流水 * 壱の巻
まるで、母親の子宮の中に抱かれるように。随分長い間眠っていた気がする。
身体の中心を貫く一本の矢のせいで四肢の自由はきかず、思考を廻らす余裕すら無い…それなのに、この安心感は何なのだろう。
外側からこの場所を包む守りの思念が、優しい波動となって力を与え続けてくれている様。
これは一体、誰の気配。
かつて良く見知っていた筈の、近くて遠い誰か。
俺の目覚めを待っているのか…?
「ああっ、もう、やめてよっ!追っかけて来ないでってば…!」
鋭く響く少女の悲鳴が、まどろんでいた意識を覚醒させる。
目を開けた先では、大百足の妖怪に追い掛けられて逃げ惑う人間の少女の姿。此方に向かって一直線に走って来るその顔を見て、犬夜叉ははっと息を呑んだ。
(桔梗!?)
長きに渡って俺を封印した巫女。
一体何故、俺を裏切った。騙し討ちの様なことをしやがった。…そんな奴じゃないと、思っていたのに。
疑問と非難が次々と胸の内に湧き起こる。
いつの間にか、何の反撃もせず逃げ惑うばかりの少女が、追い詰められて目の前まで来ていた。
「ちょっと、御願い、助けてよっ!」
いきなりそんな風に懇願しつつ、犬夜叉の封じられている大樹に取り付いた彼女。
これがもし本当にあの桔梗なら、妖怪相手に逃げるばかりなどという事は有り得ないが…。
「助けようにも俺は動けねえんだよ。…忌々しいこの矢のせいでな。助けて欲しいと思うんなら、この矢を抜きな。」
四肢を封じられた状態では、自力で桔梗の矢を抜くことは出来ない。
「え?…う〜ん、抜いたら本当に助けてくれるの?」
「馬鹿野郎、俺はてめえと違って約束は守るんだよっ!」
すぐ後ろに敵が居るにしては随分と間抜けた遣り取りの後、少女が封印の矢に手を掛ける。桔梗の矢は何の抵抗もせずに少女の手を受け入れた。
やはり彼女は桔梗本人だということなのだろうか。
矢が抜かれるのと同時に、四肢を封じていた拘束が解けていく。
そして同時に…眠っている間中感じていた、あの優しい気配も。もし叶うなら、あの気配だけはずっと身近に留めておきたいと願うけれど。
「ちょっと、もう動けるようになったんでしょ?…早くあの百足のお化けを何とかしてよ、約束は守るんでしょ!?」
一瞬思考に陥りそうになった所で傍らからせっつかれて、目の前の敵の存在を思い出す。…大した敵ではない、目覚めたばかりの身体でも十分に倒せるほどに。
「散魂鉄爪っ!」
何に執着しているのか、多少しぶとい抵抗を見せたものの、百足の化け物を退治するのには然程時間が掛からず。
ただ、倒したその瞬間に虚空に飛び散った欠片を見てはっとした。この欠片は…飛び散ってしまったせいで僅かなものになってしまってはいるが、力の波動を感じる。
まさか…飛び散ったものは四魂の玉…?
「…何があったのかと思って来てみれば…目覚めたか、犬夜叉。そしてそこの娘…桔梗お姉様に瓜二つじゃ。お姉様は確かに四魂の玉を抱いて亡くなられた筈なのに。」
状況を把握出来ずに居た所へ、木々の間から村人を引き連れて現れたのが白髪の老婆。桔梗を姉と呼んだことから見て、この老婆は彼女の妹…桔梗が確か楓と呼んでいたか。
その楓の話す所に依れば、桔梗は五十年前、犬夜叉を封印しようとして大怪我を負い、四魂の玉を抱いたまま火葬されたのだという。その折に四魂の玉は滅せられた筈なのに、どうやら別の時空から来たらしいこの少女に依って再びこの時空に持ち込まれてしまった。
先程割れた欠片の元こそ、その四魂の玉なのだと。
「大怪我って…俺が一方的にあいつに騙されて封印されたんだ。てめえ、桔梗っ…どういう事だよ。」
激昂した犬夜叉が激しく問い詰める先は、桔梗と瓜二つの少女。
己は”桔梗”ではなく、”かごめ”という名なのだと反論する彼女は中々に勝気な性格らしく、犬夜叉相手にも引いたりはしない。
言い争いを続ける二人を楓が止めて、結局今宵は少女が楓の庵で休むという事で折り合いがついた。
「いくら欠片になったとはいえ、四魂の玉を霧散させたままでは危険じゃ…悪用されては事だからの。明日からお主ら、散らしてしまった欠片を集めに行くのじゃぞ。」
楓にそう言われて仕方なく肯き、謎が深まるばかりの五十年前の出来事の真相を必ず突き止めてやる、と心に誓う。
人里に帰って行く人間達の後ろ姿を見送って、犬夜叉は無意識の内に己が五十年の歳月を過ごしたという大樹の下にやって来ていた。
幹に手を触れれば、今も微かに感じるあの優しい気配の名残。封じられていた間、ずっと俺を守っていてくれたその相手は一体誰なのだろう。
それにしても又”四魂の玉”に関わることになるとは皮肉だよな、とそんな風に思った時、かつて『四魂の玉に手を出すのは止せ』と何とも的を得た助言を寄越した大妖の存在を思い出した。
あの異母兄が今の己の様子を見たら、懲りぬことを、と背を向けるだろうか。いや、”人間”の桔梗に封じられた時点で、既に一族の恥よと苦々しく思っているかも知れない。
けれど、兄を振り向かせたい一心で『四魂の玉を使って人間になる』と言い放ったあの日、彼は何とも優しい口付けを額に与えてくれたのだった。達者に暮らせ、との一言と共に。
”…兄上。”
心の内で呼び掛けた時、未だ触れたままだった大樹の幹から伝わる例の気配の名残が、大きく脈打つのを感じた。
気の、せい…かもしれない。でも…もしこの長い歳月、自分を守って包み込んでいてくれたのがあの異母兄の気配だったとしたら。
女々しいことだとは知りながらも、嬉しくて涙が出そうになった。
…兄上。
何度突き放されても、例えあんたが俺を疎ましく思っていようとも。俺はあんたを嫌えない…傍に居たいと、傍に居て欲しいと願ってる…子供の頃からあんたの事が、大好きだから。
取り敢えず当面の活動基盤となるこの森の地理を調べておこう、と思い立ったのは、恐らくはかつて異母兄に叩き込まれた野営の知識の為せる技。
周囲の気配を探ってみるも、この森に己以外の存在を感じはしない。
だからこそ、さくり、さくりと歩みを進める先に白銀の光を見た時の驚きも大きくて。
「兄…上…」
半信半疑で、呼び掛けてみる。
兄ほどの大妖ともなれば、気配も他の雑魚とは桁違いに大きい。見落とすなど有り得ないのだ、もしあちらが故意に己の気配を消しているのでなければ。
そしてもし異母兄が故意にその存在を隠しているのだとすれば、偶然此処を通り掛かったのではなく、何らかの意図を持って…もしかしたら永の封印から目覚めた弟の様子を見に来てくれたのかも知れないということ。
「…久しいな、犬夜叉。」
ややあってから返された答えが、己の見ているものが願望の作り出した幻ではない事を教えてくれた。
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