novels index




落華 * 弐の巻





 それから数ヶ月―――母である十六夜の容態は一進一退を繰り返していたが、とうとう来るべき時が目前に迫っているかに思えた朝。
 隣の室に居た犬夜叉を、母親の細い声が呼んだ。

「なあに、母上…?」

 襖を開けて枕元へ寄れば、彼女は僅かに濡れた瞳で此方を見つめていた。

「許しておくれ、犬夜叉…私のせいでもうすぐ一人ぼっちになってしまう…。」

 死期が近い事を彼女自身も分かっているのだろう、その母の肩の辺りで不意に小さな生き物がぴょんぴょんと跳ね上がった。

「気をしっかりお持ちなされ、十六夜様。御屋形様はいつでも貴方に笑って生きて頂きたいと仰せになってこの冥加を遣わされたのじゃ。」

 励ましているのだろうその声は人間で言うならば十分に年を経た翁のもの。
 姿形を近くでじっと見ればそれは下手をすれば指の先で潰してしまえそうな程のノミの姿をしていた。
 ノミの妖怪…なのだろうか。

「…そうですね、冥加爺。でも…私が逝ったらどうか犬夜叉を頼みます。」

 小さく語りかける母の声はもういつ絶えても不思議な無いというほどに細い。

「は…母上。あの、これは…誰?」

 思わず問い掛けた犬夜叉へ十六夜はふっと優しく笑んだ。

「…あの方の側近だった爺ですよ、犬夜叉。いつも私達を影から見守ってくれていたのです。」

 一度も会ったことの無い父が、自分達の身を心配してこうして従者を付けてくれていたのか。
 そしてそれは紛れも無く自分に流れている半分の妖怪の血の存在を濃く浮き立たせる。

『時の変わり目がもう近い。』

 己の異母兄であるのだという白銀の妖怪の言葉もまたいつも以上の重みを持って彼に圧し掛かって。

「半妖であるお前は唯人よりは寿命が長く、妖怪としてはいくらあの方の血を引いたと言っても半端な存在でしょう。けれど、お前の望む通りの一生涯を過ごしてくれることが…母の…そして多分あの方の最期の願いです。」

 十六夜はそれだけを告げると、少し疲れたと言ってまたゆっくりと目を閉じた。



 その日の夜半過ぎのこと―――屋敷はいつもの様にしんと静まり返って、十六夜はと言えばまるで息をしていないかの様な静けさで横たわっていた。
 傍らで黙って膝を抱える犬夜叉の肩には、心配そうな表情を浮べた冥加が座っている。

 不意に庭にざあっと音を立てて風が吹き、月明かりに照らされた障子にすらりとした細身の影が映った。
 何だろう、と思う前に犬夜叉はその影の主に心当たりがあったし、冥加の方はその大きな妖気に僅かに身を強張らせたのだったが。
 音も無く開かれた障子の外側には月光に照らされた白銀の姿が眩しい。

「…っ殺生丸様…。」

 冥加が小さく上げた驚きの声には見向く事無く、殺生丸は静かに室内へと足を踏み入れて犬夜叉の向かい側へと腰を下ろした。

 と、まるでそれが合図であったかの様に十六夜の瞳がぼんやりと開けられて。徐々に焦点が合うにつれてその視線は驚愕に彩られている。

「闘牙様…迎えに来て下さったのですか…?」

 母として犬夜叉に語りかける時よりも随分と頼りない声音。
 明らかにかつて愛した妖怪の面影をその息子に重ねたのだろうが、殺生丸は一瞬ぴくりと眉を上げただけで否定も肯定もしなかった。
 それでも十六夜の貌には柔らかい笑みが一杯に広がり、やがてその身体から力が抜けて。魂が黄泉の国へと旅立った瞬間だったのだとその場に居た誰もが感じた。

 殺生丸はそれから暫く何かに想いを馳せる様にじっと瞳を閉じたままで。残る二人も近しい人の他界を哀しみつつ、この白銀の妖怪の動向を窺って沈黙を守る。

 母が最期に口にした言葉が自分にではなく己が父親に向けてのものだった事は、別段犬夜叉の心を苛みはしなかった。
 あの瞬間の全てに安らいだ様な微笑がこれまで見た母の表情のうちで一番幸せそうなものだった事を思えば、形代とは言えそれを母に与えてくれたこの異母兄に感謝するべきなのだろう。

 …兄上は…父上に似ているのかな…。

 ふっと心に湧いた疑問はいつか傍らにいるノミ妖怪にでも尋ねる事にして今は胸の内にしまっておく。

「…冥加…父上から何か遺言を聞いているか。」

 長い沈黙の後で殺生丸がぽつりと口にしたのはそんな言葉。
 慌ててぶんぶんと首を振る冥加に殺生丸は小さく息を付いて立ち上がった。そのまま庭先へと去り行こうとする背へ、犬夜叉が慌てた様に呼びかける。

「…何処へ行くの、兄上…?」

 心の何処かで期待していた。
 母の死に目にその魂を送りに来てくれたのなら、このまま自分の行き先を定めてくれるのでは無いのかと。
 あるいは彼と共に連れて行ってくれるのでは無いのかと。
 半妖としての己の身の振り方を未だ定められていない己を助けてくれるのでは無いのかと。
 …極端に無口な異母兄だったけれど、今まで会った誰よりも信頼出来る相手の様な気がしたから。

「―――私は私の行くべき所へ足を向けるまでの事。決心が付いたかどうかと様子を見に来たが…人には哀しみに浸る時間も必要なのかも知れぬ。」

 それはつまり、犬夜叉自身が未だ道を選択していないのだと兄が見て取ったということ。

 …もしかしたら…兄上が道を決めてくれるかも知れないという俺の甘えに、兄上は落胆してしまったのだろうか…?

 一人になった瞬間以上の不安が小さな胸に帰来する。どくどくと、己の拍動の音が聞こえる程に脈が早まった瞬間、犬夜叉は兄の片袖に渾身の力で取り縋っていた。

「ごめんっ…兄上があの時言った事、ちゃんと考えるから…だから置いて行かないで…。」

 しっかりと掴んだ腕は振り払われる事は無く。かと言って肯定の返事がその形良い唇から漏れる事も無かった。
 腕にぎゅっと力を込めたまま、犬夜叉は祈る様な思いでその沈黙に耐える。

「…人の世界では生きられぬ……か…」

 まるで独り言の様な低い言の葉が紡がれた後、掴んでいた筈の場所にはいつの間にか何も無くなっていて。
 代わりにもっと幼い頃に母にそうされた様に身体ごと抱き上げられた。

「連れて行く―――それで良いな、冥加。」

 先程犬夜叉が急に動いた時にその肩から下りていた筈の冥加がいつの間にか再び肩の上に来て殺生丸へと頭を下げる。

「それはもう…しかし十六夜様の亡骸はどうなさるので?」

 殺生丸は思案するかの様に暫し口を噤んだが、やがて静かに言葉を放った。

「…いくら妖怪と想いを通じたと言っても…墓を作る位の情けは此処の人間も持ち合わせておろう。墓参りならばいつでも出来る。…朝になって誰ぞに見咎められても面倒だ。」

 夜が白む前に発とうと暗に告げているのだろう。
 兄の肩越しに見つめた母の死に顔が、犬夜叉が十六夜を見た最後になった。





Back || Index || Next
template : A Moveable Feast