おと
専業の楽師さえも敵わぬ腕なのだと人伝に聞いた。
それでも今はもう殆ど琴を爪弾くことも無くなり、時折慰みにかれの吹く澄んだ茄の音が夜の冷気を震わすのだとか。
一度、それを聞いてみたいと思っていた。
あの美しくも儚い人が吹く音をこの耳に浸透させたなら、一体どんな心地がするだろうか、と。
主君の使者として呉の陣営に起居する様になってからはや数日が過ぎたが、その間にそれらしき楽の音が聞こえて来ることは無かった。
尤もあちらも警戒しているのであろう、大都督たるかれの天幕は私のそれとは遠く離れた場所にあったから聞こえぬのも当然のことかも知れない。
私が夜に自分の天幕から出歩こうものならばすぐに誰何されるのは目に見えているので、敢えてかの人の居る場所の周りを訪ねる機会も無く、ただ時間だけが過ぎて行く。
「諸葛亮様、失礼しても宜しゅうございますか。」
天幕の入り口から声を掛けているのは呉軍の年若い兵卒で。
「私に、何か…?」
ある種の予感があって振り返った所へ、二通の書簡を差し出された。
兵卒はそのまま拱手をして下がって行き、必然的に手許に残された二通の書簡に目を落とす運びとなる。
一つは主君である劉備からの見慣れた筆跡。労を労った後に、あちらの近況が何気無い風で書き添えられていた。
もう一通には、何とも流麗な字体で書き付けられた文字が一行。
『江の彼方より文来たり』
見た事の無い文字、それでも開いた瞬間にふわりと香った独特の香でその差出人は云わずと知れた。
…陣営で擦れ違うふとした瞬間に感じる、あの人がつけている香りと同じものだから。
周瑜公瑾―――彼がこうして劉備からの手紙と同時に文を届けさせた意図は何であろう。
短絡に考えれば書かれている内容にあるところの『文』とはこの一緒に添えられた劉備からの文であるが、”江の彼方より”と付け加えてある所を見ると、同時期に届いた別の書簡のことを示唆しているのではなかろうか。
そして私にわざわざそれを伝えて来たということは、私がそれについて知ることを彼が望んでいるということ。
ならば、今宵あの人を訪ねて行けばよい。
「どちらへ。」
天幕の外に出た途端に見張りの役についていた兵卒に声を掛けられて、別に隠す事でもないからと用向きを告げる。
大都督に話があるのだ、と。
兵卒はそれ以上何も追求することなく、拱手して道を空けた。
恐らく此処の見張りに付いている兵はただの兵卒では無く、あの人が相当に信頼を置いている部下…その彼がこう振舞ってみせるということは、私の推測は外れてはいないのだろう。
いくつも立ち並んでいる天幕の間を抜けて行けば、陣内には特に変わりが無い様に見えたが、ただ一つの天幕の周りのみに気を抜けば見逃してしまいそうな緊張感が満ちていた。
―――周瑜殿の天幕、ですか。
他に比べて一回り大きなそれは、明らかにこの軍を現場で指揮している最高司令官のもの。天幕の周りで警護に付いている兵のうちの幾人かは見知った顔―――以前私の見張りに付いていた時に見た事のある顔であった。
それに天幕の主はどうやら一人で中に居るわけでは無い様で…このまま進むべきか、引き返すべきかと一瞬迷ってから、あの手紙はやはり暗に自分を呼び出しているのだろうからと歩を進めることにする。
「周瑜殿にお取り次ぎ頂きたいのですが。」
警備兵の一人にそう声を掛ければ、まず声高に『お入り下さい』と声が投げられた後に小声で”御待ちでいらっしゃいました”と告げられた。
司令官の天幕は軍議に用いられることもある重要な場所故、壁代わりの厚布も三重になっており、外部にはその音声が聞こえない。それでもその一番外側の布の内へと踏み込んでしまえば、僅かに中の音が聞き取れる様になる。
「なあ、公瑾。旧友の誼で久し振りにその絶品の楽の音を聞かせてくれてもいいだろう…?」
丁度耳に飛び込んで来た声は、少し下卑た雰囲気のする男の声。そう、都督の旧友というには似合わぬおとの。
「蒋幹殿、いくら私と貴方が幼馴染だとは言え、少々戯れが過ぎましょう…?」
応えている声は対照的に何とも涼やかでありながら、まるで誘っているかの如く、えもいわれぬ艶を含んでいる。
蒋幹といえば魏の武将の筈、それがこの時期に呉の総司令官の許を訪れるというのは明らかに何らかの策であり、対する周瑜も逆に策を仕掛けているのだろうが…それにしても演技でこの様な声を出しているのだとしたら、彼は相当大した役者だ。
次いでがたん、と中で物が倒れる大きな音がして、思わず反射的に私は残り二枚の分け布をくぐっていた。
「周都督…?」
声を掛けたのが先立ったか、あるいは折り重なって床に倒れている、正確には旧友だという魏の武将に押し倒されている周瑜の姿が目に入ったのが先だったか。
第三者の姿に慌ててかれの上から退いた魏将が、決まり悪い表情を浮べて後ずさる。
「孔明殿…外に、出ようか。」
手早く衣服の裾を整えて起き上がり此方へ近寄ってきた周瑜に、背を押される様にして天幕の外へと促された。
この人は普段私を字では呼ばぬ。大抵”使者殿”、とそう呼ぶばかりだというのに、わざわざ呼び方を変えてみせたのは、あの魏将の存在が有ったからか。
やはりと言うべきか、外に出ると見張りの人数は今はさり気無く減らされていて、隣に居るこのひとはあの魏将をわざと逃がすつもりなのだろうと思った。
天幕にたった一人で残して来たという事は、何か偽の情報でも掴ませようとしているのだろうか。
無言のまま彼が先に立って歩みを進めて行く先は、私が来た道と同じ方角。
おや、と思っているとやはり終着地は私に与えられた天幕だった。周瑜が軽く手で合図をすると、見張りの者達が少し離れた場所まで下がって行く。
そのまま天幕の中に足を踏み入れた周瑜は、何を思ったか、灯されていた明かりをふっと消した。
私は文の道のみしか扱えぬが、かの人は軍師であると共に武官でもある…真っ暗闇と化した場所に足を踏み入れて良いものかどうかと一瞬の逡巡が脳内を過ぎる。
「…恐れておいでか、使者殿。」
僅かに離れた場所からふっと溜め息のような笑み声がそう問うてみせて。
ああ、また呼び名が普段のものに戻っているとぼんやり認識しつつも、是とも否とも答えられぬうちに次の言葉が掛けられた。
「別に無理に此方へと言うつもりは無い。」
投げ捨てる様な言葉とは裏腹にその声音は何とも穏やかで、更に驚いたことには、一呼吸おいてから天幕中に透き通った横笛の音が満ちた。
恐らくかれが常に袂にでも入れて持ち歩いていたものなのだろう、小さな楽器の筈なのに、まさに音の奔流と呼ぶに相応しいおとがその場所から生まれ出でて、そしてその場を囲っている布の中にすうっと消えて行くかの如き印象を受ける。
定まった音の運びではなく殆ど即興であるのだろうその演奏は、止まる事など知らぬ気に美しく私を誘って。思わずふらふらと天幕内へ歩み行って音の源へと足を進めるのにさして時間はかからなかった。
段々と暗闇にも目が慣れてかれのすぐ傍に腰を下ろしても、未だ止まず続けられる演奏は、まるでかのひとが魂を音楽に託している様にも思えた。
長い時間続けられたそれに恍惚となった時、ふっと炎が風に吹き消される様にその演奏が止んで。
「…止めないで下さい。」
私の口から零れ落ちた言葉に、依然として暗闇の中にあるかれの気配がくすりと笑う。
「どんなものにも終わりはあろう、使者殿。永遠に其処に留めておくことなど、出来はしない。」
その言葉が言葉のままの意味なのか、あるいは別の何かを意図しているのか、今の私には分からない。
「今の美しい笛の音は、先刻貴方の策に乗ってみせた私への慰撫でしたか?」
問答を仕掛ければ、その様なものかも知れぬ、と曖昧な返答だ。
「噂の周瑜殿の楽の音を拝聴出来て、私は役得でしたね。出来るならば横笛のみでなく、貴方の琴の音色も聞いてみたかった。」
言葉少ない彼へと続けざまに掛ける言葉へ、相手がついた微かな溜め息が闇の空気をふるわせた。
「…私はもう、琴は弾けぬ。肩に負った傷のせいもあるが…何より、いつも私の琴を守り歌に昼寝をなさっていた方がもう今は居ないので。」
彼が誰の事を言っているかは既に明白。けれどその事実が、胸の奥をちくりと刺す。
「それでも、貴方の天幕にはいつも琴が立て掛けてありますね。」
言い返す様に口にしてしまってからはっとした。たった今私は、この人の心の尤も柔らかい部分に土足で踏み入ってしまったろうか、と。
果たして次の瞬間には、冷えた空気がかの人の何の感情も含まぬ声を伝えて来た。
「…あれはただの飾りに過ぎぬ。あの方が下さった琴であった故…ああして置いておけば今でもこの陣中にあの方が共に居て下さる様な気がしてな。」
言葉の終わりの方で声音に涙が滲んでいた様な心地がして、思わずかれが端座しているであろう場所に指先を伸ばせば、果たして初めて触れるすべらかな感触の頬には濡れた感触が伝っていた。
「済みません。」
今更だとは思いながらも告げた謝罪の言葉に、かれは此方の手をぴしゃりと払いのけて立ち上がる。
「そろそろな頃合であろう、邪魔をした。」
頃合だと言うのは、恐らくは彼が自分の策を為す為に天幕を空けた時間のことだろう。
「…使者殿、私は貴方が羨ましかった。私が失ってしまった半身を、貴方は今もお持ちだから。」
かれが音も無く天幕を抜け出して行く直前に告げた言葉が、淋しげな響きをもっていつまでも耳の奥から離れなかった。
『江風背を押す』
又してもただ一行、そう書かれた書簡がやはり夜になってから私の天幕に届けられたのは、あの日から一月ほど経った時期。
此度の文面の意味は、前回のものよりは明確であろう。総出撃が近い、と暗に打診して来たのだから。
あの晩以来、周瑜と軍議で顔を合わせることはあれど、個人的な話をした事は無かった。
決戦が終わればこの呉蜀の同盟も立ち消えるのだとお互い分かっているのに、最後に聞いた個人的な彼の言葉があの淋しげな声だというのは何ともやり切れなくて、暫しの逡巡の後に彼の天幕へと足を運ぶ。
道を半ば進んだ時、ぴいん、と張り詰めた夜気に細い琴の音が伝わって来た。
笛の音も見事だったが、彼の一番の得意の楽器なのだと周囲の者達が口を揃えて言う琴はそれ以上のもの。
―――あの方だ。
もう弾けぬと言っておられた琴を、今は亡き彼の片翼が彼に贈ったという琴を、決戦を間近にして爪弾いておられるのか。
そのまま此処でその音色を聞いているべきなのか、それとも彼の傍まで行ってみるべきなのか。
書簡が届けられたということは、私がその傍へ行く事を許して下さっているのだろうか。
更に足を進めれば、天幕の近くからは人払いをされたのだろう、僅かに遠巻きに立っている護衛の姿が見えた。此方の気配には気付いていただろうが、特に何も言われなかったので、そのまま目指す天幕へと歩み寄る。
布地を分け入って中を目指せば、その中にはあの晩と同じ様に闇が広がっていて、ただ琴の音が主の所在を示すのみだ。
今此処で何らかの危害を受けるかもしれぬ、とは今宵は考えもしなかった。私が天幕に足を踏み入れても尚続けられる演奏は、それ程に清浄な調べであったから。
「亡き方に、捧げておられるのですか。」
周瑜の手がふと止まったのを見計らって、そんな風に問い掛けてみれば、かれがまた透明な涙を流しているのだろうか、空気がゆらりと震えた。
「…いや…伯符は琴の音を捧げるよりも遠駆けに共に出かけてやった方が喜ぶ様な人だったから。それでもこうして爪弾いていれば、あの頃の幻影が下りて来てくれるのではないかと思うこともある。」
「亡き方だけの為の、音色なのですね。」
そう呟き返した己の声に、我知らず口惜しさの様なものが滲んでいて。
無意識の内に差し出していた己の手に彼の涙が触れた時、衝動的にその身体を後ろから掻き抱いてしまっていた。
抵抗されるかとも思ったが、かれは一瞬身体を強張らせた後、力を抜いて此方に体重を預けて来る。
「…弾いて下さい、このまま。」
―――貴方の指先から紡がれる美しい、細い音が、私だけの物ならばどんなに良いだろう。
ふっとそんな想いが胸の中を帰来して、相手の耳許に囁いてみせた声が自分でも酷く掠れていると思った。
彼の指が手探りでゆっくりと琴の弦に触れて、妙なる調べでありながらも複雑に揺れる様な色を含んだ音が紡がれる。
「懐かしい…何故知っておられる、かつて伯符が貴方と同じ様に…。」
皆まで言わせずに彼を振り向かせてその唇を奪う自分が、まるで別の人間であるかの様。
…こんなに激しく暗い情念を燃やす己を、私は知らなかった。
「何をっ…」
はっとした様に初めて抵抗を見せる彼を、何度も口付けで遮っておいて、息が上がった所で言葉を囁く。
「知りませんでしたよ、亡き方のなさった事など…私はそうしたかったからそうしたまで…それとも私を亡き方だと錯覚なさりたいと願っておいでですか?」
この気位の高い人は、決してそんな空しい身代わりに縋りはせぬだろうと知っていて尋ねれば、案の定苦い笑みが返って来た。
「手厳しいな、使者殿。先にそう告げられてしまっては、貴方を誰かの身代わりでは無く貴方自身として認識するしか…私には手が無くなってしまう。」
さり気無くこの手から身を捩って逃れようとする彼を捕まえておいて、逃げないで下さい、と言葉で釘をさしてみせる。
「あの日、魏将の前では私を孔明と呼んで下さったのに、また”使者殿”に逆戻りをしてしまいましたね。」
何気無い風に差し挟む言の葉は、彼の声で己の字を呼ばれたいという私の望みだ。
「江風背を押す、と貴方は書簡で私にお伝え下さったでしょう?私と貴方が共に居られる時間ももうあと僅かだとするならば、私の望みを叶えては下さいませんか…?」
望みとは何のことだ、と低く問い返して来る相手へ、お分かりの筈、と押し付けるように告げてみせた。
「貴方は私が羨ましいと仰せられたが…劉備様は私の主君であって、私は未だ半身を手に入れることさえ出来ていない。私が心から惹かれた方は此方を見てくれぬまま、策が為ったならば私の目の前から消えてしまうのですから。」
聡い彼のことだ、既にこちらの言わんとしていることに気付き始めているのか、私の腕の中に納められたままの両肩が微かに震えた。
「…何故、今になって…その様な事を私に告げてみせる…?それともそれも策のうちか、使者殿…?」
―――分かっておいでのくせに、策などでは無いと…。
そう呟きつつ彼の肩口に顔を埋めた私を、かの人が拒むことは無く。
極まった瞬間の彼が、ただ一度だけ『孔明』と私の字を呼んでくれたことが、ただただ嬉しくてならなかった。
魏との戦は先晩のあの人の策が功を奏したこともあって、勝利に終わったものの、戦が終わって直ぐ我々は敵味方に分かれて。
幾年かの年月をそうして過ごした冬、あの人はまだあまりにも早過ぎる死を迎えたのだ。
既に治り様も無い不治の病に身を侵されていたのだと知って、先に黄泉の世界の住人となっておられた方があの人を呼んだのだろうかと思わずにはいられなかった。
『どんなものにも終わりはあろう、使者殿。永遠に其処に留めておくことなど、出来はしない。』
あの人のふとした一言が時折脳裏に蘇るのは、何故なのか。
彼の言葉は事実であり、確かに終わり無きものなどこの世には無いのやも知れないけれど…貴方が貴方の片翼を想った様に、そして私が貴方を想った様に、変わらず其処に留まり続ける心もあるのだと、彼にそう伝えてみたい様な気がした。
◇ 後記 ◇
マイナーな私の多分一番好きなCP…亮瑜です(苦笑)
周瑜は孫策を忍びつつも、孔明に何か特別なものを感じ始めている、という様な構図が好きなのかも知れません。
でもやっぱりこのCPを書くと切ない終わり方になってしまいますね。
2003/11/05 Shisui Gagetsu
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