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落華 * 壱の巻





 さんざめく女房達の笑い声や、公達の足音がひっそりと息を潜めた夜更け。
 一人の少年が病床についたままの母の傍をつと離れて、僅かに荒れ始めている庭へと足を下ろした。

 ここはそれなりに身分ある貴族の館の離れに当たる場所。
 それなのにも関わらず何故こうして庭が荒れ始めているのかと問われたならば、それは此処に住まわせられている母子の血筋のせいであった。

 ―――人間でありながら妖怪に心を奪われた姫君。
 そしてその父親である妖怪の命と引き換えに生まれて来た半妖の息子。

 この屋敷に仕える下働きの者でさえもその噂を知っている。
 姫君の生家は彼女が愛した妖怪によって火の海に包まれたという。この屋敷は姫君の叔父にあたる親戚の館で、館の一角を貸し与えられているとは云え母子に対する周囲の風当たりは厳しく、こうして人が眠っている刻にしかこの少年が外へ出られないのもその事が原因だった。

 庭に出たとしても何か珍しいものが目に入るでもなく、共に騒ぐ相手が居る訳でもない。ただ昼間と違って誰の目を気にする事も無く庭の池に足を浸したり、小さな石を水の中に放り投げてそれが描く波紋を楽しんだりするだけだ。

 …せめて母上の病が早く完治したならば。

 そんな事を願ってみるも、母の病は良くなる所か、どんどん悪い方向へと向かっている様に見えた。

「…くそ。」

 泣いてばかりいる時期は既に過ぎた。少しは自分の力で状況を打破したいと願うものの、どうする事も出来なくて苛立ちが募る。

 こんな時は、幼い頃…本当に幼かった頃の記憶がいつも胸に帰来した。

 ―――あの時俺は…母上の制止も聞かずに昼間にぶらぶら庭に出て。偶然本殿の奴らの目に触れて、そこで投げ付けられた冷たい言葉の嵐にただ立ち竦んで、慌てて逃げ出した先のこんもりと木々の生い茂った裏山で、初めて『妖怪』というものに会ったのだった。
 記憶に残るのは、白銀の影。そして低い声でぽつりと告げられた、言葉。

『お前が私を知らずとも、私はお前を知っている。』

 それは何処か哀しみの様なものを含んだ声だった気がするけれど、俺が初めて他人から聞いた悪意の無い言葉だった。
 名を尋ねても教えてはくれず、共に過した時間は一刻にも満たなかったけれど…彼に会った時何故か頬を伝っていた涙は止まり、頬に残った雫はその細い指先で拭われたのだ。
 また会えるかと尋ねた問いへは、さあ、と曖昧な返事を返したまま、彼は不意に空中へと飛び上がって何処かへ消えてしまった。

 ―――あの時の事は…母にさえ話していない。もうずっと前の事ではあるが、未だに心の中の聖域であった。
 もう一度、会えたらいい…そんな思いであれから何度も同じ場所へと足を運んでみたけれど一度もその願いが叶えられた事は無く、しかし今夜もまるで日課ででもあるかの様に少年―――名を犬夜叉という―――は生垣を飛び越えて裏山へと足を向けたのだった。



 しんと静まり返った深夜の大気と木々の匂いは、どこか神々しささえも感じさせる趣がある。
 冴え渡る月光は、今夜は丁度今東の空から上がってきた所だろうか。

 密かに求める相手はきっと今夜も居ないだろう、と一種諦めの様なものを感じながら登って行けば、しかしかつてと寸分変わらぬ場所にあの頃より僅かに髪が伸びた彼がまっすぐ此方を見つめて佇んでいた。

「…ぁ…」

 小さく犬夜叉の口から漏れた声にぴくりとさえ反応する事の無い堂々とした立ち姿に、まるであの日に還った様な心地さえして。

「時の変わり目がもう近い。」

 やはりあの頃と変わらない…謎かけの様な言葉。時の、変わり目…何の事を言っているのだろう。

「分からぬか。お前の母御…もうずっと病に伏しておろう。」

 何故母上の事を知っているのか―――いやそれよりも、変わり目という事は母上に何事かが起こると言いたいのだろうか。

「…助けてくれるの…?」

 一縷の望みを賭けて聞いてみれば、相手の眉がぴくりと動いた。
 彼の手がふとその腰にある刀の柄に添えられる。長い沈黙があった後、相手は其処から手を離し、ゆっくりと首を振った。

「…いや。」

 何故助けてくれないのか。そして助けてくれないのならばどうして今自分の前に現れたりしたのか。
 思わず大声を出して癇癪をぶつけてしまいそうになった時、相手がゆっくりと言葉を発した。

「お前の母御は『人』だ。人は我々よりも早く老いる…もし今自然の摂理を捻じ曲げて命を引き伸ばしたとしても、せんなき事だ。」

 老い…か。考えた事も無かったが、言われてみれば母の黒髪にはもう随分と白いものが混じっていて、小さな頃に頭を撫でてくれた指先にはもう幾多の皺がある。

「思い当たる節が有ろう。…母御の命の終わりが近いという事は…即ち半妖であるお前がどちらの世界に生きるのかを選ぶ時が近いということ。」

 静かな言葉が告げる内容は一種冷たくもあったが、間違いなく的を得ていた。

「今宵決めよとは言わぬ。人の世界で生きるならば…妖怪としての己に惑わされる事無く人として生きて行け。そして妖怪として生きるなら…お前の身に流れる血筋に恥じぬ強さを身に付けるがいい。」

 人の世界と妖怪の世界…か。どちらの世界も一人ぼっちになった己が生きて行くには厳しい世界に思えた。

 それにしてもこの妖怪は何故こんな事を告げるのだろう。
 …本当はもう、心の何処かで答えは分かっているけれど。きっと彼は、自分の中の妖怪の血に何らかの関わりがある相手なのだ。
 だが己の父は己が生まれたのと前後して他界したのだと母は言っていなかっただろうか。とするならばこの青年の姿をとった妖怪は自分の何なのか。

「今回も…名前を教えてはくれないの…?」

 不意に前触れも無く中空を見上げ、風に乗って去ろうとでもいうかのように数歩歩みを進めた相手の後姿へ小さく問い掛けた所で、彼の双眸がぴたりと己のそれを捉えた。

「殺生丸―――お前の異母兄だ。」

 異母兄…同じ父と異なる母を持つ兄。
 放られた返事は鋭く耳に残り、はっと我に返った瞬間には白銀の影は既に目の前から掻き消えていた。





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