目線で制された。まるで『わしの言わんとしている事が分かっているだろう』、とでも言いたげに。
 そうして、随分と長い事私の腕を掴んでいた手が離れて行く。

「戦の前に話せて良かった、周瑜よ。今のそなたは霧の如く掴み所が無いが…確かに噂の通りの大器よな。」

 霧、か。私をその様に例えたのはこの男が初めてだ。

「対岸に戻るがいい。わしも忍びで此処まで出て来たが、そろそろ従者が追いかけて来る頃合だ。戦が終わって、互いにまだ息があったら…再び会い見えたいものよ。」

 そう言い残して私に背を向けて自陣の方向へと戻って行く彼が、数歩進んだ所で不意に此方を振り返る。

「一つ聞いておこう。もしそなたが孫策と幼馴染でなかったら、わしに仕える気になっていたか?」

 伯符様と先に出会っていなかったら、か。その様な仮定は無意味だけれど、それでも想像してみるならば…私はこの男の覇王たる気質に忠誠を捧げたのかもしれない。

「恐らくは。けれど、伯符様と出会う事がきっと私の運命だったと…そう思います。」

 私が初めて返したはっきりとした返答に、曹操が僅かに目を見開く。

「それは…残念だ。」

 鬚をたくわえた口許に僅かな笑みを浮かべて彼は再び立ち去って行った。



 数日が過ぎて、私が待ち続けていた天候の条件が整って。己の出せる力全てを出して策を練り、それを実行する武将に託した。
 久方振りに心をずっと熱いまま持ち続けられたのは、きっとこれが伯符様への弔い戦であり…かつ対岸で会った覇者たる男に東呉にいた私という人間が記憶に留めておくに値する男であると認めて欲しかった故なのかもしれなかった。

 黄蓋を乗せた偽投降の船が、この戦の勝敗を決する鍵が進んでいくのをじっと見やる。
 あの時私の正体に気付いた様に、曹操はこの偽投降にも遅かれ早かれきっと気付くだろう。だから、ある地点まで来たら相手が気付いてももうどうしようもなくなる様に船の速度を上げろと命じた。

 読みが当たって無事に相手の船団を焼き尽くす事に成功した時には、何だか肩の荷が下りた様な不思議な心地がして。壮大な炎に彩られた戦場を、どこか達観したかの様な瞳で眺めている自分がいた。

「都督殿、陸路で逃げ出した曹操を追いますか。」

 部下の兵士が尋ねて来るのを静かに制する。
追 って討ち果たせるとは思わぬ、それに…私のすべき事はもう終わった。持てる力の全てを出して、敵方の総大将たる男に見せたのだから。

 二人共が生きて戦を終えたけれど…もし次に会う機会があるのなら、その時あの男は一体何を語るのだろうか。
 叶うなら、私も再び彼に会い見えたいと思う。

 こんな風に何かに心を熱く出来たのは本当に久し振りの事。
 普段の戦とは規模が違うという事もあろうが、赤壁の地は私にとって特別な土地の一つとなった。



◇ 後記 ◇
赤壁、という事で何故か曹操閣下しか頭の中に浮かんで参りませんでした。
策瑜前提の曹瑜、といった感じでしょうか。この二人は対戦前に会っても、言葉の応酬を楽しむだけで刀は抜かない、というイメージがあったりします。

2004/02/19 Shisui Gagetsu






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