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落華 * 四の巻





 兄が自分に独立出来るだけの力をつけさせようとしているのは分かっている。
 ただ…一人で外界へ出るのは本当に久し振りで。人間の里で暮らしていた頃の彼らの冷たい仕打ちの記憶と相まって、それは少し恐ろしかった。

 ―――とはいえ、殺生丸が犬夜叉を住まわせていたその場所は人里からは遠く離れた場所…ほんの僅かそこから離れてみた所で、滅多に人にも妖怪にも会う事は無い。
 どちらの方向に何があるのか、この付近の地理を少しでも頭に入れておこうと森の中を駆け回って最初の一日は暮れて行った。

 日が沈む頃に屋敷へ帰ってみると、兄は其処には居なくて。
 犬夜叉が此処へ連れて来られた当初から兄の傍に仕えている小妖が、彼の兄は出かけているとそれだけを告げる。

「…何処…行ったんだよ…?今日俺に一人で外へ行けなんて言ったのは…兄上が何処かへ出掛ける用事があったからなのか…?」

 悔しい様な、哀しい様な、そんな心地が犬夜叉の胸を襲った。
 今まで…兄と暮らし始めてからもうどれだけの年月が経ったのか明確には分からないけれど、その間兄は常に自分を気に掛けてくれていたと思う。口数が少なくても、その瞳を伏せていても、その瞬間確かに兄の『一番』は自分だったと確信するのは幼さの為せる業だろうか。

「どこに行かれたかなんぞわしは知らん。殺生丸様は御忙しいのじゃ、そう貴様なんぞにかかずらっておられる暇がある訳無かろう。」

 憎まれ口を叩く小妖をぐっと睨みつけると、犬夜叉はそのまま自分に与えられた部屋に篭った。
 そうしてその日、兄が帰って来たなら今日の事を聞いてみようと随分遅くまで起きて待っていたものの、求める影は屋敷に戻って来た気配すらなく。いつの間にか眠ってしまった犬夜叉は翌日の朝、普段の習慣通り夜明け前に目が覚ましたのだった。
 しかしその朝も兄の姿は何処にも無く…ただ部屋の片隅にその従者が居眠りをしながらうずくまっているだけだ。
 何をするでもなく時間が過ぎて、太陽が中天にまで昇った頃。
 もし兄が此処に居たならば自分がこうして無為に時間を過ごす事を良しとはせぬだろう、とふと思い、漸く昨日と同様に屋敷を後にして森の中を廻ってみる。…今日は昨日行ったよりもほんの少し遠くまで。

 何もかも特に代わり映えのする出来事は無く、突然周囲の様子に変化が生じたのは夕刻の事だった。
 兄との訓練で段々鋭くなっていった己の嗅覚に、遠くから生臭い匂いが付く。そして…肌に纏わり付くようなそれなりに大きな妖気。
 こちらに向かって近付いて来ている様に感じられるそれに、犬夜叉は思わず身体を強張らせた。

 ―――兄は居ない。
 いや、兄はこういう事に対処出来る様にと一人で己を訓練に出したのだろう。教えて貰った事を糧に、一人で何とか敵を遣り過さねばならないのだ。

 そうは思っても、実際に己を殺そうと立ち向かって来る敵と対峙した事など無く…無意識の内に足が震えるのを止められない。

「何だ、ガキか…まあいい、貴様、俺の腹の足しになるがいい。」

 ややあって木々の間から現れたのは、背丈が犬夜叉の数倍はあろうかという青鬼。こんな敵を相手に自分の爪や剣などで太刀打ち出来るのだろうか。
 此方の不安が伝わったのだろう、青鬼は益々威嚇するかの如く低い唸り声を上げながら犬夜叉の方へと近付いて来る。
 必死で繰り出した爪は、己の当初の予測通り敵に掠り傷一つさえ負わせる事は出来なかった。兄から与えられた剣を抜いて斬りかかっても、それはやはり同じ事。

「…っ…どうすりゃいいんだよ…。」

 万策尽きた犬夜叉の首に、容赦無く青鬼の指が掛けられる。ぎりぎりと込められていく力に最後の抵抗とばかりに抗ってみても、力の差は隠し様も無い。
 もう此処で死ぬしかないのかと諦めかけた時、青鬼の身体ががくりと揺れて地面に倒れた。

「……?」

 驚いたのと安堵とで尻餅を付きながら顔を上げてみれば、其処にあったのは心の何処かで助けを求め続けていた相手の姿。
 間一髪で助けてくれた兄に礼を言おうとして…けれど、もう見慣れた筈の黄金色の瞳に今は何の表情も浮かんではいない事に気付く。

「死にたいのか。」

 普段と違う兄の様子に思わず黙りこくった犬夜叉に掛けられた兄の第一声はそんな一言。
 …”死にたい”なんて、そんな事ある筈が無いのに…どうして兄上はそんな事を言うんだろう。

「敵を倒せぬのなら死んで行く…それが自然の掟だと、私は何度もそれをお前に教えた筈…いつまでも子供のままでいられるとは思わぬことだ。」

 そう言葉を続ける兄の横顔はぞっとする程に怜悧で。

「…半妖だからと言って容赦するつもりは無い、お前が我が一族として恥ずかしくない力を身につける事が出来なければ、私が自らとどめをさす。」

 感情の見えぬ表情のまま、兄は平然とそんな事を言う。
 …これが、一緒に暮らし始めてからいつも不器用な優しさで自分を包んでいてくれた兄なのだろうか。
 犬夜叉が戸惑いを隠しきれずにただ『兄上…』と呟いた時、殺生丸は一瞬僅かにその眉を上げた。

「―――私をそう呼ぶのも今を最後とすることだ。同じ血が半分流れている事は否めぬが…な。」

 つまりは自分と兄弟であるという事を兄上…彼は嫌がっているのか。
 犬夜叉は胸を覆う悔しさや憤りや…そして寂しさを隠すかの様にそのまま一目散に屋敷へと戻ったのだった。
 ―――外で起きた事が…全て悪い夢か何かであって欲しいと、そう切に願いながら。





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