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夢一夜





「…貴方様らしいご決断を…なさったのですね。」

 真田の家を生かす為に徳川の懐に入り込むと決め、それを彼に伝えた時の返事はかの様なものだった。
 彼は他の誰よりも己が信頼し、大切に思い続けて来た相手―――取り乱して引き止めたりする類の人間ではないという事は己が一番良く知っていた。

「…君ならば、そんな風に言ってくれるのではないかと思っていた、佐助。」

 出立前に揺らぐ心を引き止められたりはせぬ事に安堵を覚えつつも、ほんの僅かな寂しさが胸を覆う。
 ああ、せめて真田の家を離れてもこの目の前の彼と何らかの繋がりを持ち続けていられたなら、こんな気持ちにはならぬのだろうか。

「―――貴方のことだ、今宵私にお告げになったという事は…出立は明朝なのでしょう。」

 ほら、こんな事までしっかりと私の思考を読むくせに。
 どうして今までの長い年月、私の心の奥深くに巣食っていた密かな願いだけは汲み取ってくれなかったのだろう。
 …否、その様な感情を抱いてしまった私の方が間違っているのか。

 微かに肯く事で示した私の肯定の返事に、佐助の瞳が不意に揺れた。
 元々寡黙な彼だが、その分長い付き合いの私にはその瞳が全てを語っているかの如くに思える。

「…何故今まで黙っていたかと思っている…だろうな。本当は君に告げずに去ろうかとも思ったのだ、君に会ってしまえば決心が揺らぐだろうし…君自身を苦しめてしまうだろうから。だが…何も知らせずに敵に下った裏切り者と思われても良いと割り切れる程に私は出来た人間では無かった様だ。」

 月光にきらりときらめく雫が一滴、佐助の両の瞳から零れたのは、私の言葉が終わるか終わらぬかという瀬戸際。
 …随分と色々な彼の表情を見てきたが、泣き顔など初めて見た。

 ―――泣いて、くれるのか。
 別れを惜しんで…?それとも、私の苦渋の決断を思いやって…?

 涙を流していることにすら気付いておらぬかの様に呆然と此方を見つめる佐助の肩へと、ごく自然に己の腕が伸びる。
 間にあったほんの僅かな距離を乗り越えてしまえば、指先に触れる思いのほか華奢な肩を引き寄せるのはた易くて。
 次の瞬間には己の腕の中に納められた確かな感触が伝わった。

 …さらさらと流れる髪から香る芳香でさえ、こうして近くで感じたのは久方。
 そっと指を差し入れて梳けば、それは私の手指から逃れるかの如く重力に従って零れ落ちて行く。

「信幸様…。」

 小さく呼ばれた名が、私の心を煽った。
 手指だけではなく、唇でもってその髪に触れて、びくりと揺れるその肩を逃がすまいと力を篭める。

「なあ、君は気付いていたか…?」

 吐息の様に問い掛ければ、静かな沈黙が間に広がった。
 わざと目的語を告げなかったのは…最後の賭けにも似た望みが私の心にあったから。
 それでも、何も答えてはくれぬ相手へと、手の内の全ての札を曝す。

「…ずっと、こうしたかった。今宵こうしなければ、もう二度と叶うまい…許せ。」

 彼の肩を掴む己の手は、既に力を篭め過ぎて痛みを覚えるほど。
 きっと掴まれている彼の方も相当な痛みを伴っていることだろうに、不満を口にすることもない。

 心の中に、迷いが生じる。
 このまま本能に近い衝動に身を任せるべきか、それとも今すぐ離れるべきか。出立の前夜に彼を抱いたとしても、彼を苦しめるだけ。
 自分はいいだろう、一夜の想い出を糧に残る人生に何があろうとも生きて行ける…だが彼はどうなる…?良くて戸惑いと悲しみを、最悪の場合には絶望をその身に宿されるだけだ。

 その迷いに従って緩んだ指の力に気付いたのだろう、佐助が微かに顔を上げた。

「―――気付いて、おりました。ただ、私も心が乱れて…自分を守る為に気付かぬ振りを…。…そうするべきでは、無かったのに。」

 次にその唇から零れたのは、静かに紡がれるそんな言葉。

「信幸様。」

 不意に背に感じた二本の腕の感触に、己が佐助に抱き返されているのだと知った。

「…貴方は今宵この家を離れ…私の主は幸村様であるけれど…私が生涯お慕いするのは貴方様だけ…」

 震える声の告白は、それでもまっすぐに私の耳に届く。

 ―――ああ、たったこれだけの言葉が。これまでの生涯で過ごしたどの様な瞬間をも凌駕する。

 どちらともなく唇が重なって、初めてのその感触に酩酊をおぼえた。

「…一夜の夢を見せてくれると…そういうのか、佐助…」

 口付けの合間に尋ねた問いへ、切ない眼差しが返って来る。
 何も問うなという事か…一夜の夢…思い返せば君と過ごした全ての日々が夢のようであったと言ったなら、君はまた困ったように笑うのだろうか。

 重なる口付けが徐々に別の場所へと移動して行き、互いに何も考えられなくなるまでにさして時間は掛からない。
 そっと着衣を割り開き丁寧にその身体を拓いていけば、まだ幼い頃から共に過ごした私でさえも聞いた事の無い艶やかな吐息が漏れる。
 男女の間の常なる睦言の様に『やめてくれ』と言わぬのは、今夜の私にとってその言葉が命を奪う棘にも等しい事を知っているからか。

「佐助…佐助……」

 何度も何度も呼ぶ名は、闇に融けて彼の肌に紅い痕を刻んで行く。
 そっと触れた中心に唇を寄せた時、初めて佐助が私の頭へと指を添えて微かな力で引き離そうともがいた。

「…っ…ぁ……ああっ…」

 性急に侵入させた指が固く閉ざされた入り口をほぐそうと縦横に動き回る度にこらえ切れなかった悲鳴が佐助の咽喉から迸る。
 今更自分を制することなど出来はしないが、きつい痛みに耐えているであろうと思うと少しでも苦痛をやわらげてやりたくて。無我夢中に相手の身体を掻き抱くうちに、佐助の咽喉から漏れる声も徐々に快感を表すそれへと変わって行った。

 言葉は、もう必要が無い。ただ互いを繋ぐ体温だけが、今確かにこうして傍にある証なのだから。
 ぐったりと力を無くして、普段の彼からなら想像もつかぬほどに頼りなげな表情を残す横顔を見つめながら、まんじりともせずに夜を明かした。

 ―――今はただ、時間が惜しい。彼と共に過ごす事が許された残りの時間、一瞬たりとも瞳に他のものを映したくはない。
 この命が露と消えるその時まで、今この時の彼の面影が網膜から消えぬ様にと食い入る様に見つめる己の視界はいつの間にか滲んで歪んでいた。



 光…希望を運ぶ筈の朝日が憎いと思ったのはこの朝が初めてであったかも知れぬ。
 死んだように動かぬ彼を叩き起こすのは忍びなくて、私は静かに夜明けの冷気の中で身支度を済ませ、己の半生を過ごした館を発とうとしていた。

「…御気をつけて。」

 聞こえぬ筈の声に送られて、はっと振り返る。

「…佐助。眠っていたのではなかったのか。…身体は…。」

 動揺のままに口にした言葉を、微かに首を振る事で佐助に止められた。

「…貴方のご出立をお見送りしたかった…それだけです。―――いつか…再び真田の前に強大な力が立ちはだかった時は…貴方がなさった事を、貴方のお志を、私が継ぎましょう。真田の家を思う貴方の御心を…決して無駄にはさせませぬ。」

 静かに告げられた言葉が、別れの時を告げる。
 この男のことだ、勿論真田の家を任せて何ら問題など無いと知っている…それでも寡黙な彼が改めて言葉にして告げてくれた事が嬉しかった。

「ありがとう。」

 短くとも万感の想いを込めて伝えた言葉に、佐助が微かに笑った様に見えた。

「―――さようなら、信幸様。振り返らずに、御発ち下さい。流石に私も…今朝はもう動けそうにございませぬ故…」

 そして…私は。あの時、彼の言葉の通りに、一度も後を振り返る事無くあの城を去ったのだ。

 あれから何年も経った時。徳川の陣営に居た私の許にも、あれの姿が真田から消えたという噂が入った。
 彼が何処へ行ったのかは知らぬ…だが、彼が何を思って姿を消したのか、その訳は明白であった。
 心の奥底にはこれ以上あれの身を危険に曝したくないと願う気持ちもあったけれど、今も心は繋がっているのだとそう思うと…自然と心が強く持てる。

 願わくば、彼を待ち受ける運命が残酷なもので無き様に。
 そして今は唯一人父の元に残っている弟が…幸村が、彼の心を汲み取るだけの力量を備えている様に。

 …見果てぬ夢を見よう。
かつては身も心も共にあった彼らと…この世か、又は次の世かはわからぬまでも…いつか共に微笑める日が来る事を。
 儚き人の生など、過ぎてしまえばまるで夢の様なものだから。そう、それがどんなに忘れ得ぬほど濃く、深く、また短きものであったとしても。



◇ 後記 ◇
 色々な意味で”大人”な信幸様には何と申しますかこう、遠距離恋愛が似合う(←?)と思うのですがどうでしょう。そして甘甘では無くて切な系が…。

2004/06/29 Shisui Gagetsu






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