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流水 * 壱の巻





 風が…変わる。
 時が経つにつれて次第に澱み始めたこの世界の空気に、新しい風が吹き込んで来る。

 小高い丘の上から眼下を見下ろす殺生丸の胸に、そんな予感がふと過ぎった。



 ざわざわと、生い繁る草が揺れて。
 同時に遠くで甦る、妖気。己や亡き父のものに比べれば随分と弱いにしても、明らかに己と同じ血統を汲むそれと知れる。

”私の、弟。…時が来て、目覚めたか。”

 小さな呟きを胸に秘め、殺生丸は気配を辿った。
 匂いの知らせる所を信じるならば、異母弟は目覚めた途端に戦いに巻き込まれたらしい。相手は小物ゆえ、さほど苦戦する事は無かろうが。
 それよりも気になるのは…異母弟の傍にある、見知らぬ気配。異母弟を封印した矢から感じたものと似て非なるそれ。
 妖気は少しも感じぬ…となればやはり”人”であろうか。

 相手に気取られぬ程度に近付いてみるか、とそう思ったのは気まぐれではない。
 自らその結末を受け入れるかの様にして封じられていた異母弟を、五十年の時を経て呼び覚ました存在。一体何故、どんな経緯で。
 答えを得てどうしようというのではない、それでもただ疑問ばかりが湧き起こる。

 あの時、自らの手で封印を解くことはせぬと決めたのは、私自身であったのに。心の何処かで、異母弟を再び目覚めさせるのが己でありたいと願っていたということだろうか。

 自嘲するかの様にふっと笑った殺生丸を、傍らに控えた小妖が訝しげに見上げた。

「殺生丸様?」
「私は少し出掛ける。阿吽と共に此処に居るがいい。」

 問い掛けの言葉を命令で遮って、大地を蹴る。

 遠くこんもりと生い茂って見える森は、犬夜叉が封じられていたその場所。
 其処が朧げな燐光を発している様に見えるのは、異母弟が封じられてすぐの頃、殺生丸がその森全体に施した結界のせいだった。
 特に誰かを排除しようとか、攻撃しようとかいった意味合いを持つ結界では無く、ただ防御の役割のみを果たすその結界。外部からの攻撃があればそれを防ぎ、封じられた犬夜叉の体力が弱まれば結界に満ち溢れた殺生丸の妖力がそれを補う…封じられる前の状態をそのままに目覚めの刻を迎える様にと、そんな願いをもって。
 尤も異母弟が目覚めを迎えた今、その結界は既に役割を終え、消えかけているけれど。

 …我ながら、随分と甘いことだな。
 異母弟であるあれを失いたくないと、そう思ったということか?

 自問に返る答えなどある筈は無く、殺生丸はただ匂いを追うことに集中した。



「だから、あたしは”か・ご・め”よ。桔梗なんて名前じゃないって言ってるでしょ。人違いよ、人違い。そりゃあ助けて貰ったのには感謝してるけど、『てめえ、桔梗っ』なんて怒鳴られる覚えはないわ。」

「しかしお主、本当に桔梗お姉様に良く似ている…。言葉遣いや立ち居振る舞いは天と地の差じゃが、気配というか…魂が同一のものの様じゃ。」

 人より感知野の広い妖の耳が捉えるのは、未だ十代も半ばの、人間の少女の声。続けられたのは、高齢の域に差し掛かる老婆の声。
 ―――そして、聞き覚えのある名―――”桔梗”。

 成る程、五十年の歳月というのは人にとっては長いもの。犬夜叉を封印した巫女の妹がこの老婆であり、どういう経緯か”桔梗”の魂が生まれ変わった存在…がこの娘ということなのだろう、と瞬時に悟った。

「どういうことでえ、楓ばばあ。」

 続いて耳に入って来たのは、記憶にある、懐かしさすら覚える声。

 ”犬夜叉…。”

 異母弟の名を無意識のうちに口の端に乗せた殺生丸の呟きは、今は閑散とした森の中にとけて消えた。



 それから暫く、村人達も交えて犬夜叉と楓の間に言葉の応酬が続いて。目覚めたばかりだと言うのに、封じられる前より更に人間に馴染んでいるではないか、と殺生丸は苦く笑う。
 四魂の欠片をめぐってどんな経緯で異母弟が封じられたのかなど、知りはしない。それでも『人間としての生を選ぶ』という異母弟の当初の目的は達せられたのかもしれなかった。…尤も、半身である人間の巫女が居なければ、それとて意味の無いことやも知れないが。

 やがて村へと戻って行く人間達と別れた犬夜叉が、自らが封じられていた大樹の根元に戻って独り佇む気配だけが残って。異母弟はそっと幹に手をあて、何かを感じ取るかの様に身を寄せている。

 一体何を、しているのか。封じられて尚、生の世界と死の世界に分け隔てられて尚、愛おしまずには居れぬ”桔梗”の面影でもその封印の痕から感じ取っているという事か?

 胸の奥に宿るちりりとした痛みは、異母弟が”人間としての生を選ぶ”と言い放ったその瞬間にも感じたもの。
 その痛みの意味を今は考えぬ様にと誤魔化して、殺生丸はさくりと歩みを進めた。
 此処へ足を向けた時から、己の気配は完全に絶ってある…このまま立ち去れば、兄が此処に来たという事すら異母弟が気付くことはあるまい、とそんなことを思いながら。

 注意力が散漫になっていたのかも知れない、心を悩ます思考を無理に追い払おうとしていたが故に。
 いつの間にか大樹の下を離れ、何かを探し求めるかの様に森の中を歩き始めた犬夜叉の気配に殺生丸が気付くことは無く…無意識の内に進んだ先で、彼らは意図せぬ再会を果たすことになる。

 がさりと響いた己以外の足音にはっとして視線を向けた先に、やはり瞳を見開いて立ち尽くす異母弟の姿。
 互いの姿を視界に映したまま、一歩も動かず。…否、動けずに。

「兄…上…」
「…久しいな、犬夜叉。」

 漸く紡ぎ出した言葉。
 薄暗い夜の森の中でこうして向かい合うことが、既視感を呼び起こす。まるで五十年前の再現であるかの様に。





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